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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
彦根藩への旅路編
38/239

斉藤弥九郎という男

 亦介の声に一行はその視線の先を追った。

 そこには眼光鋭い一人の男が立っていた。

 自然体でいるのに隙が無い。

 剣術の事は良く分からない松陰にも、その男の纏う強者の雰囲気は理解できた。


 「斎藤先生! 拙者、江戸の練兵館でご指導して頂いた、長州藩士の山田亦介でござる!」

 「おお、山田か! これは奇遇な事だ! よもやこの様な地で出会うとはな!」

 「全くでござる! もしや先生は、武者修行中でござるか?」

 「何を言うておる。最早その様な年ではないぞ、山田よ。」

 「それこそ何を仰るのでござるか、先生!」


 亦介とその男は親しげに言葉を交わしている。

 練兵館というから剣術道場であろうか。

 先生というからには、その指導者なのだろう。


 「ええと、亦介殿、そちらのお方は?」


 眺めていても仕方が無いので、松陰が亦介に尋ねた。


 「おおっと、すまんでござる! こちらは神道無念流練兵館が館長、斎藤弥九郎先生でござる。拙者が江戸におる間に大変お世話になったお方にござる。」

 「甚だ力不足ではあるけれども、練兵館を率いておる、斎藤弥九郎と申す。」


 男の自己紹介にざわつく者が一名いた。


 「ほほう! 噂に聞くあの神道無念流か! 是非一度手合わせ願いたいものだ!」


 無論、才太である。

 松陰にとっても、あの桂小五郎が塾頭を務めた練兵館の名は知っていた。

 ”技の千葉”北辰一刀流・玄武館、”位の桃井”鏡新明智流・士学館と共に、”力の斎藤”神道無念流・練兵館として幕末江戸三大道場に数えられる事も。

 とはいえ、剣術にはあまり興味の無い松陰であるので、斎藤弥九郎と聞いても才太程には興奮しない。

 それに、ポカーンとしている三郎太、重之助、お菊をそのままにも出来ない。


 弥九郎が自己紹介をしたので、それに応えて松陰らもそれぞれ名乗った。


 「亦介殿、我々は一度宿に戻ろうと思います。亦介殿は旧交を温めて下さいね。」


 松陰の言葉に、亦介も今の状況を思い出したのか、


 「松陰殿、ちょっと待って下され! 先生、先生はこの後如何なされるのでござるか? 我々は明日大阪に行き、そのまま長州に向かうのでござる。」

 「儂か、儂も実は大阪に用があるが……」 

 「先生もでござるか? 今日はどうされるのでござる?」

 「着いたばかりで宿はまだ決めておらん。」

 「それなら是非ご一緒下され! 松陰殿も良いでござるな? 松陰殿は、必ずこの斎藤先生とお話しするべきでござる! きっと松陰殿の益になるでござるよ!」


 亦介が懸命になってそう訴えた。

 松陰と弥九郎はそんな亦介を不思議がり、互いに見つめ首を傾げたが、断る理由も特にないのでそれを受け入れた。




 宿へと戻った一行を、一貫斎は何やらやけにニコニコとした笑顔で迎えた。

 古い友人にも無事会えた様で、しっかり別れの挨拶が出来たと縁起でもない事を嬉々として話す。

 そんな一貫斎の自己紹介に弥九郎も驚く。

 高名な鉄砲鍛冶であるのみならず、発明家としても名高い国友一貫斎に会えるとは思ってもいなかったからである。

 先程のお菊の自己紹介は名前のみで、一貫斎の孫と知ってなお驚いた弥九郎であった。


 そんな弥九郎も含め、今宵は宿にて夕食をとる事にした。

 豪華とは言えないが、まずまずの食事がお膳に載って運ばれ、皆は舌鼓を打って夕食を終えた。

 食後のお茶の用意が済むと、後は好きにやるからと亦介が女中さんを下がらせる。

 その際、一貫斎に来客がある事が伝えられ、一貫斎は少しの間席を外した。

 どうやら知り合いが顔を見せに来たらしい。

 すぐに戻り、大した用事ではなかったと言う。

 それは兎も角、何やら考えがあるらしいと思った松陰は、事の成り行きを亦介に任せるのだった。


 「しかし驚きましたな。あの国友一貫斎殿が長州藩へ出向き、顕微鏡を作られるとは!」

 「斎藤先生は顕微鏡をご存知なんですなぁ。」

 「止して下され先生なんて! 偶々江戸で見知っていただけのこと。しかし、その顕微鏡を使って微生物を研究だったか。その為に近江まで行き、一貫斎殿に直々に頼まれるとは、吉田殿もその若さで大したものだ!」


 話を振られた松陰は、うんうん頷く亦介を不審に思いながらもそれに応える。


 「必要があったまでの事にございます。」

 「成程。微生物、だったか。それは一体?」

 「目には見えぬ小さき生き物にございます。それを見る為に顕微鏡が必要なのです。」

 「成程。」


 まるで尋問の様だと感じながら、松陰は弥九郎の質問に答えていった。

 亦介が止めるそぶりも見せないので、思う所を存分に話せという事なのだろう。

 松陰はそう思って丁寧に答えた。


 「成程。しかとは理解出来かねる所もあったが、概ね理解は出来た。しかし、お主のそもそもの目的は何なのだ? それが分からぬのだが……」

 「美味い物を食う為にございます!」

 「は? 美味い物を食う?」

 「そうでございます!」

 「どういう事だ?」


 それには周りの者が答えた。

 反本丸を泣きながら食べてましたなぁと一貫斎。

 出発前夜の宴会の席でも幸せそうな満面の笑みやったわぁとお菊。

 牛の肉を食べにうちの集落までやって来て、料理まで披露されたと三郎太。

 評判の美味しいお菓子を調べに行ったら、そこで先生と出会った重之助。

 京の銘菓を食べまくっておったなと才太。

 それに笑顔で頷く亦介である。


 「……成程、どうやら本当らしい……」

 「はい! 美味い物を食う。美味い物を食う事が出来る。それは天下国家を平和に保つ道なのでございます!」


 京の銘菓を存分に味わい、幸せな気分が続いていた松陰の舌は絶好調である。


 「何? 天下国家を平和に保つ?」

 「はい! 古来より、騒乱の多くが、食う物が少なくなった事に端を発するのです! 百姓一揆などその最たる物にございましょう! その原因が凶作だろうが、過酷な取立てであろうが結果は同じ事にございます。米を求めて商人の蔵を打ち壊し、庶民の食う米が無いから大塩平八郎も挙兵したのでございましょう!」


 松陰の言葉は激しい。


 「まこと、食う物を確保する事こそ、天下を平和に治める基本にございます!」

 「成程、それはその通りだな。」

 「はい! 今日の食い物がきとんとある。それは生きる基本にございます。それが美味しい物ならば、幸せでございます。人は幸せならば敢えて争い事を起こそうなどとは考えません!」

 「それも正しいな。」 


 ここで亦介が口を挟んだ。


 「しかし松陰殿、食う物に困ってそうには見えないこの才太殿は、何やらいつも顰め面をしておるでござるよ?」


 急に亦介に名指しされ、しかも常に不平顔だと言われた才太は露骨に嫌な顔をした。


 「はい! 食う物が美味い。それは幸せでございます! しかし、日々の食い物があるだけでは、幸せとは感じなくなるのもまた人の常にございます。」

 「それもそうだろうな。」

 「はい! 衣食住だけでは足りません! 何をするにもお金が必要な世の中です。その為には稼ぎが必要でございましょう。また人は他人に認めてもらいたいものです。誰かに見ていて欲しいものでございます。衣食住が十分でも、一人きりは孤独なものです。人によっては一人が良いかもしれませんが、普通は家族も必要でしょう。」

 「それもまた正しい。」

 「では、この才太殿にも稼ぎと家族があれば良いのでござるか?」

 「お前は俺に何か恨みでもあるのか?」


 亦介が才太を再び俎上に乗せ、堪らず才太は亦介に食って掛かった。


 「いつか花咲く時が来る。そう心に言い聞かせて己を磨き続けても、人の心は弱き物。時には落ち込む事もあるでしょう。時に絶望する事もあるでしょう。磨き続けたはいいけれども、磨き方を間違っていたら切れる刀も鈍らになってしまいます。磨き続けて稀代の名刀となろうとも、収める鞘がなければ凶器と変わらず、触れる物皆傷つけるだけに終わってしまいます。才太殿は、何の為に己を磨いているのですか? 磨き方は正しいのですか?」


 松陰にも言われ、才太もしぶしぶ答えた。


 「磨き方が正しいかはわからぬ。その様な事は考えた事もないからな。何の為かと問われれば、いつか立つかも知れぬ、た……いや、何でもない。いつか来るかもしれぬお役目の為、世の為人の為だ!」


 浪人と偽っているので、いつか立つかも知れぬ藩の為、民の為とは言えない才太であった。

 そんな才太に亦介は問うた。


 「そんな先の事はおいておくでござる! それよりも、才太殿は茶屋で、お菊殿と笑って喋っておったでござる。お菊殿の様なオナゴと夫婦になれば、才太殿も幸せになれるのではござらぬか? のう、お菊殿!」


 亦介に突然呼ばれたお菊は驚きながらも、心得たとばかりに才太に向かってその豊満なモノを突き出して見せた。

 どう? とでも言いたいのだろうか?


 「うっ! い、いや、その……」


 亦介の指摘に才太は狼狽し、己を見つめるお菊の視線から逃れる様に顔を伏せた。

 正確に言えば、その存在をアピールするかの様な二つの膨らみを直視してしまい、赤面したからである。

 事実、埋木舎に入ってからは初めてかもしれぬ、心から楽しい時間であったのだ。

 井伊家の直弼だと知っている城下の者達の中にあって、素直に笑った事などなかったかもしれない。

 柳を見て心を和ませてはいたが、そんな自分さえ、どこか自嘲を込めた目線で眺めていたのかもしれない。 


 「お菊殿の様なオナゴと夫婦になれれば、才太殿は幸せになれそうでござるか? どうなのでござる? 答えるでござるよ!!」


 お酒も入っている亦介は、躊躇う事無く畳み掛ける。


 「……それは、そうだな……。多分、なれるのだろうな……」


 亦介に付き合う程度に飲んでいた才太も、何ともいえない亦介の迫力に押され、搾り出す様に口にした。


 「それは嬉しいんやけども、ウチ、稼ぎの無い男は御免やで?」


 これまで誰にも言った事などない、才太のやっとの言葉を、無残にも打ち砕くお菊の一言であった。


 「う! う、うぅ! うわぁぁぁ!!!」


 顔を真っ赤に染め、逃げる様に走り去った才太。

 そんな才太の様子に、してやったりの顔の亦介。


 「邪魔者がいなくなったので、松陰殿は遠慮せず斎藤先生と話して下され。」

 「え?」


 亦介の言った事が理解出来ない松陰である。

 また、それは弥九郎も同じであった。


 「先生は伊豆の代官、江川英龍殿にお仕えしておるのでござる。江川殿と言えば英明で名の通ったお方。幕府にも期待されておると聞くでござる。松陰殿の志は、幕府の協力なくしては成し遂げられぬと思うでござるが、この機会を利用して、是非先生と縁を深めて欲しいのでござる! アヘン戦争については、必ずお聞かせするでござるよ!」

 

 江川英龍の名は、伊豆の反射炉と言えば早いだろうか。


 「その為に才太殿を追い払ったのでございますか?」

 「それもあるでござるが、あの御仁の余裕の無い表情が可哀想でござってな。こうでもせぬとあの御仁の固い殻は壊せぬと思い、ああした次第。」

 「というか、才太殿は大丈夫ですか? 恥をかいたと腹でも切ってもらっては困るのですが……」

 「何、心配は無用にござる。拙者が今からきちんと後始末をしておくでござる。ついては、その費用が欲しいのでござるが……」

 「どうするつもりなのですか?」

 「いや、何、男同士でしかわからぬ事もあるのでござる!」


 察した松陰が金銭担当の三郎太に費用を求めた。

 

 「余り羽目を外さないで下さいね。」


 松陰は念を押しながら、お金を手渡す。

 亦介はホクホク顔で才太を追い、部屋を出て行った。

 舞妓さんが待っているでござるよ!

 とは、松陰にだけ聞こえた亦介の心の声である。


 さて、残った者は微妙な表情でお互いを見合わせた。


 「山田は、剣の腕はそうでもないのだが、ああいった事は得意でな。儂の道場でも色々とやっておったのう。それに、儂が江川様に仕えているなど、どこから聞いたのやら。侮れぬ奴……」


 弥九郎がぼそっと漏らした。


 「して、山田が最後に口にした、あへん戦争とは一体?」


 急に鋭い顔になり、松陰を見据えた弥九郎。

 それに答えようとした松陰を、何を思ったか口止めし、そのまま音も無く立ち上がると、流れる様な所作で隣の部屋とを遮る襖に近づき、「そんな所で聞いていないで、こちらへ来ては如何かな?」と言うが早いか、一気に開け放つ。


 弥九郎が声と共に開いた襖の向こうには、こちらの様子を伺っていたらしい、一人の男が座っていた。

 呆気にとられた様に口をぽかーんと開け、弥九郎を眺めている。

 そして一貫斎は、あちゃー、と言った風であった。

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