ある商人の憤り
今回も、あまり関係ない話です。
「全く何たる事だ! 勘違いも甚だしい!」
自身の屋敷に戻っても、その男の憤懣は消えなかった。
イギリス議会への意見陳情からの帰りである。
男は、愛する娘の前では冷静な父親でいたかったが、中々それも難しい。
妻は社交界に出かけていて不在である。
久しぶりの我が家であるのに、一家団欒もない。
「どうしたのですか、お父様?」
娘のジョセフィンが男を心配し、座ったソファーから顔を上げ、声をかけた。
遠い清国での貿易より戻ったばかりの男。
疲れが取れていないのは、その顔色を見れば分かる。
「どうしたもこうしたも無い! あの議会の堅物共は、中国人という者を全くわかっておらんのだ!」
男は先程まで議論を戦わせてきた議会の面々を思い出し、吐き捨てる様に言う。
ジョセフィンは、男の心労を心配しつつも、かねてより抱いていた疑問を口にした。
「でも、お父様、アヘンは体に悪いのではなくて?」
「おお、ジョセフィン! お前までそんな事を!」
この男はアヘン商人であった。
愛する娘にまでそう言われ、男は崩れ落ちる様に娘の向かいのソファーに腰掛けた。
召使に命じ、紅茶を持って来させる。
一口口に含み、その豊かな香りを堪能し、高ぶった気分を落ち着かせた。
初めは緑茶、今では紅茶がイギリスでの流行である。
そのいずれも中国からの輸入であった。
思えば、このお茶が全ての始まりなのだな、男はふと可笑しくなった。
「いいかね、ジョセフィン。アヘンは健康を損なう物ではないのだよ。」
それにはジョセフィンも吃驚した。
「え?! でも、自由党の人は、アヘンで中国の人が大変な目に遭っているって……」
「それが勘違いなのだよ!」
男は言葉を続けた。
「いいかね? アヘンは我が国では禁止されてはいない。それはお前も知っているね?」
「ええ、知っているわ。」
そう、アヘンはイギリスでは禁止されていない。
アヘンどころかコカインも普通に販売されていた。
有名な小説の主人公シャーロック・ホームズも、事件が無くて憂鬱な時には、コカインをキメてハイになっていたらしい。
尤も、当時のイギリスではアヘンを経口で服用し、喫煙では使用しなかった様である。
経口ならば吸収は緩やかであり、喫煙程には中毒性もなかったらしい。
また、たとえ中毒者がいても、気にはしなかった様である。
「ジョセフィン、お前は土曜の夜のロンドンの町を知っているかね? 酔っ払いが奇声を上げ、所構わず嘔吐し、そこら中に寝転がり、通行人を妨げ、嫌がる婦人に絡み、果ては喧嘩に至り、警察の厄介になる、あの惨状を!」
「私は直接見た事はありませんが……」
「見に行くなど絶対に止めておけ! いいね?」
娘に何かあっては耐えられない。
男は娘に釘を刺した。
「反対に、中国のアヘン飲用者を見たまえ! 静かに瞑想し、誰に迷惑を掛けるでもないのだよ!」
アヘンの煙を吸うと無気力になるのは述べた。
酒を飲んで騒ぐのに比べ、周りにとって無害と言えば言えなくもない。
「彼ら中国人は、アヘンが好きなのだよ! ウイスキーを飲んで憂さを晴らし、騒いで周りに迷惑を掛ける事を選ぶより、アヘンを吸って静かに疲れを癒す事を尊ぶのだよ。彼らは騒いで礼を失する事を恐れるからだ!」
これにはジョセフィンも言葉がない。
はい、そうですか、としか言いようが無い。
「でも、体には悪いのではなくて?」
ジョセフィンは仕方なく、健康面での害悪を述べてみた。
「ウイスキーの飲みすぎが健康を損ない、タバコが咳を引き起こす程度にはアヘンも体に悪いだろうね。でもね、アヘンを吸っているのは中国人のどれだけかね? 彼ら全員が健康を損なっているのかね? このイギリスでもウイスキーに溺れ、健康を損なう者は多いが、大多数は程ほどに嗜み、快活な生活を送っているではないかね?」
当時の世界では、アヘンの中毒性は認められていたが、それがどの程度なのかは、意見の分かれる所であった。
酒、タバコと同程度の物なのか、より害悪な物なのかは、決着のついていない問題であったのだ。
したがって、この男の見識は、当時としては間違ってはいない。
「中国人も、アヘンを嗜むそのほとんどが、適度に楽しみ、健康を損ねてはいないのだよ。勿論、何処の世界にもやりすぎる者はいる。中国でも、ここイングランドでもそうだ。しかし、それは個人の資質の問題であって、アヘンに帰する問題ではあるまい?」
確かに、中国のアヘン常習者であっても、そのほとんどは日常生活に支障も起こさず、仕事に励み、交友関係も疎遠にならず、たまにアヘンを嗜んで、疲れを癒す程度であった。
そう、この男が実際に見聞きしたであろう、富裕層においては。
貧民においては事情は一変するのだが、この男はそれを知らない。
若しくは、意図的に目を逸らしていたか……。
「それにだ、そもそもアヘンは中国でも作られているのだよ。ケシは栽培され、アヘンは製造され、市場に流通している。どうして我々が売ってはいかんのだね? しかもだ、中国製のアヘンは粗悪な上に高いときてる! 品質が良く、しかも安いインド産のアヘンは、彼らにとって無くてはならない物なのだよ! 我々は、彼らのニーズを満たす為に苦労して輸出しているのだ!」
成程、言う事はいちいち尤もだと、ジョセフィンは思った。
しかしながら、それを差し引いても大きな問題がある。
「でもお父様、清国はアヘンを禁止しているのでしょう?」
それが一番の問題である。
男がイギリス議会に呼ばれたのも、それが原因であった。
アヘンの輸入禁止を求め、清国の役人がイギリス商人を武力で脅し、公海上の荷物を没収し、勝手に処分したのである。
各国はその国の実情に合わせ、物品の輸出入を差し止める事が出来る。
しかし、それは貿易相手国の商人の私有財産を勝手に没収し、処分出来る事を意味しない。
商人の私有財産を武力で脅し、没収すれば、それは国家の行う海賊行為である。
法治の概念の薄い中国においては、得てしてそういう事が多かったのだ。
この不当な行いに抗議し、報復を訴え、自由な貿易を実現する為、アヘン商人である男はイギリス議会で意見を述べたのだ。
その際、アヘン貿易の不当性を訴える議員らによって、清国が禁止している物を密輸する事の是非が取り沙汰されたのだ。
「ジョセフィン、お前は中国人を知らないからそんな事が言えるのだ。彼らに約束を守るという言葉は通じないのだよ!」
「どういう事ですか、お父様?」
議会でも訴えた事を繰り返すのは疲れるが、そこの所は避けては通れない。
男は深呼吸し、気を落ち着かせ、感情が高ぶらない様に努めながら言葉をつないだ。
不用意に話し始めれば突如激昂し、愛する娘を罵倒しかねない。
「彼らは約束という物を、その場をやり過ごす為の方便としか思っていないのだ。口約束だろうが約束は約束という、我々なら子供でも理解している事が、不思議な事に彼らには通じないのだ。」
ジョセフィンには信じられない。
守られない約束は、果たして約束と呼んでいいのか分からないのでは?
そう聞きたいが、止め、別の事を聞く。
「どういう事ですか、お父様? 約束を守らなくて、どうやって商売をなすのですか?」
いついつに売買を行いましょう、という約束が守られなければ、どうやって商売を行うというのだろうか?
ジョセフィンは男の言葉を待った。
しかし、男は答えない。
訝しげに見やるとジョセフィンはギョッとした。
男の顔は真っ赤で、コメカミは細かに振るえ、怒りを抑えているのがはっきりと現れていた。
震える手で紅茶を口に運び、飲み干している。
ジョセフィンはそれ以上何も言わず、ただ男の怒りが収まるのを待った。
下手につついて薮蛇になっては堪らない。
暫く無言でお互い紅茶を飲み続けた。
召使は気を利かせて、ポットにお湯はたっぷりである。
落ち着いたのか男が再び口を開いた。
「すまんな、ジョセフィン。思い出して怒りが湧いてな……。そうなのだ、商売にならんのだよ。大変な時間と苦労をかけて、価格と期日を決めて、喜び勇んでその期日を迎えると、あっさり約束を反故にし、やれもっと安くしろだの、これが気に入らないだのと言い始めるのだ。だったら初めから約束を交わすんじゃない! と何度思った事か!」
言いつつコメカミはピクピクしている。
余程許せないのだろう。
「商人でさえその調子だよ。彼らを監督する役人となったら、一体どれ程のモノか、ジョセフィンには想像もつかないだろうなぁ。それは全く幸せな事だよ。」
心底うんざりした顔で、男は呟いた。
まるで他人事の様な風にも聞こえたが、そうでもしないと耐えられないのかもしれない。
「でもお父様、役人がそんな調子で、外交なんて出来るのかしら?」
ジョセフィンの口にした疑問に、ふいに「くっくっく」と忍び笑いが聞こえてきた。
勿論、男である。
ついに「あーはっは!!」と大笑いを始めた。
ジョセフィンは驚いて男を伺う。
男はひとしきり笑ってから、目尻を拭い、娘に謝った。
「いや、すまん、すまん。つい、な。お前が外交なんて言葉を使ったものだから可笑しくなってな。外交、外交か……。そもそも彼らに外交をしよう、外の国と付き合おうなどという考えはないのだよ。」
「どういう事ですか?」
理解できず、聞いた。
「彼らはこの世界、彼らに言わせると中華、らしいが、その頂点にいるらしいよ。中華の覇者が清国皇帝らしい。我々は夷狄といって、彼らにとって遠方の、一蛮族らしい。中華の覇者たる彼らにとって、一蛮族に過ぎない我々と、対等に付き合おうなどという考えは、一切起こらないらしいよ。」
「では、今お父様が行っているのは何なのですか?」
中華の覇者はいいが、今現在清国とイギリスでは貿易が行われているのだ。
「朝貢貿易と言ってね。彼らにとっては、遠い蛮族の住む土地からわざわざやって来た我らに、彼らのお情けで、我らの望むお茶を恵んでくれている認識らしいよ。その代わりに我らは銀を差し出すという寸法さ。貿易とは考えていないらしい。彼らに対等な外交関係は存在しないらしい。何せ彼らは、世界の中心の覇者だからね!」
ジョセフィンは、男の言葉に開いた口が塞がらない。
未だかつてその様な傲慢な考えを持った国があっただろうか?
いや、傲慢と言うよりは世間知らず、であろうか?
沈まぬ太陽たる大英帝国という考えもあるにはあるが、それとてもスペインの無敵艦隊を破り、インドまで艦隊を派遣し、世界中に植民地を獲得したその実績から出る自負である。
翻って、中国の場合、”元”がヨーロッパまで版図を広げた過去があるにせよ、それはもう600年も前の話である。
それに、世界は広いのだ。
ジョセフィンには理解出来ない。
「だからなのだろうな、アヘンを禁止するというのも、ただの方便なのさ! おおかた、銀の流出が気に食わないのだろう。それに、かの国では、上に政策あれば、下に対策あり、と言われるくらい、国の中でバラバラなのだよ。上層部がいくらアヘンを禁止した所で、無駄さ。我々がそれを気にして輸出を止めた所で、代わりにアメリカ、ポルトガルが持ってゆくに決まっている! みすみす、彼らに儲けをくれてやる必要はあるまい! それに、アヘンはインドの農民の重要な稼ぎ頭でもある。彼らを路頭に迷わせるのかね?」
史実では、アヘン戦争終結よりおよそ30年、1870年代には彼らイギリス人のアヘン商人は中国より撤退する。
何故かと言えば、中国国内でのアヘン製造の規模が拡大し、品質も上げ、インドからの輸入物が価格で太刀打ち出来なくなってきた事と、アヘン貿易を中国人、インド人、ユダヤ人商人に奪われたからである。
アヘン戦争のきっかけともなった、清国によるアヘン禁止令とは一体何だったのか?
その先に待つ未来を知らず、男の憤りは治まる気配はない。




