大阪に発つ朝
皆が寝静まった頃、亦介らは宿へと戻ってきていた。
皆を起こさぬ様に静かに布団にくるまり、爆睡し、朝を迎えた。
「亦介殿も才太殿も無事に戻ってきていたのですね。」
昨日と同じ様に朝早くに起きた松陰は、いびきをかいて寝ている亦介と才太に気づき、ほっと安堵した。
まさかあるまいとは思ったが、才太が割腹でもしてしまったのでは? と危惧していたのだ。
朝のお祈りを済ませ、朝食の時間となり、皆を起こしに部屋へと戻る。
「皆さん、朝ですよ! 亦介殿も才太殿も起きて下さい!」
昨夜は泊まっていった儀右衛門、弥九郎は既に起きている。
寝ているのは亦介らのみであった。
ムニャムニャ言いつつ起き上がる三人。
……三人?!
松陰は自分の目がおかしいのかと再び数えてみたが、間違いなく三人であった。
亦介、才太、そして見知らぬ青年が一人混じっている。
まさか昨夜、亦介が連れて帰ったのだろうか?
服装から察するに武士ではなく、町人の様で、暢気に欠伸などしている。
「すみません、アナタはどなたでございますか?」
寝ぼけ眼の青年に尋ねた。
「苦しうない。麻呂の事は放っておいてたもれ。」
麻呂キター!!
な場合ではない。
大阪に発つ朝だというのに面倒そうな人物の出現である。
服装は町人っぽいが、まさかのお公家さんの出現に戸惑う松陰であった。
「亦介殿! どういう事でございますか?! 生き物を無闇に連れて帰ってはならぬとあれ程言ったでございましょう!」
未だに目の覚めきってはいない亦介に詰問する松陰。
「その言葉、拙者の母上にそっくりでござるなー。」
「だから! この方は一体どなたでございますか!」
「おい! 亦介兄貴に無礼な口をきくんじゃねーよ!」
「兄貴?! 才太殿、アナタは一体どうなされたのですか?」
「あ? 兄貴を兄貴と言って何が悪い!」
「柄も悪くなってるし! 私は昨日の今日で一体何故と聞いているだけですが……」
「どうしたもこうしたもねーよ。兄貴と慕うから兄貴と呼んでるだけだ!」
「意味がわかんないです……」
「あれから色々とあったでござる。それはさておき、その青年に見覚えはあるでござるが、どうしてここに? 一緒に帰った記憶はないのでござるよ……」
目の覚めたらしい亦介が、件の青年に首を傾げている。
そんな中、お菊、一貫斎も合流した。
お菊を見つけ、喜ぶ謎の青年。
「これは! 大層立派な物をお持ちのオナゴでおじゃるな! そこの女、そう、そなたじゃ。そなた、麻呂の妾にどうでおじゃるか?」
初対面であるお菊に対し、馴れ馴れしい麻呂に才太も憤る。
「おいテメー! 馴れ馴れしいんだよ!って言うか、どうしてオメーがここにいるんだよ?」
「嫉妬でおじゃるか? わかったでおじゃる! 昨日言っていたオナゴとは、このオナゴの事でおじゃるな?」
「うっ! うっせーんだよ!!」
「図星でおじゃるか。」
何やら昨夜の男三人の会話が透けて見える。
「なんやの、この人? 誰やの松陰君? それに、才太様もどないしたん?」
「いえ、私も知りたい位です。」
「女、麻呂の名は岩倉具視でおじゃる。」
「まさかの岩倉卿?! でも、私が聞いた時には答えてくれなかったのに……」
岩倉具視。
公家にして維新十傑の一人。
文政8年(1825年)、公卿堀河康親の次男として生まれる。
天保9年(1838年)、岩倉家の養子に入り、具視の名を得る。
下級の公家でありながら徐々に頭角を現し、やがて朝廷内で確固たる地位を築く。
開国にあくまで反対する孝明天皇を毒殺したとも言われるが、後の研究で天然痘による崩御であったらしい事がわかり、容疑が晴れる。
しかし、自らの死の間際に、明かせぬ事はいくつもやったと言ったそうである。
欧米各国を歴訪した岩倉使節団は有名であろう。
「そうそう。そう言っておったでござる。しかし、公家様がどうしてここにいるのでござるか?」
「麻呂は賭け事にはとんと弱いでおじゃるが、金の匂いには滅法鋭いのでおじゃる。この亦介の話から金の匂いを感じ、喰らい憑こうとやって来たでおじゃる。公家の世界に儲かりそうな話はてんでないので、市井で網を張っていたのでおじゃる。昨夜、見事カモを見つけたので、家業も放ってついて行く事にしたでおじゃる。金になりそうなら脇目も振らず、すっぽんの様に喰らい付け、とは麻呂の養父の教えにおじゃる。」
カモ発言頂きました、と松陰はどっと疲れてしまったが、ここまではっきり言われると逆に清々しい。
「どうでござる? 中々面白そうな公家様でござろう?」
「それは確かに認めますが、公家のお人が勝手に我々に付いて行っていいのですか? 我々は長州藩に帰るのですよ?」
「麻呂の家業の事は心配御無用におじゃる。後で手紙の一つでも出せば、朝廷に差し出す金次第でどうとでもなるでおじゃるよ。」
「いえ、誰もあなた様の事を心配しておりませんし、そもそもついて来て欲しくないのですが……」
「ほっほっほ! 一度喰らいついた麻呂から逃げられると思わぬ方がいいのでおじゃる。骨までしゃぶってやるでおじゃるよ。」
「……欲張りすぎると自滅いたしますよ?」
「活かさず殺さずでおじゃるな。心得ているでおじゃる。」
「駄目だこの人……」
絶大な政治力を発揮しつつも時に疎まれ朝廷から去り、返り咲いて薩摩長州勢を倒幕へと導き、新政府内でも要職を歴任した岩倉具視。
公家らしくない公家だと世間から評価されていた岩倉卿だけに、現物も誠に公家らしくない。
冗談なのか本気なのか区別がつかない、誠にもって捉えどころのないその人柄は、はっきり言えば疲れる、の一言であった。
そして、岩倉卿も加わった朝食を済ませ、大阪へと発つ一行。
大阪へは、京の伏見から淀川水系を船で下る。
弥九郎の目的地は大阪、儀右衛門は伏見に住んでいるので皆して伏見まで歩いた。
道中、立ち位置の良く分からない岩倉卿、昨夜の話を知らない才太がいるので、取り留めのない話に終始した。
それに、街中で密航に関して話せる訳もない。
「ほっほっほ。あの剣客斉藤弥九郎、からくり儀右衛門、そして国友一貫斎、その孫娘とは! なんでおじゃるかこの集団は! やはり麻呂の鼻は正しかったでおじゃるな! 何とも銭の匂いがするでおじゃるよ! 何より驚きなのは、それを率いるのが麻呂よりも5つも年若い洟垂れ小僧とは! いやはや、全く驚きでおじゃる!」
「洟は垂らしておりませんが……」
しかしそれでも、岩倉卿はこの一行のメンバーに興奮気味であった。
からくり儀右衛門のからくり人形は既に有名であったし、一貫斎の名も轟いている。
そんな二人が並んで歩き、それぞれの発明品に関しての意見交換や今後の展望などを話しているのだ。
それがどんな儲け話となるかはわからない。
それでも、岩倉卿の心を躍らせるには十分であった。
儀右衛門、一貫斎、お菊は、当面の一貫斎の課題、顕微鏡について話している。
松陰の描いた設計図らしき物、それは前世、理科の実験で使った顕微鏡のイメージ図であったが、それを取り出してはそれぞれの意見を交換していた。
完成予想図を見れば、その中身も想像がついた。
そこら辺りは当代きっての発明者である一貫斎、儀右衛門である。
弥九郎、亦介、才太は、剣術に関して盛り上がっている。
才太は新心流居合術を学び、新心新流という、新・心新流だか新心・新流なのかわからない、ギャグ? と間違う流派を立てるのだが、弥九郎の神道無念流にも興味があった。
とはいえ、流石に街中で型の披露を願う訳にもいかない。
剣の道とは? 心の置き方とは? といった事を弥九郎に尋ね、弥九郎が答えている。
残った子供達である松陰、三郎太、重之助は、京で味わった銘菓、近江で食べた反本丸について感想を述べ合った。
途中、反本丸の原料である牛肉を捌く時につきものの、牛の脂に思いが及び、牛脂石鹸の原料確保の目処の可能性に思い至る松陰であった。
それを忘れていた松陰は落ち込む。
どうしてそれを考えなかったのかと。
折角の機会であったのに、と。
落ち込む松陰に、三郎太は牛の脂が入手可能な事を告げた。
穢多集落の発展を常に考えている三郎太は、今回の機会を逃さなかったのだ。
そんな三郎太に、流石三郎太君! と松陰は褒め上げた。
こうして到着した伏見で一行は儀右衛門と別れ、大阪行きの船に乗る。
船着場は大阪へ行く人と京へと上ってきた人、行き交う船で賑わっており、さながら芋の子を洗う様であった。
無事大阪行きの船に乗り込み、流れの緩やかな淀川を下る。
行き交う船に飲食物を売る”くらわんか舟”が近づき、飯、汁、餅などを売ってくる。
一行は淀川の景色を楽しみながら、くらわんか舟から買ったお昼を食べ、つかの間の川旅を満喫した。
約半日かけ大阪に到着した一行。
まずは宿を確保する。
弥九郎は大阪に用事があるが、この日は宿を共にした。
さて、天下の台所大阪である。
美味い物が集まる訳ではなく、その素材が集まる街であった。
そうは言うものの、様々な食材が集まる事には変わりはない。
その食材を使い、美味しそうな食べ物が溢れる街大阪。
松陰は、目を輝かせて大阪の街を眺めた。
翌日、弥九郎とも別れ、旅路を急ぐ一行。
これ以上余計な事をしていたら、さらに人が増えてしまいそうな気がし、急ぐ事にしたのだ。
「麻呂の儲けが減るでおじゃる。徒に人を増やすのは反対でおじゃる。金蔓は麻呂が大事にするでおじゃるよ。」
「いえ、岩倉卿の存在って作物の生長を阻害する害虫そのものですよね?」
「照れるでおじゃる。麻呂は精々甘い汁を吸う程度でおじゃる。成長を阻害するなんてとてもとても。麻呂は小さな小さなアブラムシでしかないでおじゃるよ。」
「アブラムシって直ぐに増えてしまいますよね?」
「心配致すでない。麻呂は増えぬでおじゃるよ。」
「こんな方が増えたら怖いです……」
人を金蔓呼ばわりし、甘い汁を吸うとのたまう岩倉卿を皆は冷めた目で見つめるが、蛙の面に小便とばかり、まるで気にしていない風な岩倉卿であった。
瀬戸内海を船にて進む事にする一行であったが、亦介が難色を示した。
日本海での船酔いを思い出したからである。
しかし、元々が波の穏やかな内海であるので、亦介の抗議はあっさり却下された。
岩倉卿は言動が公家らしくないという事でしたが、それだと区別がつかないのでおじゃる口調にしました。
ワンパターンですが、お許し下さい。




