欽差大臣林則徐
今回の話はwikiのまとめの様な感じです。
読まなくても物語に影響はありません。
林則徐は義憤に駆られていた。
祖国の危機を前に、居ても立ってもいられなかった。
祖国の為に出来る事は無いか常に考え、実行してきたのが彼である。
イギリス商人が密かに持ち込んだアヘン。
大量に持ち込まれたアヘンによって、吸入の悪癖が庶民にまで広まってしまっていた。
驚くべき数字がある。
1800年に60キログラム入り4500箱(270トン)のアヘンが清国に入っていたのだが、1830年には2万箱(1200トン)、1838年には4万箱(2400トン)が流入していたらしい。
比較までに、日本における不正薬物の押収量は、年間1トン程度である。
仮に、流通量が押収量の100倍であったとしても、それでも日本に流通しているのは100トンにしか過ぎない。
当時の清国の人口は4億を超えていたとはいえ、どれ程の数の人民がアヘンを吸入していたのか、考えるだけで恐ろしい……。
因みに、アヘンはケシの実から採取される。
開花後、花びらの散った未熟果に傷を入れ、出てきた乳液を採取するのだが、これが生アヘンである。
ケシであるが、種はアンパンの上に乗っている、あの小さな粒々のあれである。
あれを撒けばケシが育ち、アヘンを採取できるかもしれないのだが、残念ながら市場に出回っているケシの実は熱処理されており、発芽しない。
アンパンを土に埋めてもケシは育たないので、そこの所は注意が必要である。
この生アヘンを精製する事によってアヘンが生成される。
アヘンは10%のモルヒネを含み、鎮痛や麻酔作用など、顕著な薬効を持っていたので、古来より珍重されてきた。
どのくらい古来からかというと、紀元前3400年のメソポタミアの頃から、である。
以来、痛みに苦しむ人々への処方箋として使用されてきたのだ。
江戸時代の日本でも、アヘンはその薬効から高値で取引されていたが、流通量は少なく、煙を吸入する習慣はなかった。
そのアヘンであるが、燃やし、その煙を吸入すると、夢心地になるのか無気力となり、ただ寝そべって、アヘンが無くなるまで吸い続ける事になる。
中毒性があり、禁断症状もある為、一度魅力にはまれば、それを断つのは非常に難しい。
アヘンの害は、中毒性、禁断症状といった直接的なモノだけではない。
間接的な害としては、無気力となるので仕事もしなくなり、経済は停滞する。
仕事をしなくなれば給金も手に入らなくなり、そうなればアヘン代欲しさに盗みを働くか、女であれば体を売って代金を得るまでになる。
人心は乱れ、治安は悪くなり、社会は不安定となるのだ。
また、アヘン購入の代金はイギリス商人に支払われる訳であり、支払われた銀が清国から流出する事によって、清国内での銀の価値は高騰した。
1830年代末、国家歳入の実に80%もの銀が、アヘンの購入代金として国外に流出したのだ。
そうなれば清国内の銀貨の流通量は減る。
18世紀末、銀貨1両が銅銭700文程で交換出来ていたのに、1830年代末になると、最大で2000文にまで跳ね上がったのだ。
当時の清は税を銀貨で納める事になっていた。
庶民が普段手にしていたのは銅銭であったので、税を納付する為には銀貨に交換する必要があった。
以前は銅銭700文で銀貨1両となっていたのに、2000文を出さねばならなくなったのだ。
それはつまり、税が倍以上になったのと同じである。
アヘン禍が庶民の暮らしを直撃する。
そして、禁制品であるアヘンが国内に蔓延するというのは、つまりは役人がそれを見逃している、と言う事なのだ。
イギリス商人の遠慮の無い賄賂――それは取りも直さず、アヘン密売が大変に儲かるという事を意味する――によって官僚の風紀は乱れに乱れた。
上がそうなら末端はそれに輪を掛け、公金の着服、横領、賄賂の要求といった事に手を染めるのだった。
取り締まるべき側がそうなってしまえば、アヘンを密売する犯罪組織は更に勢力を拡大し、公然と密売を行う様になってゆく。
勤労意欲が失われ、風紀は退廃し、経済は停滞し、国家の税収も減ってゆく。
そうなれば国は税率を上げざるを得ず、庶民の生活は益々苦しくなる。
賄賂やアヘンの密売によって金持ちは更にお金を得、貧富の格差は大きくなり、庶民の間に拭えぬ不満が蓄積されてゆく……。
勿論、全てがイギリス商人の責任ではない。
17世紀から18世紀に渡る乾隆帝らの御世によって清国は大きく発展し、領土が増えた。
経済は発展し、人口も爆発的に増え、乾隆帝の頃には人口は二億人を越えるまでになった。
しかし、爆発的に増えた人口を養うだけの農地は確保できず、度々飢饉が襲い、餓死者が出る。
また、乾隆帝は優れた皇帝であったが、その在位は六十年に及び、そうなってくると、どうしてもお気に入りの家臣に権力が集中してしまう。
権力の集中は、不正の温床である。
乾隆帝に重用されたヘシェンという家臣は、その権力を用い、国家の歳入の10数年分にあたる不正蓄財をした程なのだ。
上がそんな不正をすれば、下もそれを見習うのが世の常である。
国は繁栄していたが、その裏では様々な矛盾、腐敗が横行していた。
しかし、どんなに社会に不正が横行しようとも、決して己はそれに染まらぬ、清廉潔白の士はいるものである。
林則徐はまさにその様な人物であった。
林則徐は1785年に旧福建省に生まれた。
父親は科挙に悉く失敗した貧しい教師で、その無念を晴らすべく勉学に励み、27歳の時に科挙に合格、進士となった。
地方官を歴任し、当時大きな社会問題となっていた農村の再建と、それに欠かせぬ治水に取り組み、数々の業績を上げてゆく。
また、自身は賄賂など一切受け取らず、逆に不正をなした官吏の一斉処分を行った。
それらによって人心の刷新を図り、民衆の支持も得ていく。
1837年、湖広総督(現在の湖北省、湖南省を併せた地方の長官)に任命され、任地でのアヘンの流通、使用を厳しく取り締まった。
その結果、管内のアヘン使用者は大幅に減り、アヘン根絶に向け、確かな実績を残してゆく。
そんな彼に転機が訪れた。
アヘン撲滅の為の上奏文が時の道光帝に評価され、1838年、欽差大臣に任命されたのだ。
欽差大臣とは、ある特定の事柄に対し、皇帝からの全権を委任されて対処する臨時の官職である。
官僚の不正が横行する中、林則徐を登用した道光帝の英明さは特筆に価するであろう。
その後の展開はあれなのだが……。
1839年、林則徐は当時西洋に開かれていた貿易港のあった広東に赴き、商館に滞在していたイギリス、アメリカ商人らを監禁し、彼らが保有しているアヘンの差出と、今後一切アヘンを持ち込まないとの誓約書の提出を求めた。
もし持ち込んだら死刑、誓約書を出せないなら国外退去という厳しい方針を伝えたのだが、ごく当たり前の要求としか思えないのはなぜだろう?
ここで注意すべきは、アヘンを密輸していたのはイギリス商人だけではなかったという点である。
自由や正義が大好きな、あのアメリカ合衆国の商人も、アヘン密売に手を染めていた、その事実である。
しかしながら、林則徐の求めた誓約書を提出し、商売を再開したアメリカ商人もいたりする。
10人中10人がアヘン商人であるのがイギリスならば、10人中1人はアヘンを扱わない商人もいるのがアメリカであるのだ。
そんなアメリカを象徴するエピソードがある。
1831年、アメリカの帆船フレンドシップ号が、インドネシアのスマトラ島の港で、マレー人に襲われる。
この地域は香辛料の産地で、アメリカ人の商人もここで商売を行っていた。
取引を終え、荷を積み込んだ直後に盗賊に襲われたのだ。
乗組員5名が殺され、貴金属やアヘンなど2万ドル(現在の価値では5千万円程度)が奪われてしまう。
盗賊達は、「マレー人とアメリカ人の、どちらが偉いと思っているんだ?」というセリフを残し、立ち去る。
事件は直ちにワシントンに知らされ、米国海軍帆走フリゲート艦ポトマック号が派遣される事となる。
アメリカ大統領アンドリュー・ジャクソンがポトマック号の艦長に命じたのは、荷の奪還と略奪行為への補償で、武力の行使も認めていた。
1832年にポトマック号は現地に到着。
艦長の命令はまずは武力の誇示で、話し合いはその後、というものであった。
艦砲が轟き、海兵が村を焼き、村人を殺害する。
その数実に、200名である。
5名の乗組員を盗賊に殺され、その報復に婦女子を含め200人の村人を殺害するのがアメリカ流なのだ。
その後、どの様な補償までをも請求したのかは、定かではない。
21世紀の中東でも展開される、変わらぬアメリカ流を見事に体現した事件であろう。
それはともかく、イギリスの清国貿易監察官エリオットは、アヘンの引渡しには応じたものの、商人による誓約書の提出には応じなかった。
その為林則徐は宣言通りアヘンを没収し、誓約書を出さない商人を清国より退去させた。
この時没収したアヘンは1400トンにまで及び、林則徐は苦労してそのアヘンを処分する。
下手に焼こうものなら中毒性のある煙を生成するだけである。
海辺に穴を掘り、生石灰と塩水で処理し、海へと流した。
この強硬な処置にイギリス本国は開戦派に傾き、武力を用いて清国の自由貿易化を図る事が決定された。
イギリスの名誉の為付け加えれば、アヘンを密売する為の軍事行動には反対者も多く、イギリス議会の決議では、軍事行動への賛成は271票、反対は262票と僅差であったと言っておこう。
この時活発なロビー活動を行い、議会を開戦派に傾けさせたのが、かの悪名高きアヘン商人、ジャーディン・マセソン商会である。
この商会、開国後の日本でも暗躍した。
議会の決定を受け、イギリス本国、インドに駐留する部隊から軍艦16隻、輸送艦27隻、東インド会社が所有する武装汽船4隻、陸軍兵士4000人が派遣され、1840年6月、アヘン戦争は勃発する。
そして、それに呼応するかのように、清国の治世に逆らう者らが反乱の狼煙を上げ、中国大陸が混沌に包まれていく……。




