帰郷
思ったよりも時間がかかり、三人が宿に帰った頃には、嘉蔵も交えた宴会の最中であった。
まだ日は残っているのだが……。
そんな予算があったのか不思議に思ったが、亦介が京で稼いだお金らしい。
交際費として渡したので返す必要も無いが、まさか増やしていたとは……。
それには松陰も驚いた。
城の帰りから才太の視線が松陰に突き刺さっている。
そんな視線に晒されつつ、既に出来上がっている小楠は松陰を待ち構えていた。
三郎太や重之助から聞き出した、長州藩での松陰の言動を、本人に根掘り葉掘り聞きたいらしい。
酔っ払いとはいえ、適当に答えていれば絡んできそうである。
松陰は小楠の質問に丁寧に答えた。
そんな松陰の受け答えに才太の目が益々鋭くなっていく……。
そして迎えた次の日の朝、半ば予想していたが、空は快晴、風はない。
宇和島藩に用事は無くなったという事なのだろう。
船で大阪に向かう小楠と別れ、嘉蔵も加えた一行は長州藩を目指す。
嘉蔵の嫁さんも問題はなかったらしい。
むしろ、しっかり稼いでね、という事の様だ。
いつの時代も女はしっかりしているのだな、と思った松陰である。
波は穏やか、潮も良い。
風は順風で航海にはうってつけな日和であった。
船は飛ぶように海面を進み、その日のうちに三田尻港へと到着した。
亦介の船酔いも無く、一行は旅路を急ぐ。
一刻も早く帰りたい、というよりも反本丸の心配である。
味噌に漬けてあるとはいえ生ものであるし、腐ってしまわないかと心配だったのだ。
そして、松陰のもう一つの心配。
それは、三田尻から萩を目指す中、現実のものとなる。
やっぱあれって、あの人だよなぁ……。
松陰は一人心の中で呟いた。
同行する者でそれに気づく者はいるはずもな……くはなかった。
才太である。
松陰の何気ない素振りにも目を光らせている男、それが才太!
今回も、松陰の驚いた気配を察し、気配の先を探る。
「何だあの若造? やけに頭がでかいな……」
松陰の視線の先にいた人物の風貌に、才太は驚いた。
そう、一行の先には、やけに頭の大きい若者が立っていたのだ。
買い物をしているのか店屋の前に立ち、店の者と何やら話している。
粗末過ぎるでもなく華美でもなく、至って普通の、つまりはやや古ぼけた衣服を身に付け、立っている。
武士ではないのか脇差などはない。
左手には風呂敷を持ち、用を終えたのかお店から立ち去るらしく向きを変えた。
これも天意か……。
松陰自身、そう思い始めた香霊大明神の意思を感じ、思い切ってその青年に声を掛けた。
「失礼します。村田蔵六殿ではございませんか?」
村田蔵六。
後の大村益次郎。
維新十傑の一人。
靖国神社参道の真ん中に立つ銅像が有名である。
あだ名は”火吹き達磨”。
文政8年(1824年)、長州藩の周防国吉敷郡鋳銭司に、村医村田孝益と妻うめの長男として生を受ける。
幼名は宗太郎。
医者としての教育を重ね、大阪の緒方洪庵の適塾で蘭学、医学を学び、塾頭にまで進む。
父親に請われて村に帰り、医者となり、百姓の娘琴子と結婚する。
ペリー来航後は宇和島藩へ出向き、嘉蔵と共に国産蒸気船を建造する。
この頃蔵六を改名するのであるが、混乱を避ける為蔵六で通す。
宇和島藩だけでなく幕府からも重用されたが、長州藩の要請を受け故郷へと帰り、長州藩の兵制の改革に尽力する。
長州征伐、戊辰戦争で活躍したが、反発する勢力に襲われ、斃れる。
その最期は悲惨である。
大怪我を負ったものの一命を取り留めたのだが、足に受けた傷が深く、切断を余儀なくされた。
しかし、手術を受けるには朝廷の勅許が必要で、それに手間取り、敗血症で亡くなってしまう……。
その蔵六でありが、頭脳は明晰だが医者の腕はなかったらしい。
酒を飲む事くらいが楽しみで、豆腐が好きだったらしい。
そしてその大きな特徴が、小柄で色黒、大きな頭に大きな額、大きな眉毛だったらしい。
関係者の証言で出来上がった肖像を確かめて見て欲しい。
その村田蔵六である。
オランダ語の兵学書を独学で習得するなど、語学は元より医学、兵学、化学の知識に秀でた軍政チート野郎なのだ。
「誰ですか?」
この蔵六、無愛想であった。
「失礼しました。私は吉田松陰と申します。萩明倫館にて山鹿流兵学師範を仰せつかる身にある者です。」
「そんな偉いお侍様が、村医者の倅に何の御用ですか?」
うーむ、本当に愛想がない、と松陰は思う
「我々も急いでおりますので長話は出来ませんが、長州藩を、いえ、この日本を助ける為、村田殿のお力を貸して欲しいのです!」
蔵六、ポカーンである。
一体何を言われたのか理解出来ない。
「藩を? 日本を? 助ける? 村医者の倅のこの私が?」
「そうです! アナタの顔にはそういう相が出ておるのです! 天下第一の才を持った相です! 私にはわかります! 萩明倫館、山鹿流兵学師範である私が断言します! 村の医者も立派な志にございますが、アナタはそんな器に納まるお人ではありません! 出来れば今年中に一度萩を訪ねて下さい。これは天命ですよ!」
松陰は言うだけ言って、蔵六を置いて立ち去った。
是非とも蔵六には萩に来て欲しいが、今はどうなのだろう?
いざとなれば、清風に手を回してもらって明倫館に呼べばいいとも思う。
松陰はそう判断し、未だに松陰の言葉を消化しきれていない蔵六に別れを告げた。
「松陰殿、どうしてあの青年に声をかけたのでござるか?」
皆を代表し、亦介が質問した。
「皆様がお聞きの通りにございます。あの方は、この国にとって無くてはならないお人になるでしょう。諸国を遊学するのもいいですが、正直時間がないので、一刻も早く萩に来てもらいたいのです。」
「しかし、むらたぞうろく、でござったか? 松陰殿は結局あの者の名も聞いておらぬでござろう? 本当にあの者なのでござるか?」
松陰の笑顔が凍った。
確かに名前を確認していない。
風貌は伝え聞く村田蔵六そのものだったが、他人の空似、という可能性も微かではあるが存在している気配が微妙にする。
いや、あれは蔵六さん以外有り得ない! と松陰は疑念を打ち消したが、まさか、という思いを無くす事は出来なかった……。
そんな丸分かりの松陰の心の葛藤に、一同深くため息をつく。
そして才太はそれを眺めて更に疑念を深める。
「拙者、一足早く萩に帰っておくでござるよ。」
山口に着き、一息つこうという時に亦介が言い、返事を待つでもなく走り出す。
残された一行は茶屋で休み、残りの距離を歩き出した。
山口まで来れば萩はもうすぐである。
「松陰君のご家族は、どないな人やの?」
萩がもう直ぐとなり、早足になりそうな松陰にお菊が尋ねた。
「そうでございますね。父上は、祖霊や主君への毎朝のお祈りを欠かさず、口数少なく、寸暇を惜しんで読書をし、質素倹約に努めている人ですね。母上は、いつも明るい笑顔を絶やさず、困った人を放って置けない優しい人です。」
松陰はお菊の質問に、笑顔で答えた。
それにはお菊も笑顔になる。
「素晴らしいご両親なんやね。松陰君には兄弟はおるの?」
「私の事をよく理解してくれている、優しいけれどもご自分の不利益は上手に回避する計算高い兄上が一人と、ちょっと肝が据わりすぎている気がする上の妹と、生まれたばかりの下の妹と、あとはちょっと食い意地がはった、けれども可愛い妹がおりますね。」
「なんや、お兄さんにはえらい手厳しい様な……」
「違いますよ、尊敬しているだけにございます。何せ私が赤ん坊の頃からあやして、オシメも換えてあげた人ですからね。格別の親愛の情も湧くというものです。」
「いや、逆やろ? なんで松陰君があやしてるん?」
「はっはっは。冗談でございますよ。」
「松陰君が言うと冗談には聞こえへんわ……」
言って松陰は、萩を出て一ヶ月も経っていないにも関わらず、随分と懐かしい気分がしていた。
家族は皆健康だろうか? 何もなかっただろうかと思う。
「何ちゅうか、何ヶ月も経った気がするっちゃ。」
「ワイも江戸から帰って来た時なんか、よくそう思ったもんや。実際何ヶ月も江戸で過ごしたんやけど……」
「私は、萩を出たのが初めてですから、何もかもが新鮮で、長いこと帰って来なかった気分です。嘉蔵さんは、旅に出た事はあるのですか?」
「いえ、オラも初めてですので、楽しいですよ。」
「ほっほっほ。麻呂もここまでの遠出は初めてでおじゃる。山口といえば西の京と言われておる割りに、随分と小さな街でおじゃったな。」
「……」
才太は無言で歩を進めている。
「そう言えば、ウチらはどこに泊まるの?」
「それでございますが、当初は一貫斎殿だけだと思っておりましたので、当座は我が家に泊まって頂ければと思っておりましたが、これだけ増えたとなるとそうも参りませんね。村田様にお話しし、宿を確保したいと思います。ご不便かとは思いますが、皆様どうぞお許し下さい。」
「嫌やわ、そないに他人行儀な。ウチは松陰君の布団に入れてもらえればそれでええで?」
「ぶっ!!」
変な音を出したのは才太である。
「夫婦でもない男女が同じ屋根の下で暮らすなど言語道断! でございましょう? わかっておりますよ、才太殿。」
「ぐっ! わ、分かっておれば良い!」
才太の相手は面倒なので先回りして制しておく。
「せやけど実際問題、じいちゃんが顕微鏡を研究しよう思うたら、松陰君の家の傍がええ思うで? 色々話す事もある思うし。」
それは松陰も考えていた。
ああでもない、こうでもないといった試行錯誤になると思うから、双方近い所に住んだ方が都合が良いように思う。
まあ、全ては萩に着いてからだろう。




