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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
アヘン戦争勃発編
49/239

鬼門

申し訳ありません。

今回はギャグです。

本人はギャグのつもりですが、多分笑えません。



 藩校明倫館は、今はまだ指月城内にある。

 明倫館への初登壇が決まった松陰は、後見人であり、同じく明倫館の長沼流兵学師範でもある亦介と共に指月城を目指し、萩の町を歩いていた。

もう一人の後見人である文之進は、既に登城している。

 城まで松陰に付き添うのは梅太郎、千代、三郎太、重之助、スズ、お菊に監視役の才太であった。

 岩倉卿は穢多の集落に通い、石鹸について学んでいる。

 石鹸は銭になるでおじゃる! と嬉々として出かけていった。

  

 今更ではあるが、三郎太、スズは穢多の格好をしなければならない。

 それが身分制度であるからだ。

 一行は、町の人の好奇の目と、蔑む視線に包まれ、進んだ。

 松本村であれば、松陰の神童ぶりとそれを上回る奇行は広く知られ、穢多の者と一緒に歩いていようが、それはもはや日常と化しており、誰も気に留めない。

 しかし、ここは江向から指月城へと至る道である。

 訝しげな視線に晒され、三郎太は改めて自分達の身分を痛感した。

 スズは、自分達に向けられる、好意ではない感情の篭った視線を怖がり、身を硬くした。

 

 早まったかもしれないと松陰は後悔したが、今から引き返す訳にもいかない。

 それに、ここが新しい住処なのだ。

 いずれ松本村の様になるだろう。

 それまでの辛抱だと言うべく二人を見たが、スズは千代とお菊にしっかりと抱きしめられ安心した顔つきに戻っているし、三郎太は幾分顔が強張っていたが、梅太郎や重之助に囲まれ、平静さを保っている。

 松陰はそれを見て、大丈夫そうだと安心した。

 皆がいて良かったと痛感する。

 



 大通りに出ると流石に人も多く、松陰らに注目する者は少なくなった。

 口数少なく進んでいた一行も、一言二言言葉が出る様になる。

 そんな中、スズが松陰に、オズオズとした様子で聞いた。


 「ねえ、おにいちゃん?」

 「何だい?」 

 「あたし、おにいちゃんのところにいていいの?」


 それは、幼いなりに考えた、スズの思いであった。

 先程の、周りからの視線の意味する所を察し、自分が松陰の下に居てもいいのか考えたのだ。

 思えば松本村でも江向でも、近所の子供達と普通に遊んでいたのに、子供の親が来てスズを見た途端、連れ去るように我が子の手を引いて帰ってしまう事があった。

 何となくは察していたが、それが今日、はっきりとわかってしまったのだ。

 自分は松陰の所に居てはいけないんじゃないか? そう思ってしまい、口に出た。

 愛くるしい顔を不安に染め、泣き出しそうな目で自分を見上げてくるその姿に、誰が否定の言葉を言えようか?


 「スズは、私が約束を破る男だと思うかい?」

 「ううん、思わない。」

 「じゃあ、私がスズとした約束を覚えているかい?」

 「うん! かれーをあたしに食べさせてくれるって!」

 「じゃあ、決まりだ。私は約束を破らない。約束通りスズにカレーを食べさせてあげよう。それも、一番初めにだ! 誰よりも最初にカレーをご馳走しよう! 改めてそう約束しよう! スズは、私が約束を破る男にならないよう、私の傍にいないとな。わかったかい?」

 「うん、わかった! あたし、おにいちゃんのところにいていいんだね?」

 「そうだよ。」

 「わーい! よかったぁ!」


 スズは泣き出しそうな顔から一変、輝く様な笑顔で嬉しがる。

 それを見守る他の者の顔も、つられて笑顔に変わった。 

 喜ぶスズを優しく見つめ、お菊は気になった事を松陰に聞いた。


 「松陰君、かれーって何やの? 初めて聞く名前やけど、食べ物なんよね?」

 「そうです。真、素晴らしい食べ物でございますよ。カレーはですね、見た目は黄金とみまごうばかりの金色で、香りは深く芳しく、そう、まさにこんな香りがするんです……よ?!」


 松陰は驚愕に目を見開き、動きが止まった。

 お菊にカレーを説明しているまさにその時、夢にまで見たカレーの匂いが漂ってきたのだ。

 カレーに恋焦がれ、夢の中でも追い求めたそれ。

 ついに幻まで見る様に、いやこの場合、幻臭まで感じる様になったのだろうか?

 

 「へえ、こんな匂いがする食べ物なんやねぇ。」

 「なるほど、これはなかなか良い匂いでござるな。」

 「私はてっきり、大次の夢かと思ってたけど。」


 そう言って、口々に感想を述べ合う一行。

 つまり、その香りは幻ではないらしい。

 憧れすぎておかしくなった訳ではないと知り、安心する松陰。 

 そして松陰は、自分がどこにいるのか悟る。


 「そうか! ここは、私にとっての鬼門、漢方薬店か!」


 そう、一行は、いつの間にやら、萩の町の一角、漢方薬を売るお店の近くに来ていたのだ。

 この漢方薬店、松陰にとっての鬼門であった。




 カレーのカの字すら感じないこの世界に生れ落ち、絶望しつつ暮らしていた松陰は、ある時父百合之助につれられ萩の町へと出た事がある。

 その際、偶然通りかかったこのお店の前で、松陰の目に飛び込んできた物があった。

 「これは! まさか、”ウコン”?!」と叫び声を上げる幼い松陰に、店の主人は感心した様に、「良くご存知ですね、ぼっちゃん。」と応じた。


 そう、カレーのあの色をつける、”ウコン”である。

 健胃薬として琉球(現在の沖縄)より入ってきており、値段は他の漢方薬よりは幾分安い。

 カレー粉に使われるのは”秋ウコン”であり、苦味が無くオレンジ色である。

 昨今、健康食品として使われているのは”春ウコン”であり、苦く黄色だ。

 その”秋ウコン”だ。

 松陰が喜んだのも無理はない。

 カレーのカの字も無いと絶望していた時に、カレーを表すとも言える、”ウコン”様に出会えたのだ。

 以降松陰は、寂しくなると一人ここを訪れ、眺めては満足し、帰ってゆくという生活を送ってきた。

 そのお店に行くと言う事は、カレーの風味を味わえると言うだけではなく、同時に、南蛮より来る薬草にもまみえると言う事であり、それはつまりイギリスによるインドの搾取をも思い出す事なのだ。 

 疎かには扱えぬ、心して当たらねばならぬ場所、即ち鬼門である。




 その鬼門から、”ウコン”が発散する香りではない、まさにカレーの香りが漂っている。

 これはいかん! と思う間もなく、漂う香りに松陰の体は我を忘れた様にお店に吸い寄せられ、馴染みとなった店の主人に出迎えられた。

 馴染みと言っても、漢方薬など少年の松陰が買えるはずもない。 

 熱心にお店を眺める松陰に、店主も出て行けとも言えず、店の片隅で一心不乱に香りを嗅いでいる少年を、残念な者を見る目で見ていたのだ。 

 今日も今日で、調剤の為薬をすり潰している所に現れた松陰を、また来たか、といった顔で出迎えた。

 しかし松陰には聞こえていない。

 ただ、カレーの香りを発する場所を探している。


 「これは! この匂いは! ”クミン”?」

 「”バキン”だよ、ぼっちゃん。」


 店主が答えるが松陰には聞こえない。

 それは前世、オリジナル・スパイスを作った際に体に染み付いた匂いであったのだ。

 忘れるはずが無い。

 

 「これはどこから?」


 松陰の目はついに、店主の手元、カレーの香りを発散している薬研やげんを見つけ、それだけを見つめている。

 鼻は大きく膨らみ、店内の空気を吸い尽くさんばかりだ。

 

 「オランダだよ。」

 

 それを聞いてピタッと松陰の体は停止する。

 

 「くそっ! これ以上は、許されん!!」


 悔しそうに松陰は呟く。

 店主はまたいつものやつが始まった、と溜息をついた。

 これだけ漢方薬に興味があるのに、オランダから来たと聞くと、もう駄目なのだ。

 オランダの何がそんなに嫌いなのか知らないが、そこは頑固な少年であった。


 当時の香辛料は、主に生薬、漢方薬の原料として日本に輸入されていた。

 ”ウコン”は肝機能の改善に、”クミン”は鎮静、利尿などに使われていたのである。


 以前より、松陰はカレーの再現の可能性に気づいていた。

 ”ウコン”がお店で売られている事を知ってからだ。

 夢の詰まったエス何とかの赤い缶の再現は無理にしても、カレーの風味を十分堪能できる香辛料は手に入るのでは? と考えた。

 しかし、松陰は意図的にその可能性を頭から排除し、それ以上考えない様にしていた。

 なぜなら、それらの香辛料は、清国で取れる物以外はオランダ経由で入った物であり、それはつまり当時のオランダの植民地である現在のインドネシアで取れた物であるからだ。

 インドにしろインドネシアにしろ、当時は西洋の列強に半ば支配され、農民は搾取されている。

 前世の松陰は、イギリス支配下のインド民の悲惨さを、カレーの故郷に対するリスペクトである程度は知っていた。

 いくら自分がカレーに恋焦がれているとはいえ、植民地支配下の搾取の結果である、輸入された香辛料を手にする気持ちにはなれなかったのだ。


 痩せ我慢、現実にはもっと悲惨な事がある、知らないだけで自分も搾取に加担している、そもそも侍は農民の搾取の上に成り立っている、おためごかし、安っぽい正義感、自分一人が拒否して何になる、等。

 傾きそうになるカレーへの思慕を、いや違うだろ? と正してきたのだ。

 迷いのある状態で心からカレーを楽しめるはずがない!

 一切のやましい心無く、誠心誠意真っ直ぐカレーと向き合えなければ、芳醇な香りも、馥郁たる味わいも楽しめない! と、何度と無く湧き上がる煩悩をその都度払ってきたのだ。


 お金がないから無理。

 煩悩を払うのに、初めの数年間は簡単であった。

 それら香辛料は単純に高かったからだ。

 しかし、”柿の種”や”ポテチ”の販売によって、カレーへの思いを慰める程度の量を作れる資金は稼いでからはそうではない。

 そうなってくると煩悩を絶つのは容易ではない。

 

 本当にあるのか知りたいだけだから! 一回だけだから! 匂いを嗅ぐだけだから! 味見するだけだから! 一杯くらい何だよ! ただの食べ物じゃん! 我慢して何になる? 食べた後で考えればいいじゃん! 食べた所でイギリスの支配が変わる訳ではない! 我慢した所で世界は何も変わらない!

 

 湧き上がる煩悩は松陰に囁きかけ、カレーを手に入れようとする。

 その度に、一度でも許せば後はなし崩しでとめどなく求める様になると、きっぱりと否定してきた。

 

 カレーはただの食べ物なのではない。

 これは香霊神の与えた試練なのだと言い聞かせてきた。

 

 前世の記憶を持つ自分が、この幕末の世に、吉田松陰として生まれてきた理由。

 今世に生を受けた際の、最初の思いはカレーへの思慕であった。

 知らぬはずだが何故か懐かしい、カレーを体現するかの様な見知らぬ女の面影であった。

 それを追い求める事こそ、己の存在理由なのだろうと思う。

 それこそが、前世の記憶を持ってこの世に生まれてきた理由なのだと理解する。

 カレーを体現する女に出会えずして、迂闊にも欲望に屈し、カレーを口にすれば、全ては終わってしまうのだと、半ば強迫観念にも似た確信を抱く。


 湧き上がる欲望に身を委ね、煩悩に従って一度でもカレーを口にしてしまえば、夢に現れるカレーの天使との邂逅は果たせず、大願の成就も叶わない。

 松陰は気を強く持ち、湧き上がる煩悩、欲望に打ち克つ様全力を尽くす。

 しかしそうは言っても、鼻腔をくすぐる、懐かしいカレーを思い出させる芳しい香りを前に、溢れる思慕の念を消す事など出来はしない。

 どれだけ飲み込んでも涎は口の中にとめどなく溢れてくる。

 いつの間にやら熱い物が頬を伝っていた。


 これ以上ここにいるだけで、頭がどうにかなってしまいそうな感覚を覚え、松陰は強引に体を薬研より引き離し、お店を出ようとする。

 しかし、足は地に根を張った様にピクリとも動かず、体はワナワナと振るえ、腰に力も入らない。

 松陰の意思に反し、体がカレーを欲しているかの様であった。

 堪らず松陰は梅太郎に助けを求める。 


 「兄上! 助けて下され! 私は今すぐここより離れねばなりません! しかし、体が言う事を聞かないのです!」


 先程からの松陰の怪しい動きを見守っていた梅太郎は、松陰の叫びを聞き、意味もわからず松陰の体を抱え、お店の外へと運び出した。

 息の荒い梅太郎に負けず劣らず松陰の息も荒い。しかし、 


 「もっと遠くへ! カレーの香りの届かない所へお願いします!」


 松陰の催促に、今度は亦介が松陰を抱え、裏通りへと運んだ。

 残りの者も皆心配そうな顔で後に続く。


 「この辺りでどうでござるか? 気分はどうでござる?」


 お店を離れ、裏通りの静かな一画に生えた木陰に移動し、亦介は松陰を地面に座らせた。

 未だ顔色は悪く、体も小刻みに震えているが、幾分落ち着きを取り戻したらしい。

 スズは心配そうに松陰を労わり、「おにいちゃん大丈夫?」と聞いている。


 「突然お見苦しい所をお見せし、申し訳ありません……」


 しかし松陰の言葉はか細い。 


 「いや、驚いただけでござる。一体どうしたのでござるか?」


 松陰を囲む皆の思いであろう。


 「面目次第もございません。夢にまで見た香りに突然邂逅し、我を失っただけにございます。頭では駄目だと分かっていながら、体はそうではなかった様です。誠、修行不足も甚だしい、一凡夫にございます。」


 皆、よくわからなかった。

 しかし、お菊の質問に答えていた内容から察するに、松陰の言う香りは“カレー”らしい。

 “カレー”なる物を、松陰が心より求めている事を知っている梅太郎や三郎太は、何となく理解したが、それと先程の松陰の状態とは結びつかない。

 まるで、ひきつけでも起こしたかの様な、激しい発作であった。

 才太などは、こやつ狐にでも憑かれているのか? と思った程だ。


 「ねえ、松陰君? 松陰君はかれーを食べたい言うてたよね? あれはその香りだけみたいやけど、そないに欲しい物を、どうしてそこまで我慢するん? かれーをスズちゃんにご馳走するんやろ?」


 お菊の、妥当過ぎる質問。

 名前を呼ばれたスズは、不安そうな顔で松陰を見つめた。

 スズをそんな顔にさせている自分の不甲斐無さに、松陰は居た堪れなくなる。

 居た堪れないが、お菊の質問に答えないのは不誠実だ。

 

 「それが私の、香霊様への誓いだからです。」

 「かれい様? かれーって食べ物やないの?」


 またまたお菊の、当然過ぎる疑問である。


 「カレーとは、万物を温かく見守っていて下さる、香霊大明神様の偉大なる御慈愛が、ありがたくもこの地上に顕現した御姿であり、比類なき程高貴で、喩えようもない程芳しく、食べる者皆を幸せに導く、いと尊き存在であらせられます。」

 「いや、食べ物や言うてたやん……」


 うっとりとした顔の松陰に、お菊のツッコミは届かない……。

 そればかりか、そんな松陰の言葉に、「誠でござるか? 拙者も是非食べたいでござる!」「私も食べてみたいです……」「儂も食べたいっちゃ!」と、まるで夢遊病者の様な表情で呟く亦介ら。

 そんな彼らに唖然とする、梅太郎、お菊、才太。

 千代は「既に信者を作っているなんて、流石お兄様!」としきりと感心し、スズは、一連の流れをよくわかっていないらしく、しかし元気になった松陰を、ただニコニコとした笑顔で見つめていた。

 

 今日は松陰の、明倫館初登壇の日である。

穢多の記述に躊躇しました。

穢多の集落に行くのはまだしも、当時穢多の者と並んで歩いて大丈夫かと思い、こう書きました。詳細はわかりません。

もうこれで十分だと思いますので、以後穢多に関しての表現を控えたいと思います。


コリアンダーですが、白状するとどんな匂いか知りません。

せめて買ってから書けよと、今更ながらに思いましたが、このまま投稿です。

思ったより安かったので、後で買って確かめてみます。

もし、予想と違った匂いだと、内容を訂正いたします。


5月16日、一部内容を変更しました。

コリアンダーをクミンに変えました。

読者の方のご指摘通りでした。

適当に書いてすみません。


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