帰郷その2
「「萩だ!!」」
最後の山を越え、街を見下ろす峠の上に立ち、松陰、三郎太、重之助は同時に叫んだ。
遠く指月山を臨み、目の前には懐かしい萩の街が広がっている。
この景色の中、家族は元気でいるのだろうか? 早く会いたいものだとそれぞれが同じ様に考えていた。
しかし、まずは清風に報告をすべきだろう。
遊びで出かけたのではないのだから。
弾む足で峠を下り、平安古町に清風の屋敷を訪ねる。
亦介が事前に報せていたからか、清風本人が迎えてくれた。
清風は玄関に佇む一行に吃驚している。
それはそうだ。
4人で出発したはずが、今はこうして8人なのだ。
亦介は何も言わなかったのだろうか?
「村田様、吉田松陰、ただ今戻りました。」
「おお、これは松陰殿。元気そうでなによりじゃ。亦介から吃驚するでないぞとは聞かされていたが、よもや人数が倍になって帰って来るとは思わなんだぞ!」
「これには深い事情がありまして……」
「良い良い。まっこと、松陰殿には毎度驚かされてばかりじゃのう。」
「それは兎も角、村田様におかれましては、お元気そうで何よりでございます。」
松陰の言葉に、何故か顔を青ざめる清風。
不思議に思い、聞く。
「如何なされましたか? まさか、お美代様に?」
「いや、違うのじゃ。お美代には何も無い!」
「ではどうされたので? まさか?! 私の家族に何かあったのでございますか?!」
清風は言いにくそうに顔を背け、
「突然の事だったのじゃ。団子岩に、突然……。松陰殿のご家族は、もう団子岩には……」
清風の言葉を最後まで待たず、松陰は駆け出した。
まさか、自分が反本丸や京の銘菓に舌鼓を打っている間に、家族に何かが起こってしまった?
「父上! 母上! 兄上! 千代! 寿! スズ! お婆様!」
松陰は叫び、無我夢中で力の限り走り、松本村の団子岩を目指す。
道行く者は皆、血走った、鬼気迫る表情の松陰の姿に驚き、次々と道を空けていった。
明倫館の移転先である江向を抜け、松本川を跨ぎ、文之進の屋敷へと至る。
偶々外に出ていた文之進は、久方ぶりの甥の姿に喜んだが、血色を失った松陰の表情にただ事ではないものを感じた。
「叔父上! ……父上は、母上は……団子岩に……」
全力で走ってきた松陰は息も絶え絶えで、それだけ言うのが精一杯であった。
嘘であってくれ!
そう思うだけでそれ以上は言葉が出ない。
「何だ知っておったのか。兄者達なら団子岩にはもういないぞ。」
「何ですと?! 父上! 母上!」
再び松陰は走り出す。
その後ろから声をかける文之進の言葉には気づかない。
「だから、兄者達は既に江向に、って聞いておらん……」
「叔父上、何やら大次の声がしませんでしたか?」
「いや、帰って来たらしいが、団子岩に走っていったぞ。」
そんな声は勿論松陰には届いていない。
「父上! 母上! 兄上! 千代!」
何かの間違いだ。
そう思い込み、松陰は山道を駆け上った。
何か起こった訳が無い。
そう固く信じ、懐かしい我が家へ帰り着く。
ほら、思った通り、家もそのままじゃん。
何も変わった所なんてないじゃん!
そう思い、
「松陰、ただ今帰りました!」
戸を開き、中に入る。
薄暗い家の中はガランとしていた。
所狭しと積み上げられていた百合之助の本は跡形もなく消えうせ、夜なべ仕事の道具も消えていた。
梅太郎が描いた絵本は1ページも見当たらない。
千代の原稿もどこにもない。
まるで人の生活を感じない、無人の廃屋の様であった。
「父上! 母上! 兄上! 松陰は帰りました! どちらでございますか?」
言いつつ家にある部屋を全て開くが、人っ子一人見当たらない。
うっすらと埃の積もった家の中は、人が住まなくなって時間が経ったのだろう。
それを如実に物語っていた。
「父上! 母上! どこでございますか!? そうだ、畑!」
思いついた松陰は、家の裏手の畑へと走る。
いつもなら、百合之助が雑草抜きや作物の手入れをしているはずだ。
……。
畑は無人であった。
手入れはされている様だが、誰もいない。
確かに手入れはされているが、手を入れている人物は百合之助ではないとわかる。
百合之助ならば、この様な雑な手入れはしないからである。
百合之助が休憩の際、よく腰を下ろしていた岩もぽつんとしていた。
松陰はがっくりと肩を落とし、とぼとぼと山道を下りる。
文之進に詳しい事を聞かねばなるまいと思っての事だ。
俯き、石の様に重くなった足を動かし、山道を下りる松陰。
そんな松陰に声がかけられる。
「どうしたのさ大次?」
その声にハッとし、顔を上げ、声のした方を見る。
そこには、未だに”大次(郎)”という言い慣れた名前を使う、捜し求めた兄梅太郎の姿があった。
山道を上ってきたらしい。
「兄上!? 兄上でございますか?!」
そんな松陰を梅太郎は茶化して呟く。
「ようやく帰ったと思ったら、兄の顔を忘れてしまうとはね。やっぱり大次らしいね。」
声も姿もセリフも梅太郎その人であった。
「兄上!」
思わず駆け寄り、力いっぱい抱きついて、その存在を確かめる。
「痛い! どうしたってのさ、大次?!」
よかった! 幽霊ではない! そう思った松陰は梅太郎を解放し、聞いた。
「父上、母上はご無事ですか? 団子岩の我が家はどうしたのですか?」
「ああ、それね。村田様に聞いてないの? 今は江向に住んでるんだよ?」
「江向に? どうしてでございますか?」
矢継ぎ早に質問をする松陰に梅太郎は歩きながら答える。
松陰も梅太郎にあわせ、歩き出す。
「大次が出発してすぐくらいだったかな? 突然敬親様が叔父上のお屋敷に来られたんだよ!」
「え? 敬親様が?!」
松陰も驚きの梅太郎の言葉である。
「紙芝居をご覧になられて、出来が素晴らしいと褒めて下さって! で、それから団子岩に行かれて、父上の畑をご覧になられて。これは是非とももっと大きな所でやるべきだと仰られて。 明倫館が移転して大きくなるそうだけど、ならばその地に藩営の畑を作って、この農法を広めるべきだと仰られたんだ。」
草根資金は清風が進めていたはずだが、そこまで進んでいたとは、と思う。
「ならばそちらに引っ越さねばならない、となって、父上が家を借りて、すぐに皆で移ったんだよ。私は、今日は叔父上の所に勉強に来たんだけど、何だか大次の声が聞こえたから外に出てみたら、叔父上が大次が変な様子だったから追いかけろと言って、それで追いかけたんだけど、本当におかしな感じだったよね? 大次は一体どうしちゃったの?」
梅太郎の言葉を聞き、松陰は全てを理解した。
犯人は清風である。
「ふふふふふ。そうでございますかぁ。それは素晴らしい事でございますねぇ。いやいや、目出度い! それで、父上も母上も千代もお婆様も、スズも元気なのでございますね?」
「そうだよ?」
「あはははは! いや、それは良かった! いやー、全ては村田様の企みでございますか! 思わせぶりに口を濁して、突然だったのは敬親様のご訪問で、江向に移ったから団子岩にはもう住んでいない、と言う事だったのでございますかぁ! 芸が細かい事に、顔まで青くして。いやぁ、見事に騙されてしまいましたなぁ! これは一本取られましたなぁ。」
松陰、気味の悪い程に素敵な笑顔を浮かべている。
梅太郎は久しぶりに見る、何か良からぬ事を考えている弟の顔に、安堵と共に清風の無事を祈った。
松陰は、今度はきちんと文之進と八重に挨拶し、帰郷の報告をした。
二人共、無事の帰郷を喜んでくれる。
松陰は一貫斎が長州藩に来てくれた事など話し、文之進を驚かせる。
お土産を忘れた事を詫び、後で持って来る旨伝えた。
そしてまた松本川を越え、新しい杉家の住まいに梅太郎と共に到着する。
それは江向に建設中の明倫館の敷地のすぐ隣にある、通りに面した屋敷で、団子岩の屋敷とは違い、大きく立派であった。
何でも、豪農の屋敷だったらしい。
先程、ここの通りを爆走したはずなのだが、松陰は気づかなかった様だ。
良く借りられましたねと松陰が聞くと、村田様のお陰だから手加減してあげてね、と梅太郎は答えた。
流石兄上、私の事をよくご存知ですなぁと笑う。
このやり取りも何だか随分久しぶりな気がして、梅太郎もつられて笑った。
「おかえりなさいませ、お兄様!」
「おかえり、お兄ちゃん!」
松陰と梅太郎の姿を目ざとく見つけ、千代とスズが出迎える。
「ただいま、千代、スズ。元気だったかい?」
「ええ、勿論でございます!」「元気だったよ!」
「それは良かった! 父上や母上はどこに?」
「今は家でございますよ。」
「そうか、ありがとう、千代。」
「どういたしまして。」
そして、松陰は大きく息を吸い込み、
「父上、母上。松陰、ただいま帰りました!」
と大きな声で家の中へと入った。
「おかえり。」
「おかえりなさい。よくぞ無事に帰ってきましたね。」
僅かの間のはずなのに、何故だか懐かしい父と母の顔と声に、松陰の胸もつまる。
ようやく帰って来た!
勝手の違う新しい我が家であるが、変わらぬ家族の様子に安堵がどっと押し寄せ、思わず涙が一滴こぼれた松陰であった。
「して、旅の首尾はいかがであった?」
百合之助が問う。
涙を拭い、松陰は答える。
「はい! 首尾は上々にございます!」
「それは良い。御勤めご苦労であったな。今はゆっくりと休めば良かろう。」
「はい、ありがとうございます、父上。ですが、私は村田様のお屋敷を黙って抜け出てしまいました。今から戻ってしっかりとお話ししたいと思います。」
「何? それはいかん。直ぐに戻りなさい!」
「はい!」
松陰が再び家を出ようとした、まさにその時、
「御免。」
松陰を訪ねて来た清風ら一行であった。
今までどこに行っていたのか、亦介も混じっている。
清風の顔は、悪戯が成功したと喜色満面の笑みで、ニコニコと松陰に笑いかけていた。
その後ろには一貫斎やお菊、才太らが並んでいる。
皆、何故か清風と同じ様なニコニコ顔だ。
そうか、皆にも全てを話したか、と松陰は悟った。
この恨み、どう晴らしたものかと思ったが、それは今は頭の片隅に追いやり、清風らを迎え入れる。
そしてその夜、清風の手配で、一貫斎らの歓迎会が執り行われた。
場所は杉家の新しい屋敷である。
豪農の屋敷なだけあって、宴会をする広さは十分。
こうなる事も見越しての清風の選択である。
流石清風、伊達に長州藩の実務をその手に握っているわけではない。
文之進も交え、お美代も八重も初登場の亦介の妻子も同席し、賑やかに場が盛り上がる。
船中での亦介の船酔いや、道中の苦労話、土産物の披露と味見、一貫斎らの自己紹介などで楽しい時間を過ごしたのだった。




