長州藩への帰路
「彦根城はいかがでござった?」
松陰、一貫斎とは別れ、反本丸の作り方を調べに行っていた亦介、三郎太、重之助であった。
彦根城には二人で良いと言う事で、三人で一緒に行ったのだ。
「ええ、問題なく済みましたよ。」
彦根城ではね、という言葉は飲み込んだ。余計な心配をさせても仕方無い。
そしてその翌日、一貫斎は子供達を呼んで自身が長州藩へ行き、顕微鏡を作る旨を告げた。
既に齢60の一貫斎である。
その一貫斎が遠くに旅に出、発明に賭けるというのだ。
その意味がわからない子供達ではない。
それに、いくら反対したところで一貫斎の決意が揺らぐ事もないのは十分承知していた。
従って、後は盛大に送り出すしかない。
また、一貫斎の長州行きを知った国友村の人々も、苦労して作った望遠鏡を売って困った人々を救った恩人を送る為、集まってくれたのだった。
その際、一貫斎の娘孫の一人が一貫斎について行くと言い張り、その子を持て余し気味だった両親が一貫斎に丸投げし、騒動にも発展したが、松陰の同意を得た事によって旅の人員が増える事となった。
「ほな、行ってくるで。」
皆に見送られ、軽い挨拶を残し生まれ育った国友村と別れる一貫斎。
その胸中には深い感慨と、残された自分の時間で一体何が出来るのかという期待に満ちていた。
不安は微塵も無い。
「爺ちゃんの事はウチに任せとき!」
無理矢理くっついて来た孫娘お菊が見送る者に宣言している。
正直一貫斎は、このお菊を一番可愛がっていた。
女ながら鉄砲鍛冶の才能があると思っていたからである。
尤も、それが原因で17になった今も、まるで嫁の行き先が見つかりそうに無いので心配していたのだが……。
何せ結婚の話が出るたびに、相手の男の前で鉄砲を触らせてくれるならと注文を付けるのだ。
いくら鉄砲鍛冶の多い国友村であっても、女が鍛冶場に出る事を許す事は無い。
いくらそれが一貫斎の孫であっても、である。
鍛冶場の神様は女を嫌うという言い伝えがあり、普通の鍛冶場は女人禁制であったのだ。
鍛冶とは関係のない家に嫁に行くのはお菊が嫌がり、鍛冶の家では鍛冶場に入れろというお菊を受け入れる事が無い。
双方が折り合わず、嫁にいき遅れ気味であった。
尤も、本人はそれを気にせず、一貫斎の家に入り浸っては一貫斎の発明などに首を突っ込んで喜んでいたのだ。
「なあなあ松陰君。君はウチが鍛冶場に入っても文句を付けんよな?」
国友村を出て暫くは一貫斎の心中を慮り、無言で進んでいた一行であったが、それも僅かな間であった。
松陰の今後の計画とその性格を知ったが為、それに参加しようと同行を言い出したお菊であったのだが、その時は確認出来なかった疑問をついに切り出した。
この少年ならば世間の慣習に縛られず、自分のやりたい事を応援してくれる気がしたのだ。
「お菊殿は鍛冶をなさりたいのですか?」
「殿って水臭いわぁ。菊でええよ?」
「ではお菊さんで。」
「まあええわ。ウチは鉄砲鍛冶になりたいねん!」
「鍛冶場に女性が入るのは禁忌だったと記憶しておりますが?」
松陰が疑問を口にした。
それに答えるお菊の顔は悔しそうに歪んでいる。
「だからやねん! そないな迷信を信じているから新しい発想も生まれんのと違う?」
「それはそうかもしれないですね。でもまあ、迷信であっても、それを大事にする人もいる訳で、その心も尊重したいです。それに、鍛冶場に入らなくても鉄砲は作れると思いますよ?」
「どういう事?」
そういう松陰にお菊はくいつく。
「設計はお菊さんが、製造は鍛冶の人に任せればいいのではないですか?」
「それはええ考えやね! ウチにやらせてくれるん?」
「まあ、鉄砲も作らないといけませんし、大筒、大砲も作りたいですしね。一貫斎殿には目下顕微鏡をお願いするとして、いずれは、ですね。」
これにはお菊も大興奮である。
鉄砲だけでなく、大筒までも作れるとは思っていなかったのだ。
「大筒?! 大砲?! やっぱ君について来て正解やったわ! ええねえ君! お姉さんが嫁にいったるわ! 鉄砲を作らせてくれたら、やけど!」
「そのご好意は有難く頂戴いたしますが、私には心に決めた女性がおりますので、丁重にお断りさせて頂きます。」
「何や、そうかいな。ま、ウチは鉄砲を作らせてくれたらそれでええねんけどな。」
「うーん、いつの間にやら、一貫斎殿にお願いする方向とは違う道に進みそうな感じが……」
そんな具合の二人の様子に重之助は小言を呟いている。
「先生に君?! 偉そうな態度をしちょるオナゴじゃ!」
「まあまあ、重之助殿。彼女は先生よりも年上ですし、子弟でもないのですから。」
そんな重之助を三郎太が宥めている。
「すまんのう。あの子は昔からお転婆なんや……。ええ子なんやけど、こうと決めた事には真っ直ぐでのう……」
誰とも無く謝る一貫斎である。
「くくく、ついに松陰殿にも春がやって来るでござるか? 夢に出てくるオナゴがどうとか言っておったでござるが、現実のオナゴを前に、それがいつまで続くでござろうな。何せお菊殿のあのけしからん体! 健全な男子ならいつまでも耐え切れるものではござらんぞ?」
ニヤニヤして二人を見守る亦介である。
そんな一行は琵琶湖の上を走る船で大津に向かった。
船は勘弁と訴える亦介の意見は即座に却下される。
日本海の荒波ならばまだしも、湖の揺れは問題ないだろうとの判断である。
船酔いの記憶に顔を青ざめていた亦介であったが、流石に穏やかな琵琶湖くらいでは船酔いは起きず、平和なうちに大津へと着いた一行であった。
大津から京都へは徒歩で向かう。
直線距離で約10km。
一貫斎の足であったも、大した距離ではない。
が、松陰は驚くべき光景を目にし、船から降りる足が止まってしまった。
大津の船着場に、見覚えのある青年がこちらを見据え、立っていたのだ。
旅装束に身を包み、こちらを睨む様に鋭い目つきで見据えるその青年は、彦根城の城下にある井伊家の控え屋敷に住んでいた、井伊直弼その人であった。
他人の空似! 偶々! 偶然! 自分達には関係ない!
そう自分の言い聞かせ、目線を合わせない様にそそくさと船を降りる松陰。
「何でござるかあの者は? こちらを睨んでおるでござるよ? 無礼な奴でござるな!」
「亦介殿! あの様な輩に下手に関わってはいけません! それよりも早く京都に向かいましょう!」
直弼の視線に気づいた亦介が、不躾な行為に怒りそうになったのを松陰は慌てて止めた。
しかし、松陰の健闘も空しく一行の前に立ち塞がる直弼。
「俺を無視して進もうとは、随分虫のいい話だぞ?」
「虫だけに、無視して進むとはお侍様もお上手です事!」
その人物が誰だか知らないお菊が軽く言う。
「うッ! お、女?! 一体何者だ?」
何故か顔を赤らめ、慌てた様に喋る直弼。
「ウチは国友一貫斎の孫、菊にございます。」
「一貫斎の孫? 貴様、俺を知らないのか?」
「はて? どなたさんでしたっけ?」
お菊の答えにがっくりとなる直弼。
「そうだよな、これが俺の知名度だよな。いいんだ、俺なんて。所詮庶子の14男だよな。領民に顔なんか知られていないわな。城下ならまだしも、国友村の者で俺なんかを知ってる方がおかしいわな……」
何故かいじけてブツブツ呟いている。
これはチャンスと松陰は皆を連れ、船着場より立ち去った。
我に返り、一行が消えた事に気づいた直弼が、慌ててその後を追いかける。
武芸で鍛えた直弼の足は速く、松陰一行が逃げ切れるものではない。
「ええい待たぬか!」
「我々は急いでおるのです! 邪魔しないで頂きたい!」
「心配いたすな! 邪魔立てするつもりはない! 兄上の意向により、俺もついて行くだけだ!」
「何ですと?!」
看過出来ないセリフに松陰の足も止まる。
「これが兄上からの書状だ。」
言うなり直弼は懐から書状を取り出し、松陰に手渡した。
皆の前で書状を開く事に躊躇いを感じた松陰は、一貫斎、直弼と共に一行より離れ、そこで改めて書状を読み、直弼の話を聞いた。
書状には不遇な生活を送り、考え方が偏っている直弼を矯正したい旨が書かれていた。
視野狭窄気味な直弼であっても、未知なる事に次々挑戦する松陰についていけば、その閉じた視野が広がるだろうと。
甚だ迷惑とは思うが、是非ともお願いしたいと書かれていた。
いや、これは実際甚だ迷惑ですよ、と直亮に言いたい松陰である。
「一貫斎殿はどう思われます?」
「直亮様らしいですわ。ワイは、直亮様の願いを是非とも叶えてもらいたいと思います。」
「直弼様はどうなのですか? 納得しておいでなのですか? やるべき事があるのではなかったのですか? 井伊家の者が他藩に行ってていいのですか? 養子に入るか寺に入るのではないのですか? そんな事で井伊家の伝統はどうなるのですか?」
松陰はまくし立てた。
言外に、付いて来るなと滲ませて。
ここで後ろを向いてそのまま帰れ、と言わんばかりに。
しかし、そんな松陰の思いは直弼には逆効果で、やはりコイツは怪しいと、一層の疑念を抱かせるのだった。
何故なら、譜代筆頭の井伊家は西国諸藩の抑えであるからだ。
天下泰平の世が続いてはいるが、元々は怪しい動きを見せる藩があればその動きを探り、幕府に叛意ありと見なせば武力でもって成敗する役目を持っている。
直弼は、この怪しい少年の動きを監視する必要を感じたのだ。
長州で何をしているかわからないと。
直亮の意向は尊重するが、直亮の様に信用してはならないと、野放しには出来ないと思ったのだ。
「兄上の特別の計らいでな、遊学という事で許可して頂いたのだ。捨扶持として得ていた俸禄もそのままであるし、俺の食い扶持は問題ない。その他では迷惑を掛けるとは思うが、何せ大きな事をやるらしいではないか。それくらい問題なかろう? それとも、俺が出向いて何か困る事でもあるのか?」
怪しいんだよこの野郎! と言いたげな直弼の言葉に、松陰も腹を括る。
「いえいえ、直弼様の滞在で困る事はありませんよ。ただ、私が為そうとしている事は商売にも関わる事なのです。直弼様が長州で知り得た事を、みだりに他言して頂いても困るのです。名物の製法を秘密にするのはお分かり頂けますよね?」
反本丸の製法を調べに行った三人が、大まかな事しか分からずに土産として買って帰って来ただけだったのだ。
直弼も、名物の製法を秘密にするのは理解するので了承する。
「相分かった。みだりと他言する事はないと誓おう。」
「ありがとうございます。それと、彦根藩井伊家の方が我が藩に来られるのは、他の者にいらぬ疑念を抱かせます。そうなると要らぬ揉め事を引き起こしてしまいますので、直弼様には偽名と経歴を偽って頂きたいのですが、如何でございますか?」
これも不審な事ではない。
庶子とはいえ、譜代筆頭の井伊家に連なる者が外様大名の領地に滞在するのだ。
何事かと勘ぐる者が出てきて不思議は無い。
何が隠されているのかと勘ぐっているのが直弼であるから、そんな直弼を不審に思う可能性は大きい。
「それも承知した。それで良い。」
「ありがとうございます。では、彦根出身の浪人で、一貫斎殿の知り合いという事で如何でしょう?」
「それで問題ない。」
「一貫斎殿もそれで大丈夫ですか?」
「問題ないんやないの?」
「お名前は何に致しましょうか?」
松陰に聞かれ、直弼は暫く考え込んだ。
フッと何か思いついた様に顔をあげ、微笑と共に名前を告げる。
「……そうだな。……埋木、埋木才太としよう。」
「わかりました。埋木才太様ですね。」
「俺だけ様付けもおかしかろう。殿で良い。」
「では才太殿、これからよろしくお願いします。」
「宜しく頼む。」
こうして井伊直弼改め埋木才太が一行に加わり、松陰らは旅を再開した。
長州藩への道のりは、まだ始まったばかりである。
一貫斎には顕微鏡その他をお願いするので、鉄砲鍛冶としてお菊に登場してもらいました。




