大政奉還と皇女の嫁入り、松陰の最期
「てぇへんだ、ご隠居!」
「どうしたね、八っつぁん?」
八っつぁんが大慌てで長屋に飛び込んで来た。
「たいせいほうかんだぁ!」
「たいせい、何だって?」
聞き慣れない言葉にご隠居は問い返す。
八っつぁんは瓦版を手渡しつつ言った。
「これでぇ!」
「何々……え?! 御大政の奉還だって!?」
瓦版に目を通し、ご隠居は驚きの声を上げた。
それによると慶喜が征夷大将軍の役職を朝廷に返上し、政の実権を放棄するとの内容である。
その為、暫くして京の御所に船で向かうとの事であった。
「これは大変な事になったよ!」
「だろ?」
ご隠居の反応に気を良くし、八っつぁんは得意げに胸を反らした。
そんな八っつぁんの様子を訝しむ。
「八っつぁん、御大政の奉還が何か分かってるのかい?」
またいつもの様に、何か別の事と勘違いでもしているのではないかと思った。
ご隠居の推測に八っつぁんは笑って応える。
「へっへっへ!」
「何だい、やっぱり分かってなかったのかい?」
「ちげぇよ! 俺っちはよぉく分かってる!」
「何だって?!」
八っつぁんの答えに驚いた。
そんなご隠居に益々鼻を高くし、誇らしげに口にする。
「たいせいほうかんは漫画で知ってるからよ!」
「漫画でぇ?」
耳を疑った。
文字を覚えて尚更熱心に漫画を読んでいると思っていたが、まさかその漫画から知識を得ていたとは思わない。
目を白黒させているご隠居に、八っつぁんは懐から一冊の漫画を出して手渡した。
「これでぇ!」
ご隠居は渡されたモノを読んでみる。
ここだという八っつぁんの示した箇所には、一人の男が御簾の前で平伏し、征夷大将軍の職を返上している場面であった。
「まさかこれは慶喜様?」
「何言ってんだよ、ご隠居! こいつぁ漫画だぁ!」
「あ、いや、そうだったね……」
つい興奮し、とんでもない事を口走ってしまったと思った。
聞く者が聞けば、不敬だとされるかも分からない。
気を取り直してページをパラパラとめくる。
「八っつぁんが知っている理由が分かったよ。それに、良く分かる説明だねぇ」
ご隠居は漫画を八っつぁんに戻し、しみじみとして言った。
「だろぉ? 俺っちでも分かったからよ!」
「でも不思議だねぇ。これは最近の漫画だろう?」
「あたぼうよ! 最新刊だぜ!」
八っつぁんはどんなもんだいとでも言いたげな顔だ。
その答えにご隠居の顔は思案気である。
「出来過ぎてるねぇ……」
「何がでぇ?」
「いやね、この漫画で大政奉還の場面が出ている事は分かったよ。そして実際に慶喜様がそれと同じ事をなさる訳だ。」
「そういやそうだな!」
「まるで大政奉還がどんな物かを、漫画を使って事前に周知していたみたいじゃないか。」
「偶然だろ?」
「偶然にしては出来過ぎだよ……」
考え込むご隠居に八っつぁんが聞く。
「偶然じゃなかったら何なんだ?」
「うーん、まあ、何と言うか、八っつぁんみたいな粗忽者が混乱しない様に配慮した……訳がないよねぇ……」
「難しい事は分からねぇ!」
八っつぁんは匙を投げた。
「いや、だって慶喜様がお役目を返上されるんだよ? それはつまり徳川様の治世が終わるんだよ? 昔の八っつぁんだったら、てぇへんだぁって叫んで江戸中を走り回ってただろ?」
「なぁに言ってやがんでぇ! 賢い慶喜様が何も考えねぇでそんな事をする筈がねぇじゃねぇか! 後の事も全部片が付いてやがるからに決まってんだろ! 何も心配するこたぁねぇ!」
「驚いたね、八っつぁんの言う通りだよ……」
その言葉は尤もで、ご隠居はその慧眼に唸る。
尊敬の眼差しで見つめられ、八っつぁんは照れた。
「全部漫画に書いてあったぜ!」
ご隠居はその告白にガクッとする。
「何だい他人の受け売りかい。感心して損したよ……」
脱力して呟いた。
『日本へようこそ!』
『久しぶりだな!』
松陰は品川駅に、ハワイからの使者を迎えに来ていた。
アレックス王の兄ロトである。
ハワイと日本が国交を樹立したのに合わせ、友好条約を結ぶ為の来日だ。
日本はアメリカを含め、西洋列強と既に通商条約を結んでいる。
横浜の外国人居留地内での外国人の犯罪に関して領事裁判権を認め、関税の自主権を持たない不平等なモノである。
それに比べてハワイとは、互いの主権を尊重した内容となる予定だった。
『それにしてもグッドタイミングですね。持ってますねぇ』
松陰がウンウンとばかりに言った。
『何を持っているというのだ?』
意味が分からずロトが問う。
『いえ、実は日本の政治が変わるのですよ。』
『何?! どういう事だ?』
『武家による統治が終わり、民主的な政治に変わる前段階です。丁度その様な時期にやってくるとは、歴史の証人として幸運だなぁと言いたい。』
ようやくこの時が来たと感慨深い松陰に、王政の国から来たロトは困惑気味だった。
『そんな状況で条約を結んで大丈夫なのか?』
心配するのは条約を結んでから反故にされる事である。
日本と友好関係を結ぶ意志に変わりはないが、政治が変わるとなると安定するまでは変化が激しく、落ち着くまでに時間がかかるだろう。
決めた事が覆り、再び同じ事を折衝するとなると面倒この上ない。
そんな渋い顔のロトに言った。
『大丈夫です。担当者が万事滞りなく進めてきましたから、国の治め方が多少変わっても問題はありません。ハワイとの条約締結もしっかりと準備してきましたし、待たせる事もありません。そして政権が変わったからとて、それが無しになる事もありません。ご安心下さい。』
『それなら良いのだ。』
自信に満ちた表情で言い切る松陰に安堵する。
『それはそうと日本は大国だな! まさか蒸気機関車が走っているとは思わなかったし、江戸の町も馬鹿でかい! まるで、地平線までも家々が続いているかに見える!』
馬車に乗り込み、ロトは日本に到着して思った事を述べた。
同じ島国という事前の説明に、ついハワイと同じくらいの大きさだと思い込んでしまったのだ。
それが勘違いであったのは、遠望から日本を眺めた時に理解した。
港の先進性に仰天し、鎮座する蒸気機関車に圧倒され、その車窓を流れる沿線の風景に感じ入った。
自分に向かって盛んに手を振る民衆の姿に国の豊かさを見た。
『俺もアメリカやヨーロッパを見てきたが、貧しい者はどこの国にもいた。この日本も例外ではなく、横浜の周りでは貧しい身なりの者らも見かけた。』
『ええ。』
『他の国のその様な者らは総じて不幸で、顔には悲惨さが滲み、道行く者に食を乞う真似をして生きている。』
『私も見ましたよ。』
ヨーロッパで見た光景を思い出す。
『だが、日本は様子が違った。身なりは貧しいのに全体的に清潔で、顔にも不幸は浮かんでいない。それどころか生活に満足している風に見えたぞ。』
『満足している訳ではないでしょうが……』
『何と言うか、今ある物で満足しようという、我が国の教えと似た印象を受けたのだ。』
『まあ、吾唯足るを知るという言葉はありますね。』
『似ているな!』
ロトは双方の類似に喜んだ。
そうこうしているうちに迎賓館に到着する。
『何と見事な建物だ!』
その外観に驚嘆した。
『では、京の都に参りましょう!』
『え?』
現れた松陰がだしぬけに言った。
事前の言葉通りに驚く速さで条約は結べており、お勤めを果たした後は江戸の町の観光を楽しんでいたロトである。
『京の都の歴史は長いですから、日本を知るにはもってこいですよ。』
『それはありがたい! 良い土産話になるな!』
未だに江戸を回り切れていないが、他の町も見てみたい。
興奮を隠しきれないロトにニコニコとした顔で言い足す。
『ロトさんの許嫁も待っていますよ。』
『許嫁?』
言っている意味が分からない。
『あれ? ロトさんは独り身ですよね?』
『確かにそうだが、それが何だ?』
独身を揶揄された様でムッとして言う。
弟が王に即位する事が決まってから、それを支える為に自分の恋愛をしている場合ではなかった。
国が落ち着いた今となっても、独りが当たり前に思えて結婚はしていない。
『王族が独身のままではいけません。いざという時の血筋を残しておくのも立派な責務です。』
『うぐ! それは分かってはいるが……』
それを言われると辛い。
『と言ってもどうせご自分では探さないでしょうから、ロトさんに相応しい結婚相手をこちらで選んでおきました。』
『ちょっと待て! どうしてそうなる?』
ロトの抗議は聞き流す。
『皇族の方ですからハワイと我が国の縁を益々強めるでしょう。』
『皇族とは何だ?』
言葉の意味が分からない。
『我が国は天皇陛下を戴いております。その地位を他国で例えるならイギリスの女王陛下ですが、政治の実権は御持ちではありません。君臨すれども統治せず、でしょうかね。』
『ほう? それは何と言うか珍しいな。』
その説明に感心する。
が、その意味する事に愕然とした。
『ちょっと待て! 日本の王族と俺が結婚するという事か? あり得んだろ!』
『いや、もう決まっている事なのですが……』
『俺の意向は無視か!?』
『貴方に任せていると一生結婚しないでしょうが!』
『ぐぐ! だ、誰がそんな事を決めたのだ!』
『私には見えます! 一人が気楽だからとサーフィンに耽る貴方の姿が!』
『何故それを知っている?!』
松陰はあてずっぽうだったが図星だった様だ。
布教を口実に遊んでいるだろうと推測した。
狼狽えるロトに説明を加えていく。
『これはロトさん個人の問題なだけではなく、ハワイの将来に関する事なのです。』
『ハワイの将来?』
思わぬ言葉に我に返る。
『我が国がハワイに投資して開発が進んでいけば、儲けを独り占めしようとするアメリカは必ず手を伸ばしてくるでしょう。違いますか?』
『ペニシリンの培養所からして、船乗りが集まっている状況だしな……』
ハワイに設立した微生物研究所は、ペニシリンの培養に大忙しであった。
梅毒に苦しむ患者は世界中に多く、救いを求めてハワイへと集まってきている。
アメリカやヨーロッパにも作り方を伝えたが、ここにきてようやく軌道に乗り始めた段階であった。
日本から培養槽ごと持って行ったハワイとは事情が違う。
その成果をアメリカが横取りしようと、ハワイへの圧力を強める事は十分予想出来る。
日本の場合は開国したとはいえ、外国人の往来を自由に許可した訳では無く、外交と商売以外の国内滞在は原則として認めていないので、船乗りもハワイを目指すのだった。
『ハワイの独立を守る手は打てるだけ打っておくべきでは?』
『そう言われればそうだな……』
その言に頷いた。
『そしてその為の一手が、我が国の皇女とロトさんとの結婚です。』
『何?!』
『我が国の皇族とハワイの王族が親戚関係になれば、アメリカの横やりにも何かと口を出せるのです。』
『な、成る程!』
それは史実においてハワイ側が打診していた事でもある。
『ですからハワイの将来を守る為にも、ロトさんには結婚して頂かなくてはならないのです。』
『し、しかし、会った事も無い相手と結婚するなど……』
『王族が何を言っているのですか! アレックス王が例外なのです!』
『そ、そう言われると否定出来ん……』
こうしてハワイの王族ロトと皇女との婚姻が決まった。
岩倉具視に働いてもらい、桁の外れた金を使って公家側も懐柔した。
降嫁する皇女には不便が無い様、気心の知れた者も併せて移って貰い、店などにも手を回して小さな京の町をハワイに再現する事となっている。
「者ども神妙に致せ、南町奉行遠山景元である!」
万事滞りなく終え、江戸に戻ってカオルコのカレーを食べている時であった。
「その方、長州藩士吉田松陰! 公金を私的に流用した罪でひっ捕らえる! 大人しく縛につけ!」
遠山の金さんが乗り込んできた。
「痔の方は如何ですか?」
気になった事を問う。
「あの時は世話になったな! 魚主烈吐のお陰で随分と楽になった! 改めて礼を言う!」
「それは良かったですね!」
症状が改善した様で安心する。
「同じ症状に苦しむ者は多いのでな、改善しつつ広めておるのだ。」
「それは素晴らしい!」
私事はそれくらいにして景元が続ける。
「娑婆の飯は最後になろう、味わって食え!」
「分かりました。しばしお待ち下さい。」
松陰は皿を空けた。
南町奉行所。
「では吉田松陰、沙汰を言い渡す。武士らしく腹を切って最期を飾れ!」
「ありがとうございます。」
こうして長州藩士吉田松陰は果てた。
奇しくも史実と同じ安政6年10月27日、西暦1859年の事であった。
それから数か月後、多数の船が海軍佐世保港から出港した。
最新式の火器と弾薬を満載した船であった。
船の上から声が聞こえてくる。
「今日から私の名前はラーマという事で宜しくお願い致します。」
「ラーマ? どういう事だ?」
「そう言えばトシは知りませんでしたね。色々あってそうなりました。」
「名を捨てたという訳か?」
「まあ、そういう事です。」
「私はシータよ!」
「変わらずスーで!」
「……分かった。」
彼らの旅路は長い。
次話はインドの話となります。
船出後を加筆しました。




