旅の醍醐味
「皆はんはこの後どないされますの?」
話し合いも終わり、松陰の依頼を受ける事にした一貫斎は、聞くとも無く尋ねた。
「そうですね、彦根藩御謹製の近江牛の味噌漬けを食べに行こうかと思っております。」
「何やて?反本丸を食べに行くいうんか?」
反本丸とは近江牛の味噌漬けの事である。
彦根藩では牛を食べる事を薬食いと称しているので、薬っぽい呼び名にしてあるのだ。
そもそもの話として、徳川四天王(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)の一つ井伊家は、京、西国外様大名を抑える為、近江彦根藩に配置された。
常に武具を揃えておかねばならない為、彦根藩は唯一、牛のと殺を認められた藩であった。
鎧製作の為牛を殺し、皮を剥げば肉が残る。
その肉を個人的に利用していた者は当然あったが、それが大量にともなれば、商売の事を考えるのが人情である。
しかし当時は肉食に忌避感がある時代であった。
そこで、3代藩主直澄の家臣花木伝右衛門が、『本草綱目』の中に反本丸の記述を見つけ、真似て味噌漬けを作り、売り出したのだ。
1780年以降になると、彦根藩は「養生肉」の名で将軍家や親藩諸家にも送っている。
因みに、尊皇攘夷主義者で有名な水戸徳川家の斉昭は、殊の外この牛肉が好物で、彦根藩より送られてくるのを楽しみにしていたらしい。
しかし、彦根藩主となった井伊直弼は仏教の精神を大切にし、牛の殺生を禁止する。
そうなれば当然「養生肉」も作られず、水戸家にも届かない様になる。
待ちわびる斉昭は彦根藩に手紙を出し、是非送って欲しいと催促する。
しかし彦根藩の返事は悪い。
牛を殺す事を止めたので無理だと。
そこを曲げてどうにかならないかと請う斉昭。
無理。
彦根藩の答えは変わらない。
落胆した斉昭であったが、御三家の自分がこんなにも頼んでいるのに断るとは、と直弼を恨み、それが桜田門外の変にて水戸藩士が直弼を討つ原因の一つにもなったらしい。
あくまで噂であり、真偽の程は定かでない。
もしそうであったとしたら、げに恐ろしきは食い物の恨みであろう。
「はい。旅の醍醐味の一つは、その土地土地の美味い物を食べる事にありますれば、必ず食さねばなりますまい。」
「あれは一応薬やで? どこか悪いんか?」
「そうですね、心の渇きは癒されませんね。」
松陰は遠い目をしてそう言う。
そんな松陰に訝しげな視線を送る一貫斎。
「何を言うておりますのや?」
「いえ、こちらの事です。」
「まあ、ええか。旅の醍醐味やったら、近江の名物、鮒鮨はどうや?」
「それは既に頂いております。」
松陰の答えに身を乗り出す一貫斎。
「ほう! どうやった?」
「思っていた程には臭いもなく、美味しく頂きました。」
「他のお三方はどないやった?」
一貫斎に振られた三人は、互いに目配せをしあう。
「せ、拙者は、無理でござった」と亦介。
「私は、鼻を摘んでしまえば、何とか……」と三郎太。
「魚であの臭いは……」と重之助。
そんな三人の様子に相好を崩す一貫斎。
「ええねん。ワイも苦手やさかい。初めての人は普通そないなもんや。アンタさんが普通やないだけやで。」
普通でない呼ばわりされた松陰は、史上最強の缶詰と比べたら全然、と思っていた。
「まあ、ええわ。そんで、これからの予定はどないすんの?」
一貫斎への依頼を済ませ、近江牛の味噌漬けを食べ、製法を調べたら用事は終了である。
行きは潮の流れに乗って早かったが、帰りは逆の潮なので陸路を使う予定であった。
何より、亦介が、船は二度と御免でござる! 一人で歩いて帰るでござる! と反対したのだ。
「2,3日してから帰る予定です。」
それを聞いて一貫斎は驚く。
「何や、えらい急やな! まあ、善は急げゆうし、ワイの方もやる事言うたらぎょうさんはないし、十分かいな……」
一貫斎は何やら考え込んでいる。
そしてふいに、
「よっしゃ! 反本丸やな! 折角の遠方からの来客やし、ワイがご馳走したるわ! ワイも食い納めやろうし! これ、草太! ちいと走って反本丸を買うてきてや!」
そう言って一貫斎は、小僧さんと思しき少年にお金を握らせ、反本丸を買いに行かせた。
「そんな! 我々は一貫斎殿にお願いに参ったのですし、そこまでして頂く訳には参りません!」
「ええねん、ええねん。気にする事やおまへんで! ワイがご馳走したいからご馳走すんねん。宿も決まってないんやろ? 出発するまでここに泊まればええで? 遠慮する事はおまへん。これから、ワイがいつまで生きれるかわからんけども、それまではお付き合いさせてもらう相手やしね。冥土の土産にええもん作らせてもらう訳やし、夢を見させてもらった御礼やねん。」
そうまで言われれば、松陰らも一貫斎の世話になる事にした。
その夕餉。
「ほう! これが反本丸ですか!」
一貫斎の指示で、軽く火を通した牛肉の味噌漬けが食卓に並ぶ。
食欲をそそる、焼いた味噌と肉の香りに、松陰も音を出して唾を飲み込んだ。
獣臭い香りは全くしない。
ただ、美味しそうな香りが辺りに充満した。
肉を知っている三郎太はもとより、食べ慣れないはずの亦介、重之助も鼻をひくつかせている。
もっとも、亦介、重之助の顔は若干引きつっているのだが。
「ひょっほっほ! アンタさんは、本当に変わったお人やなぁ。肉言うたら大抵の人は眉を顰めるもんやで? なんや、前にも食った様な感じやないの。」
一貫斎の言葉に松陰は答えた。
「村の近くに、斃死した牛馬の皮をなめしておる者の集落があるのですが、そこでは余った肉を食べておるので、何度かご相伴させてもらっております。」
「アンタさん、それって……。いやはや、全く、アンタさんは本当に変わったお人やなあ……」
そんな一貫斎に、亦介、三郎太、重之助も頷いた。
「斃死した牛馬は血抜きが不十分で臭うのです。しかし、これは臭みが無い! 素晴らしいです!」
興奮する松陰に一貫斎も苦笑しつつ、眺めていても仕方ないと夕餉を始めた。
「ま、冷めても仕方あらへんしな。大した物はあらへんけど、早速頂きまひょう。」
「「いただきます!」」
「「い、いただきます……」」
松陰と三郎太は元気に合掌するが、亦介、重之助はぎこちない。
そんな亦介、重之助には構わず、松陰はまずは反本丸だけを箸に取り、躊躇無く口に放り込んだ。
甘い味噌の香りが口一杯に広がり、鼻腔を埋め尽くす。
程よく焼かれた肉の脂がさっと染み出し、それが味噌と合わさり、味覚を刺激する。
一回、二回、三回と咀嚼し、名残惜しげに飲み下す。
と共に、松陰の頬を涙が零れ落ちた。
「旨い……。これは旨いです!」
「本当ですね、これは美味しい! 臭味なんてないし、味噌と良く合ってますね!」
「いや、美味いのは知っとるけど、泣く程の事かいな?」
褒める松陰、三郎太に一貫斎も満足げだ。
そんな二人の様子に、亦介も重之助も、ようやく決心した様に箸を取り、恐る恐る反本丸を一切れ口に放り込んだ。
数回咀嚼し、飲み込んで、
「う、美味いでござるよ……」
「ぶちうめぇ……」
ぶち、とは山口弁で、本当にとか凄い、とそういう意味である。
そんな客人の様子を笑顔で見つめ、一貫斎も箸を進めた。
子供達が巣立ち、嫁に行き、妻が先立ってからは寂しい食卓であった。
久しぶりの団欒に、一貫斎の食も進む。
肉を漬け込んだ残った味噌さえも残さずに、皆大満足で食事を終えた。
重之助などはご飯を何度もお替りしたのだった。
かく言う松陰も、心から美味いと感じる味噌漬けに舌鼓を打ち、これは絶対に再現せねば、と固く誓った。
やはりやり方次第で美味しくなるのだなと、自信を深めた松陰である。
旅の醍醐味を全力で満喫した。
鮒鮨もシュールストレミングも食べた事はありません。
好きな方には申し訳ありませんです。




