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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
アヘン戦争勃発編
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江向の生活

 近江より戻った松陰の、江向での生活が始まった。

 毎度、夫婦でもない男女が云々、とのたまう才太に配慮し、お菊と一貫斎には離れで暮らしてもらう。

 一貫斎の作業場は納屋を整理し、使ってもらった。

 助手の嘉蔵は、当面下男の形で杉家に暮らす。

 一貫斎は、早速、顕微鏡の製作に取り掛かるらしい。

 当面はお菊も手伝い、3人体制で事に臨む様だ。

 黙々と取り組む一貫斎、目をキラキラさせて作業場に向かう嘉蔵を見ていると、予想よりもずっと早く顕微鏡が完成するのではなかろうか、と思う松陰である。

 

 才太は勿論、岩倉卿も母屋に住んでもらう。

 三郎太、重之助も杉家で寝起きし、スズも相変わらず押し掛け女房状態であった。

 押し掛け女房状態のスズに対し、才太が何を言うか興味のあった松陰であったが、流石に年端のいかないスズには何も言わず、見て見ぬ振りをした。

 寧ろ、人見知りしないスズに懐かれ、おっきいおにいちゃん呼ばわりされ、若干顔を赤くしている始末。

 こいつはチョロいと松陰は確信する。


 そのスズは、お菊というライバルの出現に慌て、初めは危機感を持った様だったが、千代共々お菊に可愛がられ、警戒心を解いたらしい。

 「何やの? むっちゃ可愛い子やねぇ!」と言ってスズを抱きしめるお菊。

 そんなお菊を御しやすし、と見たのだろうか……。


 梅太郎は、屋敷の離れとはいえ、同居する事になった年上のお菊の出現にただ赤面している。

 当年11歳の梅太郎である。

 それは仕方無いであろう。

 胆の据わった千代は、いきなり増えた家族にも動じず、姉が出来た事に喜んでいる。

 流石である。

 父百合之助も母滝も、突然同居する事になった赤の他人が増えた事に何ら戸惑いを見せず、ニコニコとした笑顔を浮かべ、皆を受け入れた。

 



 その父百合之助であるが、藩主敬親に直々に任命され、新明倫館の農業部門の責任者となってからは、家禄を加増された事もあり、団子岩でも畑の手伝いに来ていた熊吉を正式に雇い入れ、忙しくしていた。

 藩営の畑は未だ整備中であり、百合之助も熊吉もその準備に追われている。

 ”えひめアイ”の微生物培養小屋も、新明倫館にあわせ、規模拡大をせねばならないのだ。

 ゆくゆくは培養する菌にあわせて部屋を分けたいと松陰は思う。

 

 ”微生物”なる目には見えない生き物に興味を持ち、団子岩の畑を見たいと思った一貫斎であったが、団子岩の畑の管理が他の者へと変わった今、それは持ち越しとなった。

 しかし、”えひめアイ”が撒かれた厠の臭いには驚き、それぞれの微生物を培養中の桶など見ているうちに、松陰の言った事をおぼろげながら理解した。

 桶の中でプクプクと、小さな泡を吐き出している。

 なるほど、目には見えない生き物の働きと言われれば、そうかもしれないと感じた一貫斎であった。


 そして松陰は顕微鏡の製作と合わせ、噴霧器の開発もお願いする。

 噴霧器は、圧縮空気を使った一貫斎の”気砲”と原理的には同じなはずである。

 大して圧が掛かる訳ではないので本体は木製で大丈夫だろう。

 問題があるとしたらどうやってホースを再現するか? だろうか。

 その辺りは一貫斎らの創意に期待するのみである。

 また、その噴霧器は、応用すればウォシュレットにもなるはずだと松陰は考える。




 藩営の畑作りは、松陰もその手伝いをし、才太と岩倉卿にも鍬や金槌を握らせた。

 俺は武士だぞ? との文句には、働かざる者食うべからずで黙らせる。

 予想に反し岩倉卿は喜んで作業をした。

 どうやら畑作業や大工の真似事が新鮮らしい。

 何でも出来れば、他人に支払う銭が少なくて済むでおじゃるな、と一人合点している。

 なんでも、御所の修理修繕など、つまらない事でも人を呼ばねばならず、その費用が馬鹿にならないらしい。

 貧乏公家には厳しいでおじゃる、らしい。

 これで麻呂の屋敷も、麻呂が修理する事が出来るでおじゃるな、銭の節約が出来るでおじゃると喜んでいた。

 

 やるべき事はいくらでもあった。

 畑は百合之助、顕微鏡は一貫斎が担うとはいえ、アヘン戦争の見学計画は来年から、さ来年の間であるし、明倫館での登壇も近い。

 アヘン戦争を見物に行こうと思ったら、日本海の荒波に耐えられる船は必須ともいえる。

 転覆しても大丈夫な様には強化しておかないと、見物の場に辿り着く前に海の藻屑となるのは必至だ。

 船頭は近江行きで世話になった平蔵で決定している。

 平蔵に任せておけば、腕の良い船大工を知っているだろうし、船の改造強化は問題ないはず、と松陰は判断する。

 

 やるべき、というよりは、任せて進めておいてもらう事柄が多いのだ。

 知識はあっても経験の無い松陰に出来る事は少ない。

 確かな技術を持った人に仕事を任せて、自分はそれをフォローするだけ、と思う。




 そしてそんな松陰は穢多の集落に来ていた。

 近江のお土産反本丸を持って来ていた。

 食べる為に〆(しめ)られ、きちんと血抜きされたであろう牛の肉を味わってもらいたかったのだ。

 集落全員に行き渡る程は買って来れないし、一貫斎の歓迎会で一部食べてしまったが、まあ、それはそれ。

 この人達も確かな技術を持っているので、生きた家畜を〆る事さえ出来れば、後はどうにでもなるだろう。

 薩摩藩では屋敷で豚を飼い、御中ごじゅうの者が集まった折には〆て食べているとも言うのだから。


 侍にお土産などもらった事など無い彼ら。

 松陰がお土産を渡した時の驚きと喜び具合は相当なものであった。

 付いて来た才太、岩倉卿、スズ、三郎太が見守る中、長に反本丸を焼いてもらう。

 肉の脂が滴り、真っ赤になった炭の上に落ち、ジュッと音を上げる。

 肉を包んでいた味噌が一部焦げ、辺り一面が芳ばしい香りに包まれる。

 居合わせた者は皆、唾が込み上げ、お腹を鳴らし、焼きあがる反本丸を食い入るように見つめた。

 

 「はぁ、これが牛の肉でございやすかぁ……」

 「これが牛の肉?!」

 「柔らかい!」


 反本丸を味わった長一同、感嘆の声を上げる。

 臭みの無い、口に入れるととろける様な柔らかな牛肉に、一様に驚愕し、感動した。

 味見希望者が多数であった為、長以外は抽選にしたのだが、外れてしまった者は口から涎を垂らし、漂う香りに鼻をひくつかせ、幸運を得た者達の口元を見つめた。

 

 そんな外野に申し訳ないと思いながらも、松陰は確かな手応えを感じ、今後の展開に期待した。

 ただ、牛馬を〆るのは問題になりそうなので、薩摩藩を見習って豚を飼う道を探してもらいたいと思う。

 豚の肉が手に入れば、まずは生姜焼きであろう。

 また、酵母菌を培養し始めた今、いずれは小麦粉でパンを焼き、パン粉を作り、トンカツをゲットしたいと松陰の夢は膨らむ。

 そして、必ずやカレーを手にし、前世における最期の未練、食べ損ねた最後の晩餐カツカレーを手に入れてみせる! と固く誓う松陰であった。


 涎を垂らして遠くを見つめ、手を握り締めてプルプルと震えている松陰を、周りはそれぞれの思いで見つめている。

 先生の発作が始まったと、生暖かい目で見守る三郎太。

 そのうち美味しい物が食べられる?! と喜んでいるスズ。

 集落に漂う臭いに鼻を顰めつつも、それ以上に漂う銭の匂いに興奮している岩倉卿。

 彦根で行われている牛の殺生を、昔から苦い目で見ていた才太は、穢多の集落に出入りし、彼らと親しげに言葉を交わす松陰に益々疑念を深めたが、衝撃も受けていた。

 

 身分制度の厳守が社会秩序の維持に繋がると信じる才太には、士分ではない一貫斎らも付き合いには一線を画すべき対象であったし、穢多の者らと普通に接する松陰の態度は尚一層受け付けなかった。

 しかし、スズ、三郎太が穢多の出身である事がわかり、言葉に出来ない衝撃を受けていたのだ。

 ここにこうしてやって来て、彼らに言われるまで彼らが穢多だとはまるで分からなかったのだし、何か違ったか? と言われて二人の何かが特段違った訳でもない。

 身分とは一体何だろうか? と、これまで自分が信じてきた信念の土台そのものへの、漠然とした疑問が心に生じていた。

 守るべき価値ある物なのか? と、この先才太は自問自答を繰り返す事になる。

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