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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
アヘン戦争勃発編
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お守り

 松陰の明倫館初登壇の途中、一行は未だ進む気配なく、道端で止まったままであった。 

 

 「でも松陰君、そのかれい大明神だかの神様が、そないに慈悲深かったら、松陰君がかれーを我慢する必要はないんやないの? 何をそないに我慢しとるん?」


 お菊の質問に、松陰は戸惑いを見せた。

 何と説明すべきかわからず、途切れ途切れに言葉をつなぐ。


 「それは、多分、私の勝手な思い込み、なのかも、しれません。ですが、先程もそうですが、いざ、カレーに手が届きそうになると、夢に出てきた、一人の女性が、胸に浮かんでくるのです。悲しそうに泣いている、姿が見えるのです。彼女はきっと、天の御使いに、違いないのです。今ここで、誘惑に負けて、オランダ商人が持ってきた物に、手でも出そうものなら、彼女には、一生会えない気が、するのです。」


 押し掛け女房のスズを前に、随分と無神経な物言いであるが、スズは妾でいいと思っているので、あまり気にしていない様である。

 といっても、妾というものを理解しているのかは不明だが。

 お菊も、「いやん、松陰君、ウチという者がありながら」と茶化したい所であったが、空気を読んで差し控える。


 「では、誓いというのは何だ?」


 重ねて才太が尋ねた。

 先程の戸惑いとは一変し、松陰はキリッとした顔で述べる。


 「はい、私は香霊様に誓いました。必ずカレーを手に入れてみせると! 再びこの舌で味わってみせると!」

  

 聞き捨てならない松陰の言葉に、「再び?」と才太が呟いたが、それは誰の耳にも届いていない。

 

 「そして、こうも誓い……いえ、誓いではなく決意です。必ず為すという覚悟をしました。私がこの世に生を受けたであろう、その理由。生きて必ずカレーへと辿り着き、香霊様の御使い、カレーの天使をお迎えする事を! そしてこうも覚悟しました。今、この瞬間も虐げられ、塗炭の苦しみに喘ぐカレーの民を救い出す事を! 香霊様が地上にお示しになられた御慈悲に報いる為、この松陰、全身全霊、誠心誠意を持って事に臨み、万難を排して大願を成就いたす所存でございます! 心に含むところなく、後顧の憂いなく、ただ真っ直ぐにカレーと向き合える様、心に一切の邪念も疚しさも感じる事無く、ただ純粋にカレーを味わえる様、私は私の身を立てていかねばならないのです!」


 松陰の宣言に皆一様に呆然とした。

 カレーの天使? カレーの民? 松陰の言う意味がわからない。

 何やら大きな事を言っているらしい事は分かったが、それが一体何を意味しているのかは、皆目見当もつかない。

 天使はこの際置いておくとしても、カレーの民とはインド人を差し、イギリスによるインドの植民地支配を終わらせよう、などと考えているとは夢にも思うまい。

 松陰の言っている事が理解出来た所で、誰が本気にするだろう?

 

 インドは日本よりも何倍も大きな国である。

 そのインドを武力で制圧し、支配下においているのがイギリスなのだ。

 太陽の沈む事のない帝国とまで自称する国である。

 

 イギリスの日没が6時だとする。

 その頃には世界中のどこか、イギリスの植民地は朝を迎えており、その国が日没になる頃には、別の植民地である国が朝を迎えている。

 そしてイギリスに戻る、と言いたい訳だ。

 太平洋を跨いでいる時点で滑稽だが、何やら自負があるらしい。


 そんなイギリスの植民地支配を終わらせる?

 馬鹿も休み休み言え、ってなものだろう。


 「勿論、私一人では成し遂げられる事ではありません。カレーの天使をお迎えする事は、必ず早いうちに実現させます。しかし、もう一つの悲願は、余りに険しく、困難な道です。私の人生のうちでは不可能でしょう。私の孫、ひ孫の世代、つまり今より約百年の後、ようやく叶うかどうかの大願でございます。」


 そう言うなり松陰は立ち上がり、心許ない足取りではあったが、歩き出した。


 「では皆さん、お見送りありがとうございました。私はこれより、明倫館に参ります。今日はご心配をお掛けしましたが、もう大丈夫です。それでは、また後で。」


 立ち上がれない皆を残し、松陰は一人、歩いて行った。

 慌てた千代が亦介のお尻を捻り、しゃんとさせて後を追わせる。

 

 松陰と亦介の後姿を、呆けた様に見送る一行。

 彼らの胸のうちに去来する思いは、一体いかなる物だろう。


 一人梅太郎は、明倫館の生徒達の事を心配した。

 あれは、絶対に何かやらかすぞと直感する。

 それに付き合わされる生徒達が可哀想だと思った。

 叔父上にこっぴどく叱られて帰るのかも、と予感した。

 そして、ある考えが浮かび、皆の意見を求めるのだった。




 梅太郎の予感は的中し、夕刻、顔を真っ青に染め、松陰は江向に帰って来た。

 驚いたお菊らが問い詰めるが、松陰は口を割らない。

 連れだって帰って来た亦介の証言から、明倫館での松陰の講義の様子が見えてきた。


 どうやら、山鹿流兵学をすっ飛ばし、日本に迫り来る危機や、西洋の進んだ技術、長州藩の進むべき進路などを力説したらしい。

 

 「拙者は面白かったでござるし、同席した伯父上も同様でござったが、生徒は皆ポカンとしておったでござるな。」 

 

 らしい。

 

 「そして、しまいには、かれい大明神様の尊いお慈悲が地上に賜り云々まで語り始めたのでござるよ。いやあ、拙者、伯父上のあんなにオロオロした姿は初めて見たでござるな! 痛快痛快!」

 

 いや、それは止めろよ、と皆が思った。


 講義後、「貴様は山鹿流兵学を何と心得る!!」と文之進の鉄拳が振り下ろされ、顔の痣らしい。

 「叔父上が青痣一つで済ませるなんて珍しいね。」とのたまう梅太郎に、「文之進も、講義の内容自体に文句はなかったそうでござる。最後は論外でござるが……。問題は、それを山鹿流兵学の時間にやった事でござる。由緒ある山鹿流兵学師範の家督を、亡くなった文之進の兄大助殿から継いだ松陰殿が、明倫館での初講義に際し、山鹿流兵学の一言も無しに講義を終えた事に、文之進は怒り心頭だったらしいのでござるよ。」亦介の説明が続く。


 ここで、先ほどまで口をつぐんでいた松陰が喋りだした。


 「違うのですよ! 叔父上はまるで私の話を聞いて下さらないのですから! あれは導入部分だったのですよ! 今日は力が入りすぎて時間を終えてしましましたが、あれから山鹿流兵学の話に入るつもりだったのです! 迫り来る危機に、あなたはどう対処しますか? と尋ね、頓珍漢な回答を前に、でも、答えを出す為には、その危機を正確に知る必要がありますよね? それが兵学、敵を知り、己を知らば百戦危うからずですよ、と言う流れになずはずだったのです。それを、あの分からず屋は!」


 顔の片側を青く染め、松陰は憮然とした表情で異議を申し立てる。

 そんな松陰に、


 「でも、大次も悪かったと思っているんでしょ?」


 と梅太郎が聞く。

 松陰はウッと言葉につまった。


 「それは、まあ、私の事をよく知りもしない初対面の方々に、いきなりあんな話は無茶だったかな、とは、反省しない事もありませんよ……。それに、香霊大明神様のご威光については、時期尚早であったと……」


 歯切れが悪い。

 そんな松陰に、思った通りだったか、という表情を浮かべ、梅太郎はスズに合図を送る。


 「だろうと思ったよ。あのお店からおかしかったから、明倫館でも何かやるんじゃないかと思ったんだよ。でさ、皆と相談したんだけどさ、大次に是非受け取ってもらいたい物があるんだ。」


 梅太郎がそう言うと、スズが松陰の前までやって来て、「はい、おにいちゃん!」と言って、手に持ったお守りらしき包を手渡した。

 お守り? といった困惑の表情を浮かべ、それを受け取る松陰。


 しかし、手に持った瞬間に気がついた。

 驚愕に目を見開く。


 「こ、この香りは?! まさか、まさか、カレーの香り?!」


 そう、梅太郎が皆に提案したのは、松陰が漢方薬店で驚く程の執着ぶりを示した、あの生薬の購入である。

 あの執着ぶりでは、今後も同じ症状を見せるに違いないと判断したのだ。

 オランダからの物は絶対に手に取らない、拒絶すると言っていたが、その痛々しさは見ていられなかった。

 でも、手に取らないだけで、匂いまでは禁止していないはずだ。

 なぜなら、お店では匂いを嗅いでいたのだから。

 オランダから入った物は拒絶するにしても、ではこれはどこから? と聞かれて、わからない、と返す。

 これで問題は回避である。白々しいが、それでも松陰をあんな状態においておく訳にはいかなかった。

 こうでもしないと、意固地を張り続け、ついには心をおかしくしてしまうと危惧したのだ。

 

 「今更言うまでも無いと思うけど、お守りの中身は見たらいけないよ? 絶対だよ? 約束だからね? でも、そのお守りを肌身離さず持っていれば、きっと良い事があると思ってさ。香りが長く保つ様に、粉にはしてもらってないよ。高かったから、たくさんは無理だし、それもほとんど才太様に買って頂いたんだけどさ。それがあれば、大次も落ち着くんじゃない?」


 そう言う梅太郎を、松陰はヒシと抱きしめる。

 その顔は涙に濡れ、声も震えていた。


 「兄上ぇ! ありがとうございます! 私は、私は!」


 そんな松陰の頭を、梅太郎は何も言わず、優しく撫でた。

 二人を囲む皆の視線は温かい。

 しかし、そんな麗しい兄弟愛にスズは納得がいかない。

 ここで、


 「アタシもお守りを縫ったんだよ!」


 と高らかに宣言する。

 千代、お菊に手伝ってもらって、頑張って縫ったのだ。

 松陰に喜んでもらおうと思って、指に針を刺しながらも、一生懸命頑張ったのだ。

 そんなスズを松陰は抱きかかえ、「ありがとうな、スズ。」と語りかけ、頭を撫でてあげる。

 「えへへぇ」堪らずスズの顔はにやけた。

 松陰が嬉しそうで、スズも嬉しいのだ。

 乗るぜ、このビッグウェーブに! とばかり、千代も「お兄様、私もお守りを縫いました! 千代の頭も撫でて下さいまし!」とせがんだ。

 スズを小脇に降ろし、千代の頭も撫でた。


 さて、梅太郎と松陰の麗しい兄弟愛を見ていたお菊であるが、一人あらぬ事を考えて興奮していたのは秘密である。

 スズと千代に続き、「ウチの頭も撫でてーなー」と突撃したが、お主は歳が違うだろう! と才太に阻止される。

 さすが才太である。

 彼がいる限り、リア充爆発しろ! の声を聞く事はあるまい。


 石鹸の学習で、まるで事態を飲み込めていない岩倉卿は、それでも蚊帳の外に置いておかれるのが嫌で、訳もわからず「善き哉善き哉」と繰り返す。

 一貫斎、嘉蔵も岩倉卿に同調した。


 今日も平和な一日である。

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