念願の成就
松陰の胸でひとしきり泣き、どうにか落ち着きを取り戻したカオルコは、ふと疑問に思った事を尋ねた。
「ねえ、純?」
「何ですか?」
「どうしてアタシの事を知ってるの?」
「えぇぇぇ?!」
人には見えない存在だった筈なので、先程のやり取り自体がおかしいんじゃないかと思った様だ。
今更そこかと思った松陰であったが、言われてみれば当然だと思い直す。
「実は夢の中で見たんです。」
「夢の中?」
「そうです。私が死に、その傍で泣き続けるカオルコさんの事も、香霊界でのカオルコさんへの沙汰の事も知ってますよ。」
台湾で見た夢の内容を教えた。
「“さた”って?」
「あ、いえ、何と言うか、罰みたいなモノです。」
「あ、そういう事……」
「その後、カオルコさんが人間に生まれ変わり、スパイスを挽き続ける人生を繰り返してきた事も知ってます。」
「全部知ってるのね……」
それで納得したらしい。
「そう言えば、カオルコさんのお父様も大変心配されてましたよ?」
「アタシのお父さん?」
皇帝をほったらかしにしていた事を思い出した。
部屋の前で待っていて貰っている。
大声で泣きだした娘に気が気ではなかっただろう。
皇帝に報告する前にいくつか注意した。
「言葉は大丈夫ですか?」
「うん! 新人研修はインドだったし、言葉は大丈夫なの!」
「新人研修って……」
香霊界の一面を知った松陰であった。
「それと、カオルコさんの今の名前はシータ姫ですよ?」
「うん。何となくだけど覚えてるわ! 空から落ちてくる女の子の名前よね!」
「同じ名前ですけど違います。ラーマーヤナに出てくる姫の名前ですよ。」
「そうなの?」
カオルコはキョトンとした顔で言う。
「インドでは有名なお話なのですが、知りませんか?」
「そんなのアタシが知ってる筈ないじゃない!」
「うーむ、インドでの研修って一体何をするんだろう……」
あっけらかんと笑うカオルコに、松陰は深くは考えない事にした。
「まあいいか。最後に私の今の名前は吉田松陰です。」
「しょーいん?」
「言いにくければショウでいいですよ。」
「分かったわ!」
それらを確認して部屋を出た。
『シータ!』
『お父様!』
言葉を取り戻した娘とその父親との、感動の再会があった。
『礼を言う!』
皇帝は感激し、礼がしたいと言う。
そこで松陰は思い出した。
『そう言えば先程は、結局何も食べないままでした。お腹がペコペコなので、美味しいカリを頂けませんか?』
『勿論だ!』
とここで、カオルコ改めシータ姫が手を挙げる。
『じゃあ、アタシがカレーを作ってあげる!』
『カオルコじゃなくてシータ姫が? それは楽しみです!』
『えへへ。うーんと美味しいのを作ってあげるね!』
『シータ姫が作ってくれるなんて夢みたいです!』
『ちょっと待ってて!』
シータは勇んで駆けていった。
皇帝とその後ろ姿を見送る。
『娘の料理は格別であるぞ?』
『待ちきれません!』
元カレーの妖精さんが作ってくれるカレーに、松陰は抑えられない気持ちの高まりを感じた。
廊下を戻りつつ、ふと思う。
「あれ? そう言えば、何か忘れている様な……」
何かあった気がするのだが、それが何なのか思い出せない。
大した事では無いのだろうと思い、再びカレーに胸を膨らませた。
戻ったホールの中では参加者が交流を図っていた。
英語の出来る者が通訳し、相互理解を深めている。
日本の文化や技術など、大いに興味を持ったらしい。
インド訪問に備えて残しておいた日本の物品に、盛んに質問をする者も多くいた。
「一体何の用だったのだ?」
そんな中、帰ってきた松陰に正睦が気づき、真剣な表情で尋ねた。
訪問先の皇帝と共に席を外したのだから、使節団の責任者としては気になる。
失礼でも働いていたら大変である。
「えぇと、まあ、何と申しますか、私の目的が思わぬ所で達成出来たと言いますか……」
「何? それはまさか?!」
「そのまさかでございます。皇帝陛下の御息女こそ、私の探していた人物その人でした!」
「何という事だ……」
正睦は天井を仰いだ。
ひとしきり瞑目し、盛大に溜息をつき、聞く。
「それで、その者を我が国に連れて帰るつもりなのか?」
いつもの事なので慣れてはしまったが、他国の王家の子女を日本に連れて帰るなど聞いた事が無い。
鎖国していたので前例など無いし、そうでなくとも身分が違い過ぎるだろう。
良く知った間柄なので応援はしたいが、そのややこしさに頭が痛くなりそうだ。
「あ! それは考えていませんでした……」
「頼むぞ……」
松陰の答えにガックリと肩を落とした。
「お待たせ!」
湯気の立つ大きな鍋を数人に持たせ、シータ姫がやって来た。
「うわ! 何だこの香りは?!」
松陰はホールに満ちていくその香りに驚愕する。
「何種類ものスパイスが絡み合って、一言では言い表せない深く芳しい香りを醸し出している!」
懐かしさを感じると共に、前の世界でも嗅いだ事の無い素晴らしさである。
「さ、純……じゃなかった、ショウだっけ? 食べて!」
シータ姫が皿によそおった。
「はい!」
元気良く返事し、それを受け取ろうと足を踏み出す。
ところが、
「いつの間に?!」
気づかない間に人の列がシータの前に出来ていた。
その中に並んでいる人物に驚く。
「ちょ、ちょっと正睦様?! 食事は終わったのではありませんか?」
いつの間にか正睦までもが並んでいた。
見ればバハードゥル・シャー2世もいる。
「正睦様? まーさーよーしー様!!」
何度呼び掛けても返事が無い。
その視線は真っすぐに鍋だけを見つめ、他の事に注意が向かない様だ。
「あれ? これって前にも見た記憶が……」
思い出せそうで思い出せない。
「これは純、じゃない、ショウの為に作ったんだから、アンタ達は後!」
シータが怒鳴る。
すると歩く屍達は大人しく列を松陰に譲るのだった。
「何と言うか居心地が悪いですね……」
「そんな事はいいから早く食べて!」
「そ、そうですね!」
気にしても仕方ないと皿を受け取り、新たに料理人が焼いたナンを一枚取った。
カレーを見て驚嘆する。
「何と美味しそうなカレーなんだ!」
香りだけではなく、その見た目も素晴らしかった。
そんな松陰を見つめるシータの笑顔は柔らかい。
「こんな美味しそうなカレーにこれ以上の無粋な言葉は無用! 早速頂きます!」
「沢山食べてね!」
言い終わるやそそくさとナンを引きちぎり、少し丸めてカレーに浸す。
丸めたナンをスプーンの様に使い、ある程度のルーを乗せて口に運んだ。
途端、口の中に豊かなカレーの香りが広がる。
鼻腔を直撃する刺激に咀嚼を忘れ、鼻で大きく息を吸い込んだ。
胸一杯にカレーの香りが広がる様で、体の細胞一つ一つが歓喜し、カレーを欲している感覚があった。
俺も早くカレーを味わいたいと胃腸が訴えている様で、申し訳程度に口をモグモグと動かし、飲み込む様に口の中のモノをゴクリと腹に送る。
次々とナンをちぎり、カレーを食べていった。
「お代わり!」
ものの数分も経っていないだろうか。
松陰はお代わりし、どうぞと渡されたカレーに再び手を付けた。
「ご馳走様でした!」
「お粗末様でした。」
何杯お代わりをし、何枚のナンを平らげただろう。
お腹は一杯で苦しい程である。
しかし心は満足し、この上も無く幸せであった。
これ以上の幸福など望めないと感じる。
「カレーはどうだった?」
シータが感想を求めた。
「もう最高でした……」
ウットリとした表情で答える。
「良かったぁ!」
その言葉にシータも喜んだ。
松陰はカレーの余韻にしばし浸り、ふと気づいて周りを見渡し、驚く。
「皆さんどうしたのですか?!」
そこには食べ終えて空になった皿を前にしたまま、一言も発せず身じろぎ一つしない不気味な集団がいた。
松陰が話しかけても誰も応えないし反応もない。
ただ座って皿を見つめているだけである。
正睦も麟州もバハードゥル・シャー2世も、その場にいた全員が同じであった。
「これってあの時のお隣さんとストーカーの男と同じ反応?!」
「ほ、本当だわ!」
松陰は前世の最期を思い出した。
シータは頷きその時の事を説明する。
「あの時はアタシが妖精の力を必要以上に使ったせいだけど、今はもうそんな力なんて無いわよ?」
「では、これは一体……」
どうしたのだと二人して悩む。
すると、
『カオルコよ……』
低くくぐもった声がどこからともなく響いた。
「アタシの名前を知ってるなんて一体誰なの?」
シータが叫ぶ。
それに応える様にカレーの鍋から湯気が立ち昇り、空中に人の姿が浮かび上がる。
松陰には見覚えがあった。
「精霊主様?!」
「夢で見たカオルコさんの上司?!」
二人同時に声を出した。




