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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
アヘン戦争勃発編
54/239

状況を進めるだけの回

すみません。状況を進めるだけです。

”クミン”の入ったお守りをもらい、心の休息を得た松陰は、それまでは高かったモチベーションを失い、やや弛んだ生活を送っていた。

 年が明け、年始の挨拶回りや初詣等、同居人が増えた江向杉家は中々忙しい。

 昇進し、大きな屋敷まで得た父百合之助を祝おうと、杉家の親族郎党が大挙して江向に押し寄せたのだ。

 既に松陰の名も知られ始めている。

 萩の町に広まっている柿の種、ポテチといった菓子を考え出したり、戦棋といった遊びを作ったのが、元服も迎えていない少年であると萩では有名であった。


 しかし、そんな忙しさの中にあっても、松陰は心ここにあらずといった風である。

 思い出した様にお守りを眺めてはニヤケ、時々鼻までもってゆき、深呼吸してはまたニヤケを繰り返していた。

 初めはそんな松陰を暖かく見守っていた面々も、一週間を過ぎた辺りから互いに顔を見合わせ、ひそひそと話し合う。

 「おにいちゃんが変!」「あそこまでとは……」「誰が言うのだ?」「言っても聞くでござるか?」「でもこれじゃあ……」等々。 

 

 昨年からの一連の流れを黙って見ていた父百合之助は、息子を心配する皆の気持ちに感謝すると共に、息子の体たらくに「いい加減にせんか! それがお前のやるべき事なのか!」と叱り付けたのだった。

 普段は滅多な事では声を荒げる事のない百合之助である。

 その怒りの形相に、はっとなった松陰は、今年がアヘン戦争勃発の年である事を思い出す。

 己のやるべき事を思い出し、深く反省し、皆に謝罪し、お守りは百合之助に預け、当分の間封印する事にした。

 そして、来るべきアヘン戦争に向け、準備を練る。 




 といっても、アヘン戦争勃発の報がいつ日本に来るのかは松陰も知らない。

 開戦は今年の6月のはずであるが、電話など無い時代である。

 知るのは、清国の商人が日本にやって来るか、オランダ商人が情報を持って現れるか、くらいだろう。

 琉球を通して清国と密貿易を行っていた薩摩藩から、というのは少々考えにくい。

 

 開戦の報もないのに清国に向かう事は出来ない。

 知らない間に歴史が変わっているかもしれないからだ。

 なにより、清国とイギリスとの戦が始まるという、松陰の言葉が本当なのかは、その報告がなければ証明されないのだ。

 散々あっちこっちで、清国とイギリスの間で戦が起こる、と訴えてきた松陰である。 

 これで戦が起きなければ、松陰の評判はがた落ちとなるだろう。

 周りにいる人は松陰の事を信じてくれているが、そうではない人もいる。

 まずは開戦の報を待つのが吉であろう。

 従って、それまでは当面、明倫館の兵学講義に専念する事を松陰は決めた。



   

 明倫館での講義に専念した松陰であったが、胸中は複雑であった。

 江向に建設中の明倫館ではなく、指月城内時代の明倫館であったのだが、通う者のやる気が感じられなかったのだ。

 明倫館は、長州藩士の、上級に当たる家の子弟が多く通う学校であった為と、太平の世が続いていた事が理由であるのか、皆安穏としている風に感じられた。

 村田清風が抜擢された様に、優れた人材が藩政に登用される事はあった長州藩であるが、基本は藩士から、という制約がつく。

 優れた人材以外であれば? 家柄の高い子弟が自動的に藩政を任されるのだ。

 学問以外に出世は見込めない下級藩士の子弟は、余程優秀でなければ明倫館に入る事は出来ない。

 もし入れたとしても、その様な校風であれば、染まってしまうのも人の常である。

 月に6日程度の講義という事もあり、もどかしい思いを抱いていた。


 それもあり、明倫館とは別に、江向――建物は建設中でも場所だけは整備されている――にて近所の子らに青空教室を開いた。  

 文之進の屋敷にて行っていた紙芝居などは、引き続き文之進が担っている。

 梅太郎、千代のコンビの紙芝居製作は継続中である。

 団子岩とは違い、微生物培養の専用小屋もある。そこで培養している麹を使い、甘酒も醸している。

 子供を集めるのは簡単であった。

 江向周辺の子供らを集め、洗脳に近い事を行い、心を慰める。

 された子供達はたまったものではないが、甘酒が体に良いのは何故か? といった事なので、問題ないだろう。


 それに関し、松陰は清風とも何度も話し合い、江向の新しい明倫館には、長州藩各地に散らばる、それこそ無数に存在する私塾や寺子屋からの選抜者も、通える様にする体制を整えてもらう。

 私塾を運営する者のうち、その資質のある者に藩が資格を与え、藩校明倫館への入学試験参加を認めるのだ。

 上級藩士の子弟は、無試験での入校を認める。これは今は仕方無い。

 しかし、下級藩士の子弟であっても、また百姓の倅、商人の倅であっても、優秀ならば明倫館に通える様にする。

 今はまだ、藩政への参加は望めなくても、いずれ松陰が出来る様にするのだから。

 でなければ日本を変える事など出来ないのだ。

 少なくとも、兵科を西洋式に変えるには、兵士だけでは足りないのである。


 砲兵になるには、ただ大砲を扱う方法だけではなく、火薬に関する知識、物理学――主に速度と射程距離、角度によって飛距離が変わる事など――までも身につけなければならない。

 無自覚に火薬を詰め、玉を込め、闇雲に撃った所で当たりはしないのだ。 


 砲兵を作ればそれを支える部門も必要となる。

 まずは製鉄。大砲がなければ砲兵も何もない。

 外国から買う事もできるが、それではお金がいくらあっても足りないし、独立国とはいえない。

 いずれは製鉄所の建造、運営が必須である。

 製鉄ともなれば、関連する学問も多岐に渡る。

 

 火薬を製造する部門も必要となる。

 当時の黒色火薬は硝石から作られる。

 硝石は硝酸カリウムであるが、その調達は、天然から析出する物を採取する外国からの輸入か、各国の経験でどうにかなっていた。

 原理としては、尿の中のアンモニアといった窒素化合物が、亜硝酸菌、硝酸菌の微生物の二段階に渡る酸化によって、硝酸塩である硝酸カリウムとなるのだ。

 西洋では、家畜小屋の壁、便所の土といった場所から析出する硝石を分離して得ていたが、戦乱の続いたヨーロッパでは、それでは足りなくなる。

 その為、安定して硝石を得る様開発されたのが、尿と、カリウムの供給源である木灰なりから、硝石を作り出す硝石丘である。

 硝石丘というと何やら特別な施設な印象を受けるが、実際は土、堆厩肥、木灰などを混ぜた土の塊なだけである。

 それを雨に当たらない様にし、尿を撒き、時々かき混ぜ、硝石の析出を待つのだ。

 水に溶かし、水分を蒸発させて濃縮し、硝酸カリウムを分離する。

 因みに、この煮出し作業は、猛烈に臭かったらしい。

 残ったアンモニアも煮るのであるから、相当強烈だろう。

 

 そして、海軍の創設も必要となるのだが、それには海兵の育成が欠かせない。

 操舵、操帆といった船の扱いだけでない。

 航海するには現在位置を特定する測儀術、測量の技術も身につけた人材が必要となる。

 大砲を撃つのは砲兵と同じであるし、海兵であっても学問は必須である。

 公海を航海するには国際法の理解も必要なので、簡単な話ではないのだ。

 

 しかし、アヘン戦争の見学という、無駄な時間に終わるかもしれない事を計画している今、それらに手をつける事は出来ない。

 大まかな方針などを清風と話し合い、清風でないと出来ない事をやってもらうに留める。

 戦争勃発の報が届けば、すぐに出発する事が出来る様、松陰はあまり手を広げず、現状維持で過ごす事を決めた。

 やりかけで出発する事は避けたいからだ。

 それに藩政改革は、アヘン戦争の見学から帰ってから、本腰を入れて行うつもりなのである。

 今のうちに何かに手を出して、下手に成果を上げてしまうと、後のハードルが上がるだけである。

 やり過ぎも考え物なのだ。




 そんな事とは露知らず、才太は大いに充実していた。

 穢多の集落に武道、茶道、和歌などを教えに行っているのだが、

人に物を教えるという行為が、ひどく心躍るものであったからである。

 それまでは、埋もれ木の様に、いつまで経っても花を咲かせられないと、自嘲していた直弼改め才太であったが、たとえ自分が花を咲かせられなかったとしても、人の花を咲かせられるかもしれないと考えると、それまでの苦労も意味のある、無駄な物ではなかったのだと、胸にすとんと落ちるものがあったのだ。

 それも立派な花だろうと思い至ったのだ。


 彦根藩の中では、藩主という大輪の花は咲かせられないのかもしれないが、別の場所では、たとえその花は小さくても、立派に咲かせられるのだと、無性に嬉しくなったのだ。

 勿論、発育の良い穢多の女衆に囲まれ、先生と呼ばれ、チヤホヤされた事も大いに影響したのだろう。

 才太も男なのである。


 そして、年が明け、雪が無くなった頃、才太は三郎太らを連れ、彦根に赴いた。

 彦根で作られている反本丸。その材料となる牛の肉。牛の肉を得る際に付随する脂。その脂を入手する算段を付けに、である。

 石鹸を販売するには、ある程度の量の脂、若しくは油の確保が欠かせない。

 集落の者らが期待する、重要な役であった。


 その一行には岩倉卿も同行した。

 今の段階での柿の種、ポテチの販売を京で試みるのだ。

 銭の為に、盗む必要のある知識はまだまだありそうなので、当分松陰から離れる気はないが、貧乏をしている家族の為にも、今の段階で出来る金儲けをさせるつもりなのだ。

 公家の屋敷で、公家の家族に、庶民相手に売るお菓子を作らせようなどとは、流石は岩倉卿。

 公家らしくない公家という評判は健在である。

 



 一貫斎は、顕微鏡の製作を変わらず続けていたが、どうにも行き詰まりを感じていた。

 顕微鏡の機構的な部分は問題ないのだが、レンズがどうにもしっくりこない。

 何故なら、一貫斎が持参したレンズは、もともと望遠鏡の為の物が多くを占めていたからである。

 従って、顕微鏡の為のレンズを製作しなければと考え、その旨松陰に伝える。

 一貫斎に必要と言われれば、それを否定する松陰ではない。

 持参した材料でレンズを作る、一貫斎と嘉蔵、お菊であった。


 因みに、当時のガラスは、中国から伝わった鉛と石英を使う技法により作られていた。

  



 そして、才太が居なくなった隙をつき、松陰はアヘン戦争に向かう為の船の建造に取り掛かる。

 船頭を任せる平蔵に頼み、確かな腕をもった船大工の下を訪れた。

 清国行きを冗談だと思い込んでいた平蔵は大層驚いたが、清風からの指示書に、やっと本当の事なのだと理解し、以後気を引き締めて事に当たるのだった。

 幕府に見つかれば密航としか取られないこの企みに、何も知らない者を巻き込みたくない平蔵は、海を渡る腕は確かであるものの、反骨精神に富んだ者を船員として選んだ。

 結果、柄の悪い者らが集まる少数精鋭集団となってしまう。


 船の改造に関しては、船大工に任せるしかない。

 目的を告げ、それに対する対処法を問い、対策をお願いした。

 船の遭難が起こる度、心を痛めていた船大工は、松陰の頼みを前向きに受け止め、全力を尽くして取り組む事を約束してくれた。


 こうして、松陰の日常が過ぎてゆく。

 

関連会社の工場が爆発し、定時で終了。

もしかしたら、明日からお休み?

昨年10月から、火事は起こるは、関連会社で爆発事故があるは、また爆発事故が起こるとは。

もしかして呪われてる?


とはいえ、怪我人が出た様なので、その方々の速やかな快復を祈っております。

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