使節団の帰国
使節団は無事、江戸に帰港した。
昨年の初めに出発し、一年を超えて世界を巡ってきた旅である。
一行は感慨深げに、次第に近づいてくる江戸の遠景に見入った。
ヨーロッパの都市とは違い、細々(こまごま)とした建物が目に入るばかりだったが、その風景はどこかホッとする。
祖国にようやく帰ってきたのだと安堵した。
茂義が先発しているし、琉球にも寄港しているので連絡が届いていたらしく、船が見える海岸線には民衆がびっしりと集まっていた。
人々の上げる歓声と祝いがてらに上がる花火が鳴る中、一行は出迎えに来ていた幕府の舟へと乗り移る。
舟は見物客を乗せた小舟で埋まる海上を、隙間を掻き分ける様に進んだ。
陸では陣屋が設けられており、帰ってきた一行を迎える準備がなされていた。
正使である正睦を中心に、お偉方が凛とした表情で式に臨む。
松陰ら下っ端は脇に控え、大人しく終わるのを待った。
「よくぞ無事に帰ったな。」
数日後、松陰は長州藩上屋敷で藩主敬親に一連の報告をしていた。
帰国してからは幕府が主催する様々な催しが行われ、息つく暇も無い程であったが、どうにかそれも終わり、ようやく生活に落ち着きを取り戻し始めている。
松陰は下げていた頭を上げ、声を出した。
「お言葉ありがとうございます。どうにか生きて戻る事が出来ました。」
藩主の労いに感謝する。
そんな松陰を見つめる敬親の目には、隠し様の無い好奇心が浮かんでいた。
ウズウズとして次の質問を口にする。
「して、その者がインドより連れ帰ったという嫁なのか? インドとは天竺の事であろう?」
「その通りでございます。」
その目は松陰の後ろで頭を下げている女に釘付けである。
事のあらましは聞いている彼だったが、インドとは天竺の事だと知って驚いてもいた。
仏陀の生まれ故郷である国から連れてきた嫁など、彼の知る限りでも聞いた事が無い。
と言うより、誰に聞いた所で前代未聞であろう。
そんな話に興味が沸かない筈も無い。
敬親の正妻である都美子も同席を強く求め、先程から興味津々な顔で、松陰の後ろに控えている女を熱心に見ている事からも明らかだ。
侍女なども襖の隙間からチラチラと覗いているのは、噂好きの故であろうか。
とはいえ敬親はこうも思う。
開国したので問題は無かろうが、以前であれば自らの責任も問われかねない危険な行動であろう。
つい最近まで、異国の地を踏んだ者が国に帰って来る事さえ幕府は禁止していたのに、異国の者を嫁にして連れて帰って来るなど、およそ正気の沙汰とは思えない自殺行為であった筈だ。
それがこうして国を開き、異国の者がこの国に来るのを許す事となった。
その結果が今の状況だと思えば、当たり前であるとも言えるし何となく釈然としない思いもする。
目まぐるしく変わる周囲の変化に、頭がついていかない感じがした。
そして、その原因である開国を画策した当の本人は、さも当然とした顔で目の前に座っている。
藩主たる自分の心配を他所に、想像もしなかった事を平然とやってのける配下に、
敬親は心強くもあったが呆れも大きかった。
前例を考えれば躊躇しかしない選択を易々と選べるその性格を、羨ましくもあったが自分には到底真似出来ないと、諦めに似た気持ちにもなっていた。
そんな藩主の心の中など思いもよらない松陰は、挨拶をさせようと後ろの女に声を掛けた。
女は促され、スッとその頭を上げる。
傍の都美子が息を呑むのが分かった。
その顔は日本人とは違い目鼻立ちがはっきりとしており、肌の色は浅黒い。
髪は黒く後ろで一つに括り、衣服は見た事が無い形ではあったが、呉服と似た色鮮やかなモノであった。
どこからどう見ても日本の者では無い。
敬親は異国の者だという事を実感した。
「して、名は?」
松陰に問いかけたつもりであった。
しかし彼の意図に反し、女が答える。
「カオルコです。」
「なぬ? 言葉が分かるのか?」
敬親は驚いた。
そんな敬親にカオルコが得意げに言う。
「問題無いわ!」
「カオルコさん!」
「いけない! 問題無い、じゃなくてありません!」
言葉遣いを松陰に咎められ、カオルコは慌てて言い直した。
そんなやり取りにクククと笑う。
「良い良い。言葉を覚えたばかりであれば致し方あるまい。気にせず喋れば良かろう。」
「はい!」
「お心遣い、誠にありがとうございます!」
二人は敬親の配慮に頭を下げた。
「しかし、本当に異国の娘とはな……。どの様な縁で知ったのだ?」
素朴な疑問が湧き、口にした。
妻や侍女らが身を乗り出した気配がする。
不用意な質問だったと若干後悔したが、ここで止めれば妻にどうして聞かなかったのかと後で責められるだろう。
下手な答えをして屋敷中を噂の渦にしてくれるなと目で訴えながら、敬親は松陰を見た。
松陰もそれは心得ているのか、澄ました顔で答える。
「彼女はインドの王宮に香辛料を納める商人の娘であったのです。ムガール帝国皇帝バハードゥル・シャー2世陛下への謁見に赴いた際、王宮の外で見染め、求婚致しました。父上であるアブドゥール氏にも、喜んで許可して頂きました。」
「成る程!」
これはこれで明日には屋敷中に知れ渡っていようが、ありそうな話でホッと胸を撫で下ろす。
もしも女心を刺激する様な話であったなら、恐ろしい事態になりそうだったと思う。
それを想像して軽く戦慄し、そうではなかったので安堵した。
「香辛料の商人の娘であるか、誠に異国らしいな!」
松陰から香辛料の事は耳にタコが出来る程に聞いている。
我が国では漢方薬として高価なモノとなっているが、インドでは誰でも日常的に使っているという。
その香辛料をふんだんに使った料理がカレーらしい。
「となると、今日はその方があれ程盛んに口にしていたカレーとやらを、儂も食べる事が出来るのであろうな?」
「勿論でございます!」
その為にも来た。
「カオルコさん、お願い出来ますか?」
「任せて!」
松陰に聞かれ、カオルコは迷わず応えた。
ガバッと立ち上がり、部屋を出ようとする。
調理場所は予め把握しており、材料もしっかりと持ち込んでいるので自分が行くだけだ。
そんなカオルコに追いすがる様に都美子が言う。
「敬親様? わらわは彼女の料理のやり方に興味があります……」
妻に言われ、敬親はカオルコに問うた。
「カオルコであったか、構わぬか?」
「勿論!」
見学を快諾する。
都美子は大層喜び、頬を上気させてカオルコを連れていった。
部屋に残った松陰は、敬親には本当の事を伝えておこうと思い立ち、告げた。
「敬親様、実はお話ししておきたい事がございます。」
「何だ?」
真面目な表情に嫌な予感がした。
「あれは真っ赤な嘘でございまして、彼女は商人の娘ではございません。」
「何だと?!」
案の定、驚く事を言い出した。
そんな敬親に構わずに松陰は話を続ける。
「実は彼女、ムガール帝国皇帝のお姫様でございます。」
「ちょ、ちょっと待て!」
思いしない展開に頭がついていかない。
「皇帝とは我が国で言えば、御所におわす帝その人であろう? その方は帝の娘を嫁にしてきたと申すのか!?」
「えぇ、まぁ、有体に言えばそうなりますね。」
「有体に言えばなどと!」
その言い草にドッと疲れてしまった。
しかし連れ帰ったのだから仕方あるまい。
今更国に帰れとも言えないだろう。
気持ちを奮い立たせ、聞かねばならない事を口にした。
「堀田殿は知っておるのか?」
「説明が難しいのですが、正睦様はご存知無いと思います。この事を知っているんは私とカオルコさん、敬親様だけでございます。」
「何と!」
不幸中の幸いであろうか。
「付き合いの無い他国とは言え、帝の娘を貰ってきたなど絶対に他言無用だ!」
「心得ました。」
「あの娘にもしっかりと言い含めておくのだぞ?」
「それは大丈夫でございます。」
「何が大丈夫なのかは分からぬが、頼むぞ!」
「分かりました。」
返事自体はしっかりしており、ひとまず安心した。
「しかし、インドから親善の使節がやって来るのではないのか?」
疑問が湧く。
娘が嫁に行ったのであるなら、国の統治者として使節の一つでも送ってきそうなモノだ。
そんな藩主に松陰は答える。
「ムガール帝国に実権はございませんので、それはありません。ご心配無く。」
「そ、そうなのか?」
まるで見当もつかない。
そんな藩主にインドについて説明する。
そうこうしている内に料理が出来た。
「こ、これがカレーか!」
内心の動揺を必死で抑え、運ばれてきた料理に向き合う。
皿に白米が盛り付けられ、そこに茶色の汁がかかっていた。
敬親は備え付けの木製のスプーンを手に取る。
迎賓館で西洋の食事を経験しており、食べ方は理解出来た。
ますスプーンで汁を掬い、口に運ぶ。
「ふむ……」
口に含んだ途端、何とも言えない香りで満たされた。
辛いがそれ程ではなく、心地よい刺激が鼻を通り抜ける。
次にご飯を汁に絡ませ、再び頬張る。
「美味い!」
「美味しいですわね!」
これまで味わった事の無い味覚が喉を過ぎていった。
因みに、香辛料の匂いに慣れていないであろうと、マイルドな風味にしてある。
笑顔のカオルコと松陰に見守られ、敬親も都美子もその手を止めなかった。
『ファンリン!』
『お姉様!』
ビーリン、ファンリン姉妹の数年ぶりの再会となった。
それぞれが結婚し、子供を儲けている。
互いの息災を喜び、家族の健康を祝う。
その日は存分に二人で語り合い、後日にビーリンの江戸見物となった。
纏足なので駕籠に乗り、名所を巡る。
「江戸って本当に大きな町ねぇ……」
「一説によると百万人が暮らしているそうですよ。」
「百万?! 凄い!」
松陰の説明に眉を上げて驚く。
「何て大きな商店が並んでいるの!」
「日本橋は江戸だけでなく、日本全国から人が集まる場所ですからね!」
日本橋の賑わいに目を見張った。
「是非とも商売したいわ!」
「国交を結ぶまでもう暫くですよ。」
「待ちきれないわ!」
二人で未来を話し合う。
「父上!」
「よくぞ戻った!」
所変わって水戸藩、藩邸。
慶喜が父である斉昭と面会していた。
挨拶もそこそこに、斉昭は息子に尋ねる。
「生ハムはどうなった?」
「はい! これにございます!」
慶喜は意気揚々と生ハムを父親の前に差し出した。
スペインから直接持って帰った品である。
「おぉ? これが生ハム? 見た目は何とも言えぬ怪しい感じじゃが……」
確かにその見た目は正月の餅の如く、黴が生えている様にしか見えない。
「ご心配なく、父上! 外見はそうですが、中身だけを食べるので問題はありませぬ!」
「そうなのか?」
慶喜は生ハムの外側を削り取る。
「おぉ! 中身は鮮やかで輝いておる!」
酸化した脂の層からは、色鮮やかな可食部が現れた。
「これを薄く切り取ります!」
現地で買い求めた生ハム用の包丁を使い、斉昭の為にスライスする。
「何と! 向こうが透けて見える様じゃ!」
その一枚を手に取り、言った。
鼻に近づけその香りを楽しみ、口に放り込む。
「むぅ! 口の中に入れた途端に脂が溶けだし、甘さが広がるのぅ!」
初めての味を味わう。
黙々と切り続け、親子二人でそれを堪能した。
「して、この作り方はどうなのじゃ?」
思う存分食べた所で再び聞いた。
食品は食べてしまったらそれでお終いである。
大切なのは継続的な供給力のそれであろう。
「実は薩摩藩の中村半次郎という者の手際が良く、残って生ハムを作る技を覚えている最中なのです。」
「薩摩の?」
半次郎は豚の解体に慣れていたらしく、その腕を賞賛されて現地に残った。
年間を通した作業をして初めて一連の作業の意味が理解出来るので、熟練する為に年月を重ねる事となったのだ。
「しかし、その者一人で異国に残るのは不安であろう?」
「ご心配なく。市之進も残らせております。」
「それなら安心じゃな!」
「はい!」
親子でアッハッハと高らかに笑う。
しかし国産生ハムの生産までは、今暫くの時間が必要な事を二人は知らない。
「さて、これで維新の準備は整いましたね!」
カオルコの作ったカレーを味わい、元気一杯となった松陰が富士山を臨みつつ口にした。
その心には揺るぎない決意が満ちている。
維新への断固たる思いが知れた。
インドへ渡るのは、残す所4年余りしか無い。
時間は限られていた。
補足しておきますと土佐で龍馬の家族に会い、事情を説明しております。
その他、海舟ら海外に残った者の家族にも、会うなり手紙を書くなりしております。
次話から維新編に入ります。




