エピローグ 幕末香霊伝
「本当に分かってるのか?」
「大丈夫ですって先輩!」
二人組の男達が歩きながら話していた。
先輩と呼ばれた方は心配げに、若い方はあっけらかんとして見える。
「お前の大丈夫は当てにならんからな……」
「またそういう事を!」
その言葉に抗議する。
そんな会話をしていると二人は目的地に着いた。
「ここが”カレーの吉田”ですか? 随分と小さなお店ですね。」
「お前、そういう事は中では絶対に言うなよ?」
「分かってますよ! あれ? 吉田松陰と同じ吉田なんですね。」
「そう言えばそうだな。まあ偶然だろう?」
着いた先は一軒の飲食店であった。
「最後にもう一度だけ注意するが、店の中で吉田松陰の名だけは呼び捨てにするなというお達しだからな!」
「松陰先生、これでいいですか?」
「くれぐれも頼むぞ! 何か仕出かして我が社が嫌われたら政治部の奴らに殺される!」
「殺されるって大袈裟な!」
「大袈裟なものか! 大体、お前は新聞記者って自覚が」
若い方に言い募ろうとした時だった。
「そこの君達、お店に入るのかね? 入らないのかね?」
後ろから落ち着いた声が響く。
二人は振り返り、飛び上がって驚いた。
「小松閣下?!」
「小松って、あの?」
「どの小松の事を言っているのかは知らないが、お店に入るのでないなら他のお客様の邪魔だから、そこをどいてくれると助かるのだが?」
「は、入ります!」
いつの間にやら後ろに並んでいた老人に促され、二人は急いで入店した。
入るなりカレーの美味しそうな匂いがプーンと香る。
「いらっしゃいませ。」
上品な物腰の老齢の女性店員に迎えられた。
二人は一つだけ空いていた近くのテーブル席に座り、興味深そうにキョロキョロと店内を眺め、ヒソヒソと話す。
「おい、あそこにいるのは渋沢栄一翁じゃないのか?」
「あっちには由利公正翁?」
来店客の顔ぶれに驚いた。
「しかし、まさか一番最初に会ったのが一番会いたかった人物とはな……」
「驚きましたね……」
二人は後ろを振り返る。
当の人物は店に入り、「いつものカレーを」と頼み、席につこうとしたが生憎満席に近い。
どうするのかと二人が思っていると、ツカツカと二人のテーブルへやって来た。
「相席しても構わないかね?」
「も、勿論です、はい!」
尋ねられた方は慌て、どうにかこうにか返事が出来た。
「ご注文のカレーをお持ちしました。」
「ありがとう。早速頂きます。」
「はえぇ……」
カレーの提供の速さに驚く。
そんな二人に女性店員が尋ねた。
「ご注文はお決まりですか?」
「あ、ではカレーを。」
「僕もカレーで!」
「カレーが二つですね、畏まりました。」
つられる様に二人も同じ物を頼む。
出されたコップの水を飲み、一息ついた。
「ほら、お前の企画だろ?」
「分かってますよ!」
片方をせっつき、若い方が口を開く。
「あ、あの!」
「ん?」
相席した客に話しかける。
「貴方は小松帯刀閣下ではありませんか?」
「そうだが、今は食事中なので後にして貰えんかね?」
「す、すみません!」
スプーンを運ぶ手を止め、帯刀は言った。
そうこうしているうちに二人のカレーが提供される。
「先に食っちまおう。」
「そうですね。」
帯刀はカレーを食べる手を止めない。
二人はスプーンに手を伸ばした。
「こりゃあ旨い!」
「本当、美味しいですね!」
「だろう? ここのカレーは世界一だよ!」
旨い旨いと食べる二人に帯刀は嬉しそうに言う。
「御馳走様でした。」
食べ終えたのは同じくらいだった。
二人は帯刀に向き合う。
「僕は東京新報の加藤勇司です。」
「同じ社の中田孝彦です。」
「新聞社の方かね。小松帯刀と申す。」
それぞれが頭を下げた。
「それで新聞社の記者さんが私に何の用かな? 政治の世界から身を引いて久しいが……」
帯刀が尋ねた。
年寄りがいつまでも現役でいると後継者が育たないと、帯刀は政治家から早目に引退していた。
維新の元勲として意見を求められる者も多くいたが、帯刀はそれらから身を引いていた。
引退後は好きな学問に打ち込み、静かな余生を送っている。
「実は我が社で、吉田松陰先生の伝記を出版しようと思っているんです!」
「ほう?」
吉田松陰の名に、店内にいた客がピクリと反応した。
そんな空気の変化を感じつつ、勇司が言う。
「今日は吉田松陰先生の一番弟子と言われる、小松帯刀閣下にお話を伺いたいと思ってやって参りました!」
「私は一番弟子じゃなくて三番弟子だよ。三郎太さんも重之助さんも亡くなられて随分と経つ……」
帯刀が昔を思い出す様に口にした。
その告白も勇司には収穫である。
「そうだったのですか? そういうお話を聞かせて頂ければと思います!」
そんな勇司に帯刀は微笑む。
「食べ終わったのに店に長居するのは迷惑だ。近くに知り合いのやっている喫茶店があるからそちらに移ろう。」
「それはお受け下さるという事ですか?」
「松陰先生の伝記を書くというのに、この私が協力しない筈があるまい。」
「ありがとうございます!」
記者は二人して頭を下げた。
三人は連れだって店を出ようとする。
仕事を引き受けて貰ったのだから自分達が払うと言う二人に、勤めを果たしていないので自分の分は自分で払うと帯刀が主張し、二人が折れた。
「御馳走様でした、先生。また来ます。」
「ありがとうございました。」
帯刀が厨房の店の主人らしき男に声を掛け、店を後にした。
「先生?」
「私があの店の御主人を個人的に尊敬しているのだよ。」
「維新の元勲である小松閣下が先生とまでお呼びする人物ですか!」
孝彦が驚いて叫んだ。
カレーの吉田は維新の重鎮達が足繁く通う店として、新聞各社の政治記者の間では常識である。
維新を成し遂げた数ある英傑達の中でも小松帯刀は勲一等と言える人物であり、その帯刀が尊敬する人物など想像もつかなかった。
「さ、着いた。」
齢70を超えているとは思えない帯刀の歩く速さに、喫茶店に着くまでの時間は短かった。
「いらっしゃいませ!」
「奥のテーブル席で頼むよ。」
「畏まりました!」
店の奥へと案内される。
「コーヒーとマカダミアチョコレートを3つ。君達もそれで構わないだろう?」
「あ、あのう、取材を受けて下さったのですから、ここは我々が払います……」
「松陰先生の話をするのに謝礼を受け取る事は出来んよ。それに、ここのコーヒーとマカダミアチョコレートはハワイ産で、勝閣下と我が国の移民達が苦労の末に作り上げた特産品だ。その計画には私も深く関わっているから、新聞記者の君達に宣伝がてら振る舞いたいだけだよ。」
帯刀が言った。
勇司は困惑して助けを求める。
「えーと、先輩、こういう場合はどうすれば……」
「維新を成し遂げた人達は意志が強固だから、一度言い出した事を覆す事は無理だな……。社には正直に言うしか無いだろう……」
「はい……」
勇司は気を取り直して松陰のエピソードを聞き始めた。
すっかりと時が過ぎ、お昼を食べにも出掛け、尚も話を続けた。
「松陰先生には生存説もありますよね?」
「新聞記者なら当然の様に調べているのだね。」
「遺体を見た人がいないそうですね。秘かに脱獄したのだと真しやかに言われています。」
「実際、私は先生の御遺体を見ていないよ。」
「脱獄の事を幕府が隠す為に切腹を偽装したとか。」
「そういう噂はあったね……」
帯刀は思い出しつつ言った。
「切腹後に出された龍球物語の中で、暗号にしか見えない一文もあります。」
「解読すると松陰健在印度ニ在リ、だったな……」
「そうです! それが出た途端、松陰先生を知っていた者の間で高まっていた、幕府の処置に対する反発が一気に萎んだそうですね?」
「インドは先生の憧れの地であったし、遺体を見た者もいないから妙に納得する者が多かったのだ。」
苦笑を浮かべる。
「切腹は対外的な偽装工作で、別人にする目的で為されたという噂もあります。」
「何故幕府がその様な事をするのかね?」
「維新の一番とも言える功労者ですから、恩情であったとか?」
「どんな恩情だね?」
「本人にやりたい事があっても、有名になり過ぎた吉田松陰の名では難しい事をやらせる為、とか。」
「ほう? それは一体何だというのだね?」
勇司の言葉に帯刀の目が光る。
そんな帯刀に言った。
「切腹事件の数か月後には、暗号文を証明するかの様にインドで独立戦争が起きています。インドの二大叙事詩の一つ、ラーマーヤナの主人公ラーマを名乗る正体不明の人物が突如として現れ、民衆を率いてイギリス相手に戦ったのですよね?」
「そう聞いている。」
「そのラーマを助け、インドの民衆を軍事的に指導したのがハヌマーンと呼ばれる赤い鎧を着た集団だったとか。」
「そうらしいね。」
「その外見の特徴は我が国の武者その物だと感じるのですが……」
帯刀は驚いた。
「おいおい、君はそのラーマなる者が松陰先生だとでも言うのかね?」
「僕はそう考えています!」
その発言に、これまでは黙って聞いていた孝彦が声を出した。
「本当にすいません! こいつは思いつきを直ぐ口にするんです!」
「いや、面白い考察だよ。松陰先生の憧れであったインドは独立の悲願を20年越しに叶えたが、そのラーマなる者は独立後も20年に渡ってインドの政治を担っていた筈だよ。しかし、異国の者が独立運動を率い、その後の政治も主導出来るのかね?」
「それは……」
帯刀の質問に口ごもる。
独立戦争に一兵士として参加する事は出来ようが、その後は難しいだろう。
勇司は痛い所を突かれて下を向いた。
「君は今の我が国の状況をどう思うね?」
気落ちしてしまった勇司に尋ねた。
顔を上げて答える。
「国内だけを見れば平和です。」
「そうだね。しかし、国外に目を向ければ我が国を取り巻く情勢は緊迫しつつある。」
「はい……」
帯刀が説明していった。
「インドとマレー半島を失ったイギリスは往時の権勢を失いつつあり、それを取り戻そうと東アジアでの活動を活発化させ、我が国との貿易に力を注いでいる。」
「インドからの収益は莫大だったのですね……」
「ロシア帝国は革命に倒れ、ニコライ2世の血を引くアナスタシア皇女は我が国にある。」
「知ってます。日本人の侍女が皇女を必死に守って逃がしたそうですね?」
「皇女の引き渡しを求める革命軍を相手に、薙刀一本で立ち向かったという話だね。」
「武家の子女という言葉がピッタリだと思います!」
そんな二人に聞こえない様に帯刀が小声で呟く。
「流石はスズ姉様のお孫さんというべきか……」
「え?」
「いや、何でもない。」
慌てて誤魔化した。
「そのアナスタシア皇女を帝位の後継者とし、ウラジオストックを首都とした国を作る計画もあると聞きました。」
「アラスカを有するロシア極東部は我が国にとっても重要だ。社会主義は危険な思想であるから防波堤の意味もある。」
「皇女の残りの御家族は処刑されてしまったのですよね……」
「失政の責任を取らせるのだろうが、女子供までとは惨いモノだよ……」
「本当に……
言葉を詰まらせた。
気を取り直した帯刀が続ける。
「かつての地位を落としたイギリス、イギリスとの確執が多いフランス、その両者を越えんとするドイツ、そして革命政権のソビエトが興り、ヨーロッパ情勢は混迷を深めている。」
「複雑、ですね……」
「そして革命を成功させた者達は共産主義を世界中に広めようとしており、アメリカにもその手を伸ばすだろう。」
「しかし、アメリカは自由を標榜している国ですよね? 共産主義とは相容れないのではありませんか?」
勇司が尋ねた。
「それがアメリカの支配的な思想になる必要は無いのだよ。」
「どういう事ですか?」
「政府の決定に影響を与えられるだけでも良いのだ。例えばアメリカの世論を動かせる事が出来れば、ロシア帝国の後継国に敵対する様に政府を持っていく事だって出来るだろう?」
「そ、そうか!」
その説明に納得する。
そしてそんな帯刀に感嘆の声を漏らした。
「政界を去られて長い筈なのに、ここまで国際社会の動きを見通されているのですね……」
若い記者に褒められ、悪戯混じりの笑みを浮かべて言う。
「先程の分析は、私が70年近くも前に耳にした話だと聞いたら君はどう思うね?」
「へ?」
帯刀の言う事が理解出来ずにおかしな返事となったが、本人はおろか先輩の方も気づいていなかった。
「70年近く前って言ったら、確か……アヘン戦争の頃ですよね? まさか、そんな、冗談ですよね?」
勇司はからかわれていると思い聞き返した。
それに対して遠くを見る目で言う。
「そうだよなぁ……。冗談にしか聞こえんよなぁ……」
それは昔を懐かしむ様な、初めから理解を求めていないとでも言いたげな、そんな顔つきであった。
勇司は帯刀の表情に寡黙な父を思い出す。
昔ながらの職人気質な父親は、口で言っても分からないとして多くを語らず、行動で示してきた。
言葉での教えは数える程であったが、今となってはその一つ一つを思い出して身に染みている物ばかりだ。
そんな父親と似て、帯刀を始めとする維新を担った者達は言行一致を旨とし、至誠を以て事に当たって来たと聞く。
その帯刀がそう口にするのであれば、そうなのだと思うべきだろう。
そうであれば次に来るのは一体誰が言ったのか、であろうか。
しかしその答えは簡単だ。
吉田松陰以外にあり得ない。
70年近く前といったら、丁度帯刀が松陰の弟子となった頃の筈だからだ。
また、そうであるが故に弟子となったのであろう。
当時の世相は想像するしかないが、先程の様な分析を披露されて常人に理解が追い付くとは思えない。
現代に生きる自分ですら一部は困難に感じた程だ。
草鞋を履いてチョンマゲを結い、刀を帯びていた時代にその分析の先見性を悟り、弟子を希望した帯刀もまた、鋭い洞察力を備えていたと言わざるを得まい。
またそうであったからこそ、維新の立役者として八面六臂の活躍を見せたのであろう。
政界の引退を表明した時には、それに反対する国民の署名が多数集まり、引退後の計画を嬉しそうに周囲に語っていた帯刀を困惑させたという逸話も残っている程だ。
その帯刀には政界引退後、週に一度は必ず立ち寄る飲食店があった。
カレーの吉田だ。
それを政治部の記者から聞き出し、こうしてやって来た訳だが、そんな帯刀が先生と呼ぶ人物がいるとは驚きであった。
確か、生涯に先生と呼べる人物は一人だけだと言っていた筈である。
「まさか?!」
「どうしたのだね?」
「い、いえ……」
勇司の突然の呟きに帯刀が問うたが、吉田松陰は生きて日本に帰っているのですかとは聞けなかった。
イギリスは我が国との関係を深めたがっているが、それもこれもインドの権益を失ったからだ。
そのインドの独立運動を指揮したのが日本人となれば、イギリスとの仲がどうなるのか分からない。
往時よりは衰えたとは言え、七つの海を支配したその実力は侮りがたく、ここで徒に関係を悪化させるのはまずいだろう。
文化部の自分が心配する事では無いとも思うが、事はこの国の民の命に直結しかねず、軽々しい判断は出来かねた。
世に問うにしても、もう少し待ってイギリスとの関係が安定してからでも遅くはあるまい。
また、帯刀が自分を信用してくれたからこそ、あの様な話をしてくれたのだとも思う。
記者として情報提供者の信頼を裏切る訳にはいかなかった。
とはいえ、せめてもと思い尋ねる。
「いつか全てを書いてもいいですか?」
その質問に満足し、帯刀は席を立ちながら答えた。
「伝記としては止めておきなさい。小説としてなら読者に楽しんで貰えるのではないかね?」
「そう、ですね……」
答えについて考える。
そんな勇司に言った。
「仮に小説として発表するなら題名はそうだな……幕末香霊伝にでもしたらどうかね?」
幕末香霊伝はこれにて完結です。
ありがとうございました。




