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吉田松陰先生 ★

 夢を見た。

 見知らぬ女が泣いている夢だ。

 床に寝転がる俺の傍で、一人の女が泣いている。

 俺を起こそうとしているのか、しきりに俺の肩を揺らしている。

 俺は全く起きる素振りを見せず、ただ寝転がっている。

 それにしても、誰だこの女は?


 誰だろう? 全く記憶にないなずなのに、ずっと一緒にいた様な気がする……。

 それと共に奇妙な空腹感も感じる。

 彼女を見ていると、大盛りのご飯に熱々のルーという、俺の空腹中枢を直撃する美味そうなカレーが思い浮かんでくる。

 どんなに仕事で疲れて何も食べたくないと感じる時にでも、その香りを嗅げばたちどころに食欲が回復し、結局大盛りをお替りする事になる俺特製のカレーが頭に浮かんでくる。

 どういうことだ、これ?

 彼女を見ていると、まるで食欲の塊になった様に無性にカレーが欲しくなってくる。


 そういえば、昨日は結局カレーを食べそびれたのではなかったか? 

 近所のねーちゃんが男と揉めて俺の部屋に避難してきて、警察が来るまでだと思いカレーを振舞った。

 そして俺が俺の分を食べようと思ってたら、揉めていた男がベランダからガラスを破って侵入してきた。

 素晴らしき香りの俺のカレーは興奮した男すらも虜にし、男は黙って食卓について俺の分のカレーを食べ始めた。

 そして俺は、冷蔵庫にある残りのルーをレンチンしようと思って、そう思って、何だっけ?  スパイスの瓶を踏んで転んだはずだが……。


 まあ、俺の事はいい。

 起きてカレーを食べれば良い事だ。

 今はそれより泣いている彼女だ。

 見ているだけでカレーの匂いまで連想させる彼女は、きっとカレーの妖精さんに違いない。

 毎日俺のカレーを熟成させてくれていた、俺の天使に違いない。

 今までの人生で、見ただけでカレーを連想させる人物なんて、ターバンを巻いた怪しげなインド人のハーンさんしか知らねーぞ。

 あれはパチモノのインド人だから除外だ。

 

 ハローマイエンジェル! どうして泣いているんだい?

 君に涙なんて似合わないよ? 君にはきっと、熱々のカレーが似合うと思うな!

 だから俺と一緒にカレーしない? 

 冷蔵庫に美味しいカレーが入っているんだよ。冷蔵庫で熟成された俺のカレーは、ほっぺが落っこちる位にうめーんだぜ?

 

 駄目だ、体が動かない。

 どうして俺は何もできない?

 彼女の涙を拭ってあげたいのに腕が動かない。

 どうした? と聞きたいのに声が出せない。

 どうして俺は床に寝ている? 起きろ!


 起きて彼女に声をかけろ! 俺は大丈夫だと笑いかけてやれ! 起きて彼女を安心させてやれ! そして一緒にカレーを味わうのだ!!




 そして俺は目が覚めた。

 目覚めたと思ったら、それは二度目の生の始まりであった。

 所謂、転生とよばれる事が俺に起きたらしい。

 しかし、なぜ? 

 カレーを食べたいという事は覚えているが、いつの間に死んだんだ、俺? 

 床に転がった瓶を踏んで盛大にすっ転んだのは覚えているが……。

 そうか、それだな。

 それで頭でもぶつけてしまったのだろう。

 意識を失ったまま二度と目覚める事は無く、という事か……。

 警察が来るはずだったが、間に合わなかったのだろうか……。


 ファンタジー小説ではお馴染みの、前世の記憶をもったまま転生するってやつが俺に起こったらしい。

 体は満足に動かせないし目も見えないし、声はオギャーとしか出せない。

 でも、耳は聞こえる。

 初めは収容された病院のベットで寝かされているのかと思ったが、俺にかけられる声とか持ち上げられる時の大きな手の感じとか、おっぱいを吸っている感じだとか、俺が赤ん坊になったとしか思えないのだ。

 生まれたばかりだから目が見えないのだろう。

 しかし、俺にかけられる声が日本語というのはどういうことだろう?

 「トラノスケ、ご飯よー」とか、「トラノスケ、オシメを換えるわねー」とか。

 そうか、俺はトラノスケなのか。

 

 日本語だよな、これ? 

 もしかしたら、異世界の言語が自動翻訳されて聞こえてくる、とか?

 でも、それでも名前までは変換されないだろ?

 日本語が基本の世界なのか?

 色々と疑問を感じながら、俺は眠りとおっぱいとオシメの交換を何度も何度も繰り返し、徐々に体も動く様になりながら、目も開く様になっていった。


 あー、カレーを食べたい……。


 まだうまくピントの合わない目線の先には、どう見ても日本人としか思えない、彫の深くない純日本人然とした女性が俺に笑いかけていた。

 服装も、時代劇で見た江戸時代と思わしき格好である。

 転生物のテンプレでは西洋人っぽい姿形のはずだが、ここはどうやらそうではないらしい。

 「トラノスケ、お母さんよー」とおっぱいをくれる時に聞こえていた声が言ってるので、この女性が俺のこの世界でのお母さんなのだろう。

 

 こんにちは、お母さん、これからよろしくお願いしますね。

 ところでお母さん、この世界にカレーってありますか? あるならせめて匂いだけでも嗅がせてもらえないでしょうか? そろそろカレーの禁断症状が出てきそうなんです。

 ほら、言ってるそばから体が震えてるでしょ? 

 カレー、カレーはいずこ? 

 

 そして俺はカレーの禁断症状から盛大にお漏らしし、ホギャア、ホギャアと泣き喚き、笑顔のお母さんはオシメを換えてくれるのだった。

 ごめんなさいね、まだ排尿のコントロールが出来ないんです。


 そしてまた、眠りとおっぱいと覚醒を繰り返し、俺はゆっくりと育っていく。

 覚醒中は、この家庭内での会話が自然と耳に入ってきた。

 俺だけの部屋があるという訳ではない様だ。

 つまり裕福な家庭ではないらしい。

 だが、それはまた情報収集には好都合でもある。

 この家族に関する事もわかってきた。

 同居家族は俺の父母と父の母親つまり姑、父の弟二人と妹一人、俺の兄ウメタロウである。

 それと姑の妹とその子供と舅、母の妹とその子供らしい。

 そのウメタロウはまだ2歳で、俺の傍で眠っている。

 よう兄貴、よろしくな。

 時代劇っぽく言えば兄上か?

 兄上、カレーって食べてる?

 それにしても、何とまあ大家族なことだ。

 父の兄弟と姑の妹とその子供と舅、母の妹とその子まで同居ってどういうことよ?

 しかも、姑の妹と母の妹とその子は病気らしい。

 母はその看病で大忙しらしい。

 まじでカオスだ。

 

 それはともかく、実は密かに期待していた魔法とかモンスターに関する様な話は一切無かった。

 どうやらファンタジー世界ではないらしい。

 また、畑の野菜の出来がどうとか盛んに話している所を見ると、父は農業をやっているらしい。

 ファンタジー世界で貴族に生まれた淡い期待は敢え無く潰えた。

 それどころか、時々聞こえるオトノサマとかオヤシキとかオツトメとかエドがどうとか、明らかに日本の話なんですけど、これ。

 また彼らは大変な読書好きな様で、読んでいる本の感想なども毎日の様に話している。

 ロンゴのあれこれがどうとか、モウシの場合はこうだとか。

 お殿様、お屋敷、お勤め、江戸、論語、孟子という言葉が使われる場所っていえば、やっぱ日本じゃねーのここ?


 そして俺は重大な事に気づいたのだった。

 カレーに関する会話が一切無い事に。

 交わされる会話にカレー風味がまるでないのだ。

 カレーのカの字もありはしない。

 カレーの話題になればそこはかとなく漂うカレーの残り香さえ感じない。

 もっとも、ここがもしも江戸時代の日本なら当然だ。

 カレーが日本に入ってくるのはもっとずっと後で、明治になってからの事だから。

 

 何てこったい!

 カレーの無い世界に転生ってどんな罰ゲームだよ?

 カレーを創造できるチートでもなければやってられないクソゲーだよ!

 いや、待て。

 まだそうと決まったわけではない。

 日本の江戸時代に似ているだけで全然関係ない異世界かもしれない。

 俺の知るカレーもあるけど、この世界では別の名前なのかもしれないではないか!

 

 しかし兄の名前がウメタロウで俺がトラノスケ? 

 えっと、それって、俺知ってんだけど。

 梅太郎という兄を持ち、虎之助という名前を持った人物を俺は知ってる。

 6歳で吉田家の家名を継ぎ、世に吉田松陰として知られる人物の幼名だ。

 ……マジ? 

 異世界転生ではなく過去に転生。

 テンプレである戦国時代ではなく、幕末の長州藩ですか?

 明治維新を先導した長州藩。

 その維新志士を教育したと言われる吉田松陰。

 それが俺ですか?




 吉田松陰、幼名虎之助。

 後大次郎、松次郎、虎次郎を名乗る。

 天保元年1830年8月4日、長州藩の下級武士杉百合之助、滝の次男として生まれる。

 父は藩士ではあったが当時は無役のため、自給自足が基本の半士半農的な毎日を送っていた。

 読書好きな一家として知られ、幼少の頃より農作業の合間に父から四書五経などを習っていた。

 6歳で叔父の吉田家を継ぎ、11歳で長州藩主毛利慶親に『武教全書』を進講し、藩主に才能を見出される。

 諸国を視察し、友人の敵討ちに同行するため脱藩。

 藩士の籍を剥奪される。

 1853年6月4日に浦賀に来航したペリー率いる黒船に衝撃を受け、翌1854年に再びやって来た黒船に、漂流を装いアメリカに密航しようとするが、開国の交渉への影響を心配したペリーに断られ失敗。

 自首して投獄される。

 故郷の萩で蟄居を命ぜられ、松下村塾を主宰する。

 有名な門下生として奇兵隊を組織した高杉晋作、高杉晋作と共に塾の双璧と呼ばれた久坂玄瑞、初代内閣総理大臣となった伊藤博文、陸軍大臣となった山県有朋などがいる。

 1858年、幕府が朝廷の許可なく日米修好通商条約を締結した事に憤った松陰は、時の老中を暗殺する計画を立てる。

 過激な松陰の思想に驚いた長州藩の首脳陣は松陰を自宅に監禁する。 

 後、幕府の命により江戸に送致され、取調べを受け老中暗殺の計画をうっかり口にしてしまい、1859年江戸伝馬町獄にてあえなく斬首の刑に処されてしまう。

 享年30歳であった。



  

 以上吉田松陰の概要終わり。

 郷里の偉人という事で、小学校の自由研究でしっかり勉強したので覚えている。

 30歳で刑死ですよ。

 若すぎるよ。

 濃すぎる人生ですよ!

 生き急ぎだろ松陰先生!


 もしも俺の推測が正しく、吉田松陰に転生していたとしたら恐ろしい事だ。

 俺は今後カレーを食べられそうに無いということではないのか?

 頼む!

 勘違いであってくれ!


 しかし、俺の願いも空しく、母親に抱えられて家の外へと連れられ、眼下に広がる景色を見た時に、俺の推測は正しかったのだと確信した。

 なぜなら、母親の腕の中から見えている景色は、小学校のバス遠足で巡った吉田松陰生先生誕の地である、団子岩からの景色と同じだったからだ。

 母は無邪気に「虎之助、あれが指月山と指月城よー。」と俺に教えてくれている。

 小学校の遠足では山の麓に石垣を残すのみであったのと比べ、今はしっかり長州藩の指月城があるし、指月山は同じだ。

 それに、ここから眺める町並みは、信号やら電信柱やらビルやらが全く無い古い日本の町並みそのものなのだが、それは確かに二つの川の間の三角州に作られた萩の町並みそのものだった。


 ああ、そうかい。

 やっぱり俺は吉田松陰ですかい。

 はっきり言おう。

 俺が松陰先生の人生を真似るのは無理ゲーです。

 ハードモードを通り越してナイトメアですよこれ。

 これから何が起こるのかは知ってるし、現代知識も役立ちそうだが、松陰先生の為した人材育成の前には些細な事だろう。

 何せ明治維新の立役者たる錚々たる面々に影響を与えた教育をしたのだから。

 その代役を俺ができるわけがない。

 俺が『至誠』なんておこがましい。

 俺にあるのはカレーに対する愛だけだ。

 カレーへの愛を語ったところで誰も相手にしてくれないだろう。

 カレーなんて誰も知らないし、維新と関係ないしな!


 しかし、明治維新を先導する人材を育てなかったらどうなるんだ?

 明治維新は起こらないのか? 

 松下村塾の塾生は近所の子供達だったというから、松陰がいなければ彼らは市井に埋もれたまま、なだけかもしれない。

 松陰の死に奮起した、長州藩ではエリートである高杉晋作も行動を起こさなかったかもしれないし、長州藩もばらばらだったかもしれない。

 坂本竜馬とか西郷隆盛といった面々には影響がないのかもしれないが、薩長同盟が成されなかったかもしれない。

 時代の流れで幕藩体制は終わっていたと思うけれども、俺の知る現代日本とは違った日本となるのかもしれない。

 また、俺なんかが何もしなくても普通に維新は起こるのかもしれない。

 登場人物が変わるだけで大筋は変わらないのかもしれない。

 歴史の修正力というやつだ。


 俺にとっては、このまま何もせずに日本が開国するのを待ち、堂々とインドへ渡り、カレーを食べられたらそれで十分なのだが、果たしてそれだけでいいのだろうか?

 松陰先生の人生をなぞるのはナイトメアで無理だが、のほほんと日本が開国されるのを待つだけでいいのだろうか?

 日本が今後辿る歴史を知っているのに、それに目を瞑って俺はカレーを美味しく味わえるのだろうか?

 俺がこの時代、現代の記憶を持って吉田松陰として生まれた意味はないのだろうか?

 何か意味があって転生したのではなかろうか?

 

 もしかしたら、ぼくのかんがえるさいきょうのにほん、が可能ではなかろうか?

 カレーを食いにインドに行くのは決定事項だが、この時代のインドはイギリスの植民地となり、搾取されていた時代だ。

 偉大なるカレーの聖地インドを植民地にして、イギリスが一体何をしたのか、俺はしっかり知ってるぜ?

 カレーの歴史を学ぶのに、インド史を調べるのは必須だろ?

 因みにインドにカレーという料理は無いらしい。

 ああいった料理全般をカリィというらしいな。


 インドだけではない。

 お隣もそうだ。

 イギリスがアヘンを密売し、それを阻止しようとした清国と戦争となった経緯を知ってるぜ?

 勝ったイギリスは清国に何を要求した?

 そしてそれはイギリスだけではない。

 自由と正義を掲げるアメリカも同じだ。

 フランスも、ドイツもオランダもそうなのだ。

 奴らが世界で、開国後の日本で何をしたのか、何をしなかったのか、俺は知ってるぜ?

 それに対抗し、この知識を使って、あり得たかもしれない日本を作り上げる事も可能ではないのだろうか?

 そうやって初めて、心の底からカレーを楽しむ事が出来るのではなかろうか?

 植民地にされたインドの民の苦しみから目を背けて、カレーを食える訳がないだろうよ!

 一般市民なら仕方無いかもしれないが、俺はあの吉田松陰である。

 時勢に乗って日本を変え、インドを開放してやるさ!

 俺が無理でも後世に託す!!


 俺は、まだ見ぬカレーにそう誓った。


 挿絵(By みてみん)

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