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維新の始まり

 「始めるのか?」

 「はい!」


 松陰は直弼と井伊家の屋敷で向き合っていた。

 兄直亮に続き大老に就いた直弼はその才を遺憾なく発揮し、幕政において圧倒的な影響力を持つまでとなっている。

 戦場を駆け、命のやり取りをした経験は直弼の胆力を良くも悪くも鍛えあげ、並の者では太刀打ち出来ない迫力を身につけていた。

 江戸の屋敷で生まれ、何不自由無く育ったそこらの大名では、直弼に一睨みされただけでも震え上がり、彼の意見に異を唱える事など出来はしない。


 しかし、それだけでは恐怖政治で反発が生まれよう。

 諸大名の中には直弼を疎ましく思う勢力も存在したが、彼は寧ろその様な相手にこそ自ら出向き、酒を酌み交わして相互理解を図った。

 眼光鋭く理屈に叶った正論を唱えるかと思えば、相手側の利益にも十分配慮し、更には義理や人情にまで訴える。

 そんな直弼に多くの者が白旗を上げた。

 今では彼に心酔する大名までも出る始末であった。 


 それも当然と言えば当然かもしれない。

 表向きは秘密にしているが、戦を知っている幕閣など、太平の世が続いた今では直弼以外にはいない。

 数ある諸大名の中でも彼だけの筈だ。

 それだけに留まらず、武士全体で考えても薩摩長州の一握り以外にはいない。 

 敵を討ち、自らの命を失う覚悟をした経験を持つ者と相対し、平和の中でのほほんと過ごしてきた者が精神力で並びうる筈もなかった。

 しかも彼には、徳川の世を支えてきた井伊家当主としての誇りがある。

 

 神君家康公とくつわを並べて戦場に立ち、数々の武功を挙げて彦根藩井伊家を興した徳川四天王の一人直政。

 長い彦根藩の歴史の中でも戦に参加した藩主は直政の時代くらいで、大坂の陣が終わってからは存在しない。

 平和が続いた今、偉大な先祖直政の心情を理解出来るのは、歴代藩主の中でも直弼くらいであろう。

 それが直弼に井伊家の藩主としての誇りと自信、大いなる自負を生み、他を圧倒する存在としていた。

  

 そんな直弼も松陰の前では普段の通りである。

 と言うより、同じ様な経験をして気心が知れているのだろう。

 

 「西洋に対抗する為、幕藩体制を終わらせて中央政府に権力を集中させる、か……」


 直弼が遠くを見る目で呟いた。

 その為にこれまで動いてきたが、いざ実行となると感慨深い。


 「私が当初思っていたよりも西洋の発展具合は凄いです。今やらねば間に合いません! その一端を垣間見れる文物を多数持って帰って来ましたので、是非一度その目でご確認下さい!」

 「それは堀田殿が興奮して口にしていたな……」


 徳川の世を作る為に命を張った先祖達。

 その子孫である自分が、事もあろうに徳川の世を終わらせようとしている。

 全てはこの国の将来の為であるが、巡り合わせの妙に思いを馳せた。

 この様な時代に自分が大老である事に運命を感じる。

 自分の代で徳川の世を終わらせるのが天の采配であるのなら、寧ろ喜んで受け入れよう。

 直弼は家康も思ったであろう国家の安寧を第一に考え、やるべき事を断固としてやり抜く決意を固めた。

 その目は敵対する者には容赦をしない、戦場での直政を彷彿とさせるモノであった。

 

 「御先祖の偉業は偉業として、今を生きるのは我らである! その我らが熟慮を重ねてやるべきと決めたのであるから、後は断固とした実行あるのみだ!」

 「宜しくお願いします!」


 大政の一新の成否は、大老である直弼の働きに多くを依存している。

 自分達がやろうとしている事の重大さとそれに伴う責任、この国の将来の姿、大いなる可能性を感じ、二人は知らずに武者震いをした。

 

 「まずは家定様に御退位頂く様、説得するのだ!」

 「任せて下さい!」 

 

 こうして長州藩士吉田松陰が主導する、日本の維新が始まった。 



 

 「とまあこういう訳で、家定様におかれましては、潔く御退位頂くのがこの国の為なのでございます。」

 「藪から棒に、どういう訳だ!」


 江戸城西の丸にて、松陰は将軍家定に拝謁していた。

 大奥が焼失してよりこの方、家定は西の丸から離れていない。

 直弼や正弘の工作により、松陰の西の丸潜入が成っている。 


 家定にとって松陰は、かつて大奥にいた女中、松の双子の兄である。

 彼女には何かと思う所が多かった。

 天然痘を患った者同士という事で下手な同情を掛けたが最後、いつの間にやらアレコレと理由を付けられて働かされ、散々な目に遭ったと言える。

 文句を言おうモノなら百倍となって返り、それがグウの音も出ない正論ばかりであったモノだから、悔し涙を流しながら彼女の言う菓子類を開発していった。

 しかし思い返せばそれも良き思い出であり、今では自ら進んで新しい菓子作りに励んでいる。 

 自分が開発した菓子が江戸の町民に好評だと聞き、頬が緩んだ事もしばしばだった。


 そんな、家定を変えた松が病魔に斃れたと聞いたのは随分と前の事だ。

 殺しても死なないだろうと思っていた者があっけなく亡くなったと知り、人の命の儚さを思った彼の下に一通の手紙が届く。

 差出人は、松の双子の兄であるという吉田松陰なる長州藩士であり、病床にあった彼女から聞かされた最期の言葉を伝えたいとある。

 家定への感謝に満ちたモノであると言うそれに、松が仕えていた妻の任子が強く希望し、将軍自ら一介の藩士と直々に面会する機会となった。

 

 初めはどうして老中らが面会を許可したのか不思議に思ったが、本人に会ってそれも納得する。

 何と言うか物腰は柔らかいが、梃子てこでも動かぬ堅い意思を感じた。

 一を唱えれば十の理論で反論されると言った風で、これでは担当した者も根を上げ、自分の判断に委ねるだろうと思った。

 初対面にも拘わらずズケズケとした物言いをする松陰に、流石は双子だと妙に感心して無礼を咎める事も忘れてしまう。

 期待していた感謝の言葉もそこそこに、知らぬ間に新たな菓子の開発までも押し付けられ、その後も定期的な面談の場を設けていた。

 幕閣でも大名でも無く、ましてや旗本でも無いただの陪臣が江戸城西の丸に出入りし、将軍である自分と直に言葉を交わすどころか、将軍の正室である任子とも親し気に会話する。

 それに加えてあれやこれやと指示し、菓子の出来が悪ければ容赦無く駄目だと口にする。

 色々とあり得ないのだが、何故か受け入れてしまっている自分がいた。

 

 そんな松陰は昨年、使節団を組んで意気揚々と西洋へと旅立っている。

 確かに異国への興味はあったが、遭難する危険を冒してまで挑戦するべき事にも思えなかった。

 しかし出発したからには無事な帰国を祈るのも人情で、どの様な土産話が聞けるのかと期待して待った。

 一年以上の年月を要し、帰ってきたかと思えば先の発言である。

 家定が困惑するのも無理はなかった。


 「西洋は、まさしく力こそ正義とする覇道の国でございました。我が国は我が国のままでは彼の国に対抗出来ません。清国の二の舞を防ぐ為に開国を選んだ以上、出来るだけ早いうちに幕政を廃し、統一政権を作って西洋に備えねばならないのです。」


 感情を排した言葉に真実味を感じた。 


 「開国は、既に成した。幕政を廃する? 余に、最後の将軍となれと言うのか?」

 「いえ、最後の将軍職を務めるのにピッタリな方がいらっしゃいますので、御心配は要りません。」

 「心配をしている、訳ではないのだが……」


 相変わらずドンドンと話が進んでいく。


 「幕政を廃し、旗本や御家人はどうなる、のだ?」

 「御自身の心配よりも臣下の身を案じられるとは、家定様の御心の深さは海よりも深くございますね!」

 「な、何を言う!」


 褒められて狼狽する。

 そんな家定に説明した。


 「統一政権下で役職を得られれば家禄は得られますが、失えば家禄を失ってしまいます。当座は生活の保障があったとしても、徐々にそれも無くなるでしょう。そうなっても生活の糧は必要ですから、それぞれがそれぞれ日銭を稼いでいかねばなりません。家定様には甘味処を営んで頂き、是非とも成功して頂いて、武士達に転職の成功例を示して頂きたいのです!」

 「将軍の余が、甘味処だと?!」


 驚きの余りに叫んだ。


 「定様、大きな声をお出しになると松が驚いてしまいますわ。」

 「おぉ、これはすまん!」


 眠る赤子を腕に抱いていた任子がそっと訴える。

 家定と正室任子の間に生まれた待望の子は娘であり、世継ぎを期待していた周りの者は気落ちしたが、二人にとっては可愛い我が子であった。

 

 「松姫様はお元気そうですね。」

 「フフフ。元気一杯に育っているわ。」

 「名は、どうかと思うが……」


 家定が不満そうな顔をする。


 「定様ったら、またその様な事を言って!」

 「そうですよ! 決まった事をウジウジと!」

 「くっ!」


 この二人の前では分が悪い。


 「甘味処とは、どういう事だ?」


 話を変えた。


 「言葉通りの話でございますよ。今まで家定様には様々なお菓子を開発して頂きました。今度はそれを直接客に販売し、商売として頂きたいのです。」

 「だから、何故余が、やらねばならんのだ!」


 将軍にやらせる事とは思えない。


 「理由はいくつかございます。一つには個人の才覚でいくらでもお金を稼ぐ事が出来ると、世の武士達に示す事です。将軍であった方の作るお菓子ですから、初めは物珍しさから国中の者が欲しがるでしょう。しかし、家定様のお菓子作りの才は本物ですから、直ぐにその味で顧客の心を掴む筈です。商売の成功は間違いありませんので、皆の手本となるでしょう。」

 「そ、それ程でも、ない!」 


 満更でもなさそうな家定に任子が微笑む。 


 「次に家定様が率先して範を示す事で、武士の心にある見栄やわだかまりを消す意味です。金儲けを蔑んだりする事を止め、商売に進む者を増やす目的がございます。武士の棟梁であった家定様が甘味処を営んでいるのに、商売など卑しい者がする事などとは畏れ多くて口に出来ない筈です。」

 「そ、そうか!」


 金が無くてままならない武士は多いのに、金儲けを下に見る者もいる。


 「更には家定様に新しいお菓子を開発して頂く事で、我が国の菓子界を発展させたいのです! 当面の目標はチョコレートです!」

 「ちょこれいと?」

 「はい! 今、薩摩藩の西郷隆盛殿がスイスでミルクチョコレートの製法を研究中なのですが、それが成功して彼が帰国した暁には、我が国でも作って頂きたいのです!」

 「また、余の知らぬ物を、作らせようというのか……」


 家定はガックリした。

 そんな夫と対照的に、任子はニコニコとして松陰に尋ねた。


 「探し物は見つかったの?」


 それは松陰が大奥を去る際に任子に説明した、やらねばならない事。

 インドに渡ってカオルコを見つけた今、全ては成った。


 「それに関しましては、任子様に御報告する事がございます。」 

 「何かしら?」


 任子は首を傾げた。


 「実は結婚しました。」

 「まあ!」

 「何だと?!」


 二人して驚く。


 「それで誰なの?」


 勢い込んで任子が聞く。


 「名前はカオルコと言います。」

 「かおるこ?」

 「彼女はカレー作りの天才でして、お二人にも是非ともカレーを召し上がって頂きたいと思います。」

 「かれい?」

 「そして、それこそが私の探し物と言える物でして、無事に見つける事が出来ました。」 

 「そうだったの!」


 任子は心から喜んだ。


 「さっぱり分からん……」


 家定は怪訝な顔をする。

 そしていつの間にやら、家定の将軍引退が決定していた。

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