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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
彦根藩への旅路編
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埋木舎

「くそッ! 馬鹿にしやがって!!」


 一人の青年が顔を真っ赤に染め、怒っていた。

 それは城下町に出た際に偶然耳に入った、自分に関する噂に対しての怒りであった。

 曰く、弟には養子先が見つかったのに、兄である自分に見つからないのは容姿が悪いからだと。

 容姿が悪くて養子先がないってか? やかましいわ!

 曰く、このまま一生嫁をもらう事も無く孤独に過ごすのだろうと。

 余計な心配をするな! うっさいわ!

 曰く、書、絵画、和歌、茶道、剣術、居合、槍術、柔術、砲術、馬術とあれこれ手を出しているのはやる事がないからで羨ましいと。

 捨扶持すてぶちでいいからあやかりたいものだと。

 この生活を続けて何年になると思ってる? 7年近くだぞ! 舐めてんのか?!


 青年は一人憤っていた。

 そして埋木舎うもれぎのやと名づけた屋敷へと戻り、庭に生える柳を眺め、気を落ち着かせた。

 ささくれた心も柳を見ると和らいだのだ。


 「むっとして 戻れば庭に 柳かな」


 そう詠んで心を落ち着かせた。




 青年の名は井伊直弼。

 言わずと知れた幕末を代表する人物である。

 大老として幕政を支え、日米修好通商条約を締結した。

 朝廷の勅許を得ないまま結ばれた条約に攘夷派は反発するが、直弼はその主要人物を弾圧した安政の大獄を指揮する。

 吉田松陰もそれで斃れている。

 そして、尊皇攘夷の重鎮、徳川斉昭を罪に問う事を口にしてしまい、それが水戸藩士を激怒させ、1860年、桜田門外にて凶刃に斃れた。 


 この直弼、文化12年、1815年に13代藩主直中の14男として生まれているのだが、兄弟が多い上に側室の子として生まれた為、養子の先もなく、17歳の時に父が亡くなって後の15年間を井伊家の控え屋敷で過ごしている。

 

 控え屋敷に弟の直恭と共に入って3年を過ぎた20歳の時、養子入りの話しがあり、意気揚々と江戸へと出向く。

 しかしそれは弟のみの事であり、直弼は気落ちして彦根に戻る。


 その際、


 「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心無き身は」


 と歌い、自らを花の咲くことの無い埋もれ木と同じと喩え、けれでも為すべき事があると己を鼓舞した。 


 また、安政の大獄で刑死した松陰であるが、松陰はもともと罪を問われての刑死ではない。

 別件で江戸に呼ばれ、取調べの最中、老中暗殺の計画を立てたという余計な事を自ら口にして、それを咎められての事なのだ。

 いわば自業自得である。

 また、直弼が藩主に就任し、藩政を改革して善政を敷いた事を松陰は称賛していたりする。


 


 「喝!」


 庭に植わる柳を見て心を落ち着かせていた直弼の後ろから大声が響いた。

 直弼はビクっとして振り返る。

 そこに佇むのは年の頃10歳前後の一人の少年と、兄であり養父でもある直亮お気に入りの国友一貫斎の姿があった。


 「何者?」

 「私が何者でも構いません! それよりも、井伊直弼ともあろうお人が何事ですか! 柳を見て和む? まあそれは良しとしましょう。人は誰でも怒る事もあれば気落ちする事もある。それを癒すのは必要な事です。しかし、何が花の咲くことのない埋もれ木ですか! あなたはそれでも徳川四天王井伊直政の末裔ですか! 井伊の赤鬼の末裔ならば、埋もれ木の中にも根を宿し、たとえ誰からも省みられない深山の中にあっても、ただその命ある限り、その花を咲かせてみせるのが本懐というものではございませんか! 何をいじけておるのです!」


 それは複雑な心境で暮らす弟直弼を励ましてやって欲しいと直亮より託された、松陰その人であった。

 あの井伊直弼を?! と尻込みし、適当におだてて帰ろうと思っていた松陰であったが、柳を愛でる後ろ姿にイラッとしてしまい、つい煽ってしまったのだ。

 適当におだててお茶を濁そうと思ったのも無理はない。

 何せ史実では直弼の果断な政治が原因で殺されてしまうのだから。 

 それが、蓋を開けてみれば、柳を愛しそうに眺めて佇む青年である。

 松陰が思わず喝を入れたくなっても不思議は無い。


 「藪から棒に何だお前は! 俺を井伊直弼と知っての事か!」


 年端も行かぬ少年にそう言われ、直弼もついカッとなる。


 「だから井伊家の末裔が何たるザマだと申しておるのです!」


 言われてみればその通り。

 初めから井伊直弼だと承知の上での事だ。


 「お前なんぞに俺の何がわかる!」


 井伊家に生まれた男子は、跡継ぎ以外は他家の養子に行くか、家臣の養子となりその家を継ぐか、寺に入るかという選択肢しかなかった。

 行き先の決まらない間は、父が藩主のままであれば下屋敷に住むが、兄弟の誰かがその跡を継げば城下の控え屋敷に移る必要があった。

 控え屋敷である為、下屋敷と比べ建物は質素であり、中級藩士の屋敷と変わらない。

 直弼はそこで300俵の捨扶持、捨てたつもりで与える米、を得て暮らしていたのだ。

 

 前述した様に、文武両道の多彩な趣味に没頭した生活を送っていたが、その心が晴れたことは無い。

 むしろ、屈折した思いを忘れる為にこそ、打ち込む何かを必要としたのかもしれない。

 しかし松陰には通じる訳が無い。

 それよりも寧ろ、


 「ええ、わかりませんね。しかし逆に、あなたに私の何がわかると言うのです? あなたに分かりますか? 遠い記憶の彼方、確かにあったと思うのに、それが全て幻だったのではないかという恐怖を。あれ程愛してやまなかった存在が、実はただの私の思い込みで、現実には存在しないのではないか、などという一欠片の疑念を。その味を、香りを、外観を、五感全てで覚えているのに、もしかしたら一生手が届かないままかもしれないという不安を。ようやく再会出来たと思ったら、夢であったという空しさを。夢でいいから味わいたいと思う様になってきたこの焦りを。この私の苦しみがあなたに分かると言うのですか!!」


 松陰の叫びに直弼も押し黙った。

 何を言ってるのか理解できなかったのだ。

 

 「こいつは何を言っているんだ?」


 仕方無いので直弼は、松陰の隣にいた一貫斎に尋ねた。

 一貫斎とは面識があったのだ。 

 しかし、一貫斎にも当然わからない。


 「ワイにもわかりまへん。せやけど、何や食いモンの事やと思います。」

 「食い物だと?」

 「そうですわ。反本丸を食って泣いてたお人やさかい、何かの食いモンに未練でもおありなんとちゃいますかねぇ。」

 「まるで信じられんな……」

 「ほんまにねぇ。何や、ここに来たのも食いモンの為だけの様な気がしてきましたわ。」

 「意味がわからん。そもそもお前は何者だ? そして、一貫斎、どうして一緒にいる? 何をしにここに来た?」


 意味がわからない事だらけで混乱した直弼は、とりあえず松陰に聞いてみた。


 「申し遅れました。私は長州藩士吉田松陰にございます。この度は、国友一貫斎殿に作って頂きたい物がございまして、ここ彦根にやって参りました。一貫斎殿には我が藩まで来て頂く必要があり、その許可を井伊候に頂きに参りました。このお屋敷に参った理由は、有体に言えば兄弟愛に感化されて、という感じでしょうか。」

 「成程、兄上の差し金か……」

 「差し金とは言葉が過ぎるのではありませんか? 直亮候はあなたの事をご心配されておりましたよ?」


 直弼の言葉にカチンときた松陰は、つい言ってしまう。

 しかし直弼にそれは通じない。


 「それが大きなお世話だと言うのだ! 7年だぞ、7年! こんな飼い殺しが7年も続いているのだぞ! 井伊家の14男に生まれて、跡継ぎになどなれる訳がなかろう! 他の兄弟は皆他家の養子、家臣の養子に行ったのだ! 俺だけだぞ、行き先が決まらないままここで7年も! 茶道にも、和歌にも、絵画にも手を出した!武道も一通り学んだ! いずれ花を咲かせる事があると思って己を磨いてきた! 中には人に褒められる程に上達したものもある! しかし、全てが無駄ではないのか? 俺の努力は報われないのではないのか? 一生花も咲かせられず、埋もれ木のまま終えるのではないのか? そう頭をよぎるのだ! どれだけ鍛練に打ち込んでも、ふとした弾みに心をよぎるのだ! 今の俺より若い時には藩主となっていた兄上に、この俺の気持ちなどわかってたまるか!!」 


 ついさっき会ったばかりの松陰に、己の心の内を話してしまうなど日頃の直弼では考えられない行いであったが、先程聞いた松陰の抱える苦しみの吐露に、直弼も気が緩んだのかもしれない。

 今まで誰にも言わずに心に秘めてきた思いを、何故か松陰にぶつけてしまう。


 そんな直弼に、


 「それなら心配はご無用にございます。あなた様はいずれ大輪の花を咲かせるお人であります故。今は蕾を育てているだけにございます故。西洋の脅威がこの国に迫り来る時、あなた様は幕政の中心で光り輝く事でしょう。尤も、その光が強すぎて、一方には暗い影を落とす事にもなりましょうが、そこら辺は私が何とか致しましょう。心配めされるな! 今の不安も何もかも、将来咲かせる花への肥えとすれば良いだけにございます。」


 きっぱり言い切った。

 しかし直弼には松陰の言葉が信じられない。

 いきなり現れて予言めいた事を口にする少年を、気味の悪い物を見る目で見つめた。

 

 「何故そんな事を言い切れる? 何故俺にそんな事を言う? お前の目的は何だ?」

 

 松陰は直弼の疑問には答えない。

 てっきり感動してくれるものとばかり思っていたからだ。

 まさか未来を知っているとは、自分の保身の為だとは口が裂けても言えない。

 ここで印象を良くしておけば、将来大老となるはずの直弼への好感度アップは確実、などと考えているとは言える訳がない。 

 もし安政の大獄が起こっても大丈夫な様に、今のうちに保険をかけている、とは理解されるはずがない。


 「全ては香霊様の御心のままに。」


 感動してくれない直弼に、仕方が無いので混乱させて事態を乗り切る作戦に出る。

 思ったよりもガードの固い直弼に、これ以上ここに居たら無礼討ちされそうに感じて、松陰は早急に立ち去る事を決意。

 有耶無耶の内に退散する為、適当な事を言って誤魔化す松陰であった。


 「かれい様? かれい様とは一体何だ?」

 「私が心より求める物であり、私が私である為に必要な存在にございます。」

 「益々意味がわからん!」

 「求めよ、されば与えられん!」


 一刻も早く退散しようと、一貫斎を連れて逃げる様に埋木舎を出て行こうとする松陰。

 

 「待て! 俺の質問に答えてなかろう!」

 「我々は早急に長州まで帰らねばならないのです! 邪魔をしないで頂きたい!」

 「そもそもお前がこの屋敷に来たのであろうが!」


 直弼の当然すぎる言い分である。


 「聞きたい事があれば長州まで来れば良いでしょうが!!」


 逆切れした松陰に直弼は唖然とした。

 俺に何の非があるというんだ? と、根が生真面目な直弼が自問している間に、松陰は一貫斎を連れ、直弼の住む埋木舎を飛び出した。

 これ以上直弼と関わる事を恐れた松陰は、急ぎ国友村に帰るのだった。

井伊の赤鬼、直弼です。


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