家定の引退と慶喜の就任
性に関する記述がありますのでご注意下さい。
「ご隠居、てぇへんだ!」
「朝っぱらから騒々しいねぇ、今度は何だってぇんだい、八っつぁん?」
長屋に駆け込んできた八っつぁん。
手には瓦版を握っている。
ついこの間、西洋に渡った使節団が帰ってきた時にも、同じ様に息せき切って転がり込んで来た。
また何か起きたのだろう。
「ご隠居、これだ!」
握りしめた瓦版をご隠居に手渡す。
「大奥の女衆が茶屋の娘になるんだってよ!」
「何だって?!」
ご隠居は寝耳に水といった風に驚いた。
慌てて渡された瓦版に目を通す。
「家定様が御引退?!」
「何言ってんだ、ご隠居!」
「何って、ここに書いてあるんだよ!」
ご隠居は瓦版を八っつぁんに見せた。
「漢字は読めねえ!」
「すまないね、そうだった!」
漢字はまだ読めない事を忘れていた。
瓦版の内容を教える。
「家定様が上様から退き、一橋家の慶喜様にお譲りになるそうだよ!」
「そりゃてぇへんだ!」
八っつぁんが叫んだ。
そんな八っつぁんを訝しみ、ご隠居が尋ねる。
「さっき八っつぁんの言ってた、大奥の女衆が茶屋の娘になるってぇのは、一体全体どこの誰に聞いたんだい?」
瓦版には一言も書いていなかった。
「貰った時に聞いたんだ! そこに書いてあるってよ!」
「おかしいねぇ、そんな事はどこにも……って、もう一枚あるじゃないか!」
家定引退の報とは別に、もう一枚あった。
八っつぁんが握りしめていたモノだから、くしゃくしゃになっていて気づかなかった様だ。
皺を伸ばして目を通す。
「慶喜様の上様ご就任に臨み、大奥を大幅に縮小するだって?!」
「何言ってんだ、ご隠居?」
八っつぁんがじれったそうに言う。
「悪かったね。つまり慶喜様が上様になっても、大奥は持たないってぇ事だろうね。」
「何だって!? しっかし勿体ねぇな!」
八っつぁんは驚き、かつ残念そうな顔をした。
大奥なんて夢のまた夢であるし、折角将軍になれるのに大奥を持たないなんて信じられない。
「八っつぁんらしいねぇ。それはそうと、それでさっきの八っつぁんの話に繋がったよ。」
「どういう事でぇ?」
「次期将軍慶喜様が大奥を小さくするのに合わせ、余った女衆が茶屋の娘になるって寸法さ。」
「合点したぜ!」
八っつぁんが膝を叩いた。
「その茶屋が店を開くのが、来月みたいだねぇ」
「そりゃてぇへんだ! 必ず行かねぇと!」
「面白そうだねぇ。八っつぁんの分は奢るから一緒に行こうじゃないか。」
「流石はご隠居! ありがてぇ!」
大喜びで頷く。
そんな八っつぁんの横で、ご隠居は瓦版の隅々にまで目を通していく。
「何々? お品書まで書いてあるとは親切だねぇ……って、この茶屋は家定様が考えたお菓子を出すのかい?!」
「何だって!?」
二人して驚きの声を上げた。
家定の考えた菓子と言えば豆乳プリン、アンパン、ドーナツなど数多く、既に江戸中はおろか日本中に広がった名物と化している。
そんな家定が、これからはその茶屋の新商品の開発に専念すると共に、お店の開店に合わせて新たな商品を発表するらしい。
「一体どんなお菓子なんだろうねぇ」
「うめぇに違ぇねぇな!」
新し物好きな江戸っ子にとっては、新しい菓子と聞いただけでも期待してしまう。
そんな風にして茶屋が開店するまでに家定は引退し、一橋慶喜の将軍職就任が成った。
「すげぇ行列だな!」
「皆お目当ては同じって訳だねぇ」
開店の日、ご隠居と八っつぁんは長い行列に並んでいた。
「お店の名前は奥カフェと言うそうじゃないか。」
「ご隠居! かふえってぇのは何なんだ?」
八っつぁんが尋ねる。
「カフェっていうのは西洋の茶屋の事さ。」
「西洋の? そりゃスゲェ!」
ご隠居の説明に唸った。
「西洋の茶屋を知ってるなんざぁ、ご隠居は流石だぁ!」
奢ってもらう手前という訳ではなく、素直に感嘆して褒めた。
ご隠居は照れながら懐から本を出す。
「この間西洋から帰って来た人が書いた本を読んだだけだよ。」
「やっぱりスゲェ!」
それは先日帰国した使節団の一人が記した見聞録であった。
多くの者が、それぞれの見てきた異国の事情を事細かに記録しており、本として世間に出して西洋の紹介をしている。
その対象は政治から経済、文化や風俗、教育や医療、工業や農漁業など多岐に渡り、好奇心旺盛な者の心を刺激した。
八っつぁんも興味はあったが如何せん内容が難しく、手には取ってみたが読むのは諦めていた。
そんな事情から流石はご隠居だと感心したのだった。
「そんな事を言ってるけど、八っつぁんだってそうじゃないかい?」
「藪から棒に何でぇ?」
ご隠居の言葉に面食らう。
「だって、その歳から仮名を覚え始めたじゃないか。もう仮名だけだったら読めるんだろう?」
「へへっ! まぁな!」
ご隠居に聞かれて八っつぁんは得意満面の笑みで応えた。
漢字はまだまだ分からないが、仮名であれば読める様になっている。
「その目的が絵露本を読む為とはいえ、実際凄いもんさ!」
「ち、ちげぇよ! 漫画本を読む為でぇ!」
八っつぁんは慌てて否定し周りを見渡す。
行列には女も混じっており、聞かれやしなかったかと冷や汗が出た。
漫画本は今は亡き葛飾北斎が作り出したモノで、江戸での人気が鰻登りとなり始めていた読本の一種である。
それまでの読本は文が中心で挿絵はごく僅かであったのだが、新しいモノは殆どが絵で構成されており、分かりやすい。
しかも、ふき出しと呼ばれる技法が用いられ、誰の発言なのかが一目で分かるので混乱せずに済む。
状況は絵を見れば直ぐに理解出来、長々とした文章による描写をする必要が無くなった。
草書体ではなく楷書体が用いられているので非常に読みやすく、子供達でもスラスラと読み進める事が出来る。
何より物語が面白く、かつ、絵師が北斎の娘お栄とあっては、人気となって当たり前かもしれない。
絵露本もここ最近流行り出した読本で、漫画本と同じ表現方法をとっているのだが、内容はただの春画であった。
談笑している女達に聞こえやしないかと冷や冷やしている八っつぁんを他所に、ご隠居がウンウンと頷きながら言った。
「いやいや、どっちにしても凄いもんさ。私がどれだけ言い聞かせても暖簾に腕押しだった八っつぁんの仮名の手習いが、まさか漫画本を読みたいが為に自らやり始めとはねぇ!」
「ま、まあな!」
また絵露本と口にしないかと気が気でない八っつぁん。
ご隠居はシミジミと呟く。
「好きこそ物の上手なれとは良く言ったもんだねぇ」
「お、おうよ!」
「知ってるかい? 漫画本が売れ出してから、仮名を教える寺子屋に大人達が集まっているそうだよ。八っつぁんみたいな者は多いんだねぇ」
「俺っちも熊の野郎と一緒に行ったんだぜ!」
「そうだったのかい!」
熊こと熊五郎は八っつぁんと同じ長屋に住む男で、独身同士という事もあってか一緒に飲みに行く機会が多かった。
八っつぁんとは違って大工の仕事があり、今日はそちらに行っている。
奥カフェに行ったと聞いたら悔しがるだろう。
「俺っちだって、自分で龍球物語を読みてぇんだ!」
「何にせよ、目標があるのは良い事だよ。」
龍球物語は、七つ集めると願い事が叶うという不思議な珠を巡って繰り広げられる、手に汗握る冒険活劇である。
初めは長州藩で人気となっていたが、江戸で出版されるやいなや瞬く間に人気となり、子供から大人まで夢中になっていた。
文字が読めない八っつぁんであったが、絵を見るだけでは物足りないと、吹き出しを読める様にと奮起して、少ない稼ぎをやり繰りして寺子屋に通い、どうにか仮名だけは読めるまでになったのだった。
八っつぁんの様な大人達は多いらしく、寺子屋は時ならぬ繁盛ぶりを見せていた。
そんな事を話しているうち、ノロノロと行列が進み始めた。
「動き出したぜぇ!」
「全く凄い人出だねぇ。まあ、大奥にいた女衆が、西洋の衣服を身につけて接客してくれるらしいから、皆期待しているんだろうねぇ」
「西洋の服だと!? そりゃあスゲェな!」
今で言うユニフォーム、それもメイド服を着ての給仕である。
前々から松陰が考えていた洋服の普及という構想が、西洋に渡って衣装の見本を得た事から一気に進み、この日を迎える事が出来た。
大奥にいた娘達であるので器量が良く、洋服を披露するにはもってこいだろう。
和服の優位性もあるが、選択肢があって困る事はあるまい。
暫くし、メイド姿の娘達に興奮する八っつぁんの姿があった。
別の場所で。
「ちょっと! ファンリンに何て絵を描かせているの!」
ビーリンが松陰に詰め寄った。
手には絵露本があり、表紙にはファンリンの描いた艶めかしい半裸の娘の絵がある。
絵の娘は明らかにビーリンに似ていた。
松陰は澄ました顔で答える。
「ファンリンの才を有効に活用して貰っているのですが、何か不都合でもございましたか?」
「不都合な訳じゃないけど!」
絵描きは、纏足のせいで思うままに動けない妹が、椅子に座ったまま出来る仕事である。
召使に囲まれて暮らしていた頃とは違い、ここでは自分で出来る事は自分でやらねばならない。
母親になった今となっては尚更であろう。
同じ纏足の身で母親となった自分を考えてみても、妹の苦労は容易に想像出来た。
彼女が出来ない事は近所の者に手伝って貰っているらしいが、仮に彼女が助けて貰うだけであったなら、慣れない異国での生活に早々と心が参ってしまっていたかもしれない。
いつも助けられるだけでは非力な己をミジメな存在だと見做してしまう。
自尊心を守る為にも誰かの役に立っているという証が必要だった。
ファンリンの場合、絵を描く事によってそれが出来ているのだろう。
知った者のいない異国での生活など心細かった筈なのに、子を抱いて幸せそうに微笑んでいる妹を見てそれを理解した。
とはいえ、明らかに自分と思しき人物が、肌を露わにして男を誘う仕草をしている。
そんな絵を見せつけられては少々気分が宜しくない。
どうしてかと妹に聞けば、姉である自分を想って描けと松陰から指南された結果らしい。
妖艶な女性を描いて欲しいと初めは依頼されていたのだが、想像がつかなったので筆が進まなかったという。
ならば姉を想って描けば良いと言われ、それならとスラスラ描けたそうだ。
構図の注文等が入りながらも無事に出来上がったのが、先の表紙である婦嶽三十六景の中の一つらしい。
他にもあるのかと溜息が出たが、知らずに顔がニヤケのも事実。
複雑な思いを抱きながらも、どうにかならないのかと陳情はしたい所だ。
松陰としてもビーリンの言いたい事は理解出来た。
絵ではあるが、自分にそっくりな女が煽情的な恰好をしているのだから、女性としては受け入れ難いだろう。
彼女の目につく所に絵露本があった不注意を悔いた。
まあ、台湾でも売りたいので、いつかはバレる事ではある。
「これは世界平和の為の尊い犠牲なのです!」
突然に松陰が宣言した。
「何なの一体?」
ビーリンが怪訝な顔で言う。
構わずに続けた。
「戦争はどうして起きるのでしょうか? 一つには不作で食べ物が無くなった時です。飢え死にするよりは、他から奪う事を選ぶでしょう。次に、豊かな隣国が羨ましい時です。地道に金を貯めるよりは、金のある所から奪った方が早い。実力に差がある場合、容易くそれを選んでしまいがちです。ここまでは宜しいか?」
「え?! ええ……」
「他には、国の大きさの割に人の数が多すぎる時です。人の数が多いから食べ物も足りなくなりがちだし、仕事も十分ではなくなる。お金の偏りも生まれ、貧富の差が生まれてしまいます。人々の不満が溜まり、何か切っ掛けがあれば容易く暴発してしまうでしょう。」
「それは分かるけど……」
話の内容は理解出来るが、どうしてそんな話をしているのか理解出来ない。
「我が国は長年国を閉ざし、人口も概ね一定に保たれてきました。それも当然です。農産物の収穫量は肥料の量に比例しますが、それを人糞と近海の魚などに頼っていただけですので。また、生まれる赤ん坊の数が多くても、同時に死ぬ者の数も多かったので均衡が取れていました。農産物生産量の制約と感染症での死者数の多さによって、我が国の人口は著しい増加が抑えられていたのです。」
「何が言いたいの……」
「しかし、医療の技術は進歩し、乳幼児の死亡数も感染症による死亡者数も減りつつあります。具体的にはアルコール消毒が普及し、出産時においてばい菌に感染する率が減っています。また、衛生観念も広まりつつあり、ペニシリンの発見も相まって、感染症死亡者数の低下が起きています。それ自体は素晴らしい事なのですが、農産物の生産量が増えていないのに人口が増えつつあるのは問題です! このままでは急激な人口増から社会の不安定化が進み、戦争へと突き進む方向へ向かうかもしれません!」
「何ですって?!」
松陰の分析に顔色を変えた。
「急激な人口の増加は不味いのです!」
「確かにそうね!」
「そして、それを防ぐ方策の一つが絵露本なのです!」
「え?」
ビーリンは呆気に取られた。
「男には絵露本で性欲を発散して頂くのです! 遊郭に行くと思わぬ妊娠は避けられませんので、自分で処理して貰うのが一番なのです!」
「ちょ、ちょっと、何を言っているの?」
「今現在避妊の知識も普及を図っています。リズム法がそうです。体温計は既に開発済みですので量産を図り、広める計画です。体温計で自分の月経周期を知り、危ない時期には性交を控えて貰う。それは同時に不妊に悩む夫婦の一助にもなり得ます。避妊法としては確実ではありませんが、やらないよりはやった方が良い!」
「え? え?」
ビーリンは初めて聞く事ばかりで言葉の意味すら分からない。
松陰は言った。
「つまり、ファンリンの絵が人口増加を防ぎ、結果として戦争を防ぐのです! 分かりましたか?」
「は、はい!」
理解出来ぬまま頷いた。
「それと、台湾での販売はお任せしますね!」
「分かりました!」
知らずに代理店にも指名されていた。
将軍職からの引退と就任の様子が分からないので描写していません。
次話で軽く朝鮮通信使に登場して貰い、今後の日本の外交政策について言及したいと思います。
私は半島に関して好感情を持っていませんので、次話もご不快にさせてしまう可能性があります。
予めご注意下さい。




