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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
アヘン戦争勃発編
46/239

開戦

 風の無い、波の穏やかな日であった。

 萩の沖合いに、1隻の見慣れぬ船が佇んでいる。

 マストがあるので帆船ではあるのだろうが、今は畳んでいるのか帆を見ることは出来ない。

 それもそのはず、何せ風が無いのだから。


 風の無い日の帆船は通常、風が出るまで港で待つものだが、何を考えているのかその船は沖合いにいた。

 しかし、その見慣れぬ船は、この風の無い日にあっても自在に動いていた。

 普通であったら有り得ない光景である。


 そしてもう一つ、その船には見慣れぬ物があった。

 マストとは別に、大きな煙突らしき物が船の中央にあり、そこからモクモクと煙を晴れ上がった空に向け、吐き出しているのだ。

 巨大な煙を上げて燃え盛る、火事を起こした船の様にも見えるが、その船はひどく悠然としており、非常事態に陥っている風には見えない。

 悠然と航行を続け、ゆっくりと萩の町に近づいていた。 


 風が無いにも関わらず動け、煙を吐き出す謎の船。

 そう、それは西洋の最新鋭の船、蒸気船であった。

 西洋の蒸気船が萩の沖合いに現れたのだ。


 この異常事態に、萩城の村田清風らは兵を集め、緊張した面持ちで対峙していた。

 彼らは敵である。

 それははっきりとしていた。

 直ぐに大筒で攻撃したいのだが、かの船は射程圏外であり、それは出来ないでいた。

 届きもしないのに大筒を放てば、みすみす火薬も砲弾も無駄にするだけである。

 こちらの射程を敵に知られるのもまずい。


 清風らは何も出来ず、ただ見守るしか方法がなかった。

 そして、清風らが固唾を呑んで事態を見守る中、ついに開戦の火蓋が切って落とされる。  

 それは、西洋の最新鋭の蒸気船の左舷から放たれる、12門の大砲の轟音によって、であった。

 それは大気を切り裂き、対峙する清風らの脳内に強烈に響いた。

  

 西洋の大砲から放たれる砲弾は射程が長く、陸で敵の蒸気船を睨む長州藩の部隊を次々と血祭りに上げていった。

 為す術もなく、ただ空しく兵を失っていく状況に清風は顔色を失う。

 そして、敵の砲弾は指月城にも命中をする。

 地を揺さぶる衝撃が走り、清風らは慌てふためいた。


 「坪井! その方、反撃をせぬか!」

 「村田様! 我が方の大筒では届きません!」


 清風の命令に抗議する坪井九右衛門。

 敵の射程外からの攻撃に、彼らは反撃する術を持たなかった。

 わずかな部隊が反撃の為の大筒を放っても、当然敵の船には届かず、穏やかな日本海の海面に、巨大な波紋を描くだけであった。


 「何故じゃ! 何故我が方の大筒は届かんのじゃ! これでは何も出来ずに全滅するだけではないか!」

 

 堪らず清風が大声で叫ぶ。

 しかし、いくら清風が泣き叫んでも、届かない物が届く様になるはずもない。


 「卑怯じゃ! こちらの攻撃が届かん遠くから、一方的に攻撃するだけとは! 武士の風上にもおけん奴等じゃ!」

 

 清風が、対峙する敵に向かって叫ぶ。

 しかし、それを受けて敵が上陸するはずもなく、清風らの射程圏外からの攻撃を続けるだけであった。

 城の周りに配置してあった兵士達は、敵に一撃を加える事も出来ず、ただ、空しくその命を散らしていく。

 このままでは全滅するだけであろう。


 「おのれ! おのれぇ!! 卑怯なるぞ!! 武士ならば潔く上陸して戦わぬか!! この卑怯者めがぁぁぁぁ!!!」


 清風は呪詛の言葉を吐く。

 しかし、依然蒸気船はその場に留まり、その大砲を打ち出すのみであった。


 そして、ついに、萩城までもが崩れ始めた。

 敵の砲弾をいくつもその身に受け、指月城は徐々に崩落を始める。


 「村田様! ここは危険にございます! 今すぐ城外に避難すべきです!」

 「おのれ! おのれぇぇ!! 我が藩の指月城がこうも容易く崩れてしまうなど受け入れられぬ!! しかも儂は敵に一撃も加える事が出来ておらんぞ!! 何も出来ぬままオメオメと城から逃げ出し、指月城が崩れるのを指を咥えて見るしか出来んのか!!」

 「村田様! もはや降参するより他に、我らに出来る事は無いのではございませぬか?」

 「坪井! 貴様、血迷ったか?! このまま何も出来ず降参するなど有り得ぬのじゃ! 貴様に武士の誇りはないのか!!」

 「誇りなど、こんな戦に必要なのでございますか!? 敵に一撃も加える事が出来ぬまま、ただ空しく死んでいく。こんな戦に付き合わされる兵達が哀れにございます!!」

 「糞っ!」

 

 九右衛門の言葉に清風は吐き捨てた。


 「それに、元はと言えば村田様のせいでございましょう? 大筒ばかり揃えてしまったのは村田様ではございませんか!」

 「坪井、貴様儂のせいじゃと言うのか?! 貴様も大筒を揃える事に賛成したではないか!!」

 「こんなに役立たずだとは思ってもいませんでしたよ!!」

 「あの蒸気船が卑怯なのじゃ! 儂らの兵では攻撃が出来ぬではないか!!」


 清風、九右衛門らの醜い言い争いは、蒸気船が放つ最後の一発によって終了した。

 城から退却するも、未だ敵の射程圏内であり、遂に砲弾が彼らを襲ったのだ。

 それが彼らの最期となった。

 

 こうして、萩の海を舞台とする戦は終了した。

 蒸気船に一撃も入れる事が出来ず、清風らは全滅するという無残な結果を残して。




 「のう、松陰殿。その蒸気船はいささか卑怯ではないじゃろうか……」


 清風は憮然とした表情で呟いた。

 ここは清風の屋敷である。

 彼らは戦儀をやっていたのだ。


 「卑怯とはどういう事でございますか?」


 松陰はまるで見当もつかないという表情で聞き返した。 


 「だってそうじゃろう? こちらの攻撃は届かんのに、そちらは攻撃出来るのじゃから。これを卑怯と言わずして、何を卑怯と言うのじゃ? のう、坪井、お主もそう思うじゃろう?」

 

 清風が九右衛門に話を振る。

 振られた九右衛門は恨みがましい目で清風を見る。

 

 「だから私が初めに言ったではないですか! 船が無ければならぬと!」

 「しかし、風が無ければ帆船は使えぬではないか! お主もそれはわかっておったじゃろう?」

 「そ、それはそうですが……」

 「ほれ見ろ! それに、こちらは帆船しか無いのに、風が無くとも動ける蒸気船は卑怯すぎじゃ!」

 「それはそうにございますな! 確かにこちらが使えないのに、その蒸気船は卑怯にございます!」


 ついに清風、九右衛門が一緒になって松陰を責め立てる。

 いい歳をした大人達が、遊びで自分達が負けたからと言って、相手を卑怯だと言い募る。

 それはあまりに醜い。

 しかもそれは、この長州藩の実務トップの二人の行いなのである。

 

 「何が卑怯にございますか! そもそも、お二人の任務は何でございましたか?」

 「うっ! ……そ、それは、隣国に逃げる事、じゃ……」

 「そうでございましょう? 逃げればいいのに、無駄に城に留まり続けたのはお二人でございましょう? どうして私が卑怯だと言われなければならぬのですか!」

 「……か、返す言葉もございませぬ……」


 松陰の言葉に俯く二人であった。

 そして、それを見た松陰は内心ほくそ笑む。

 近江への旅から帰った折に、清風にしてやられた、その仕返しが一つ出来たと。

 九右衛門は全くのとばっちりであったが、それはまあ、気にしたら負けであろう。


 それは一貫斎らを迎えた歓迎会から数日が経った日の事である。

 あの日は清風の屋敷から慌てて飛び出し、碌な報告も出来ないでいた。

 全ては清風のせいであるが、その後も宴会であったし、その場で大まかな事は話したとは言え、それはあくまで非公式な場の事である。

 後日松陰は改めて清風の屋敷を訪ね、正式に旅の報告を済ませたのだ。

 清風はその際、松陰に引き合わせる為に九右衛門を呼んでいた。


 報告を終え、九右衛門を交え、今後の計画を話し合う。

 そもそも松陰は明倫館の山鹿流兵学師範である。

 未だ9歳とはいえ、もうその責を果たせるのでは? となり、それならこういう授業はどうでしょうか、と戦棋のニューバージョン、海戦を披露したのだ。

 九右衛門は既に清風を通じ戦棋を知っており、ならば二人して撤退戦に就いてもらった次第であった。


 結果は先の通り、部隊を無事に隣国に逃がすという目的を見失い、両名共に城に留まり続け、全滅という誠に無残なものとなった。


 「宜しいですか? 目的が果たせねば敗北なのですよ? 目的が達成出来さえすれば、どれだけ兵に損害を出しても戦略的には勝利なのです。それを忘れないで下さいね?」

 「そうは言っても、城を見捨てて逃げるだけというのは、武士にあるまじき行いじゃろう? 儂には容易に出来かねるというのか、碌に戦いもせずオメオメと逃げ落ちるのは我慢ならんというのか……」


 清風がなおも言い募るが、松陰はそれを断じた。


 「相手が西洋人であった場合、武士道の精神など通じませんよ? 鎌倉武士の、やあやあ我こそは、の正々堂々たる武士道が、元寇の際にはまるで役に立たなかったのと同じです。彼らは彼らの論理で動いているのですから。」

 「それはそうじゃが……」

 「それに、目的が逃げる事とはいえ、戦うなと言っているのではありません。機を見て戦うのもありです。攻撃は最大の防御なりとは、時に正しいのでございますから。」

 「なるほど!」


 松陰の言葉に清風は喜んだ。

 やられるばかりでは気分が良い筈が無い。


 「ここで一つ、西洋の論理をお教えいたしましょう。彼らは戦を、外交の手段の一つと思っております。食べ物が無いから戦い奪い取るだけではなく、民衆の不満を逸らす方法にも、経済的な失策を挽回する為にも、利益を最大にする為にも戦を利用しますよ。その場合、彼らは目的を達する為にはあらゆる手段を用いてきます。」


 松陰が西洋のやり方を説明した。

 

 「彼らに、高潔なる武士道の心はまるで通じません。それは御覚悟下さい。彼らは目的があって、それを叶える方法の一つとして戦を選択しているのであり、その目的を達しなければ、戦の最中に司令官が戦死しようとも、代わりの者が立つだけにございます。」

 「……それは、恐ろしい事じゃな……」


 こうして、清風邸にて、松陰と九右衛門の顔合わせは終わり、松陰は帰っていった。

 松陰の明倫館での登壇は間もなくである。




 「して、坪井、そちはあの吉田松陰なる者をどう見る?」


 松陰が帰った席で、清風は九右衛門に問いかけた。

 九右衛門は先程まで行われていた、松陰による国友一貫斎の長州藩への招致のいきさつ、近江から萩までの道程、そして蒸気船を使った戦棋を思い出す。

 

 「そうですな。誠、不思議な少年というのが正直な所です。」


 九右衛門には判断が付きかねた。

 その発想にも行動力にも驚かされたし、何より一貫斎を連れてくるという実績があるのだ。

 並みの人物ではない事は理解出来たが、果たしてそれが長州藩に何をもたらすのか、までは分からない。

 清風は松陰を買っている様だが、手放しで信用する事は出来ないと思う。

 幼き神童が凡夫となる事は多々あるし、その将来を楽しみとした若者が一度の挫折で駄目になる事もあるのだから。


 「あの年齢で恐るべき見識を持っているとは思いますし、時々ひどく老成している様な錯覚を覚えもしますが、如何せん若すぎるかと。」


 清風も九右衛門も、その才を見込まれ、出世してきた身である。

 身分的には高くない生まれだが、必死に学問に打ち込み、相応の実績を挙げ、登用されてきたのだ。

 その途中には当然、人には言えぬ苦労を重ねてきた。

 その出世をやっかまれたりもしたし、生まれを中傷されもしたし、あらぬ噂を流されもしたし、露骨な嫌がらせも受けて来た。

 何度となく悔し涙を流した事もあるし、無意味な伝統に拘る、身分だけは高い家臣に翻弄されてきたのだ。

 

 いくら才能に溢れ、将来を有望視された人材であったとしても、未だ保守的な思想の持ち主の多い指月城にあって、その志を、信念を、情熱を、曲げず失くさず強く保ち続ける事が出来るだろうか?

 おもねる者に流され、いい様に操られる事はないだろうか?

 謂れの無い中傷に腹を立て、後先考えない行動に出る事はないだろうか?

 生まれを侮辱されて、耐える事が出来るだろうか?

 

 自分がその洗礼を受けてきただけに、そして今も戦い続けているだけに、将来有望な若者であればある程、それを危惧する九右衛門であった。


 「あの者ならば大丈夫じゃ。儂はそう思う。」


 そんな九右衛門の心配が痛い程理解出来る清風であったが、それにも関わらず、心に浮かぶのは長州藩の明るい未来であった。

 何故かそう感じていた。


 「村田様が何故そう思うのかは分かりかねますが、私は私の出来る事を為すだけにございます。」

 「それは儂も同じじゃよ。儂はあの者に、我が長州藩の未来を見た。儂は愛する長州藩の為、粉骨砕身するのみじゃ。」


 時代が動く気配を如実に感じ取りながら、長州藩実務方トップの二人は、己の職務の完遂を改めて誓うのであった。

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