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邂逅

 「どうして私達は行けないのです?」


 千代が不満げに呟いた。 

 スズを含め、皇帝への謁見を止めて欲しいと松陰に言われている。


 「いや、ムガール帝国はイスラム教なんだけど、イスラムにしてもインドの宗教であるヒンドゥー教にしても、男女の区別がはっきりしているんだよ。我々は外交使節団だから問題は無い筈だけど、文句を付けたい人はどこにでもいる。我が国で考えても、女の人が表舞台に出る事にいい顔をしない人もいるだろう? 我々が帰国して江戸城で家定様に拝謁するとして、その席に千代がいて何の批判も出ないと思うかい?」

 「それは、そうですわね……。表立って不平を述べなくても、裏で陰口を叩く筈ですわ……」


 無理を言って使節団に加えて貰ったけれども、本来であれば叶わぬ事だろうとは自覚している。


 「男だから良い、女だから駄目だなんて事は言いたくないけど、軽々しく行動して余計な所から不必要な反感を買いたくないんだよ。夫人の同伴が普通の欧米とは違うから、ここは大事をとって待っていて欲しい!」


 男尊女卑の時代、兄の懸念は妥当に思われる。

 女なんかが出しゃばりやがって、というのはよくある事だ。

 それに、その意識を払拭するべく動いてきた姿を見てきたので、ここで不平を差し挟むのは我儘に過ぎると思った。


 「分かりました。私はここでスズと待つ事にします。」

 「ありがとう!」


 千代に納得して貰い、松陰はホッとした。

 ホッとついでに見舞に向かう。


 「歳三君、お腹は大丈夫ですか?」

 「まだまだ駄目だ……。全く、ここまで酷いのは経験した事が無いぞ……」


 青い顔をしてベッドに寝ていた。


 「歳三君がお腹を壊した原因は何でしたっけ?」

 「バナナだったか? それ以外には考えられん……」

 「成る程。皮付の果物は安全ですが、皮が汚れていて、汚れた手で中身を触ったら危険ですよ?」

 「まるで罠じゃないか……」


 恨めしそうに天井を睨んだ。

 数人が腹痛と下痢を訴えて臥せっており、謁見には参加出来そうに無い。


 「まあ、体調が快復するまでしっかりと休んで下さい。」

 「無念だ……」


 観念した様に呟いた。


 『マリアさん、彼らを宜しくお願いします。』

 『お任せ下さい。』


 何故かここまで付いて来ているマリアに歳三らの看病を頼んだ。 

 



 全員は揃わなかったものの、ラール・キラーでのバハードゥル・シャー2世への謁見はつつが無く終了した。

 皇帝にインド統治の実権は無いので特に話し合う事もなく、外交儀礼的なだけのモノである。

 けれども歓迎もまた礼儀であるので、宮殿での式典となった。

 噂を聞きつけた、デリーに近い藩王国の面々も集まっている。

 実権は無いが帝国としての尊崇は残っているし、これまで鎖国していたという国が訪ねてきた事に物珍しさもあろうか。

 重鎮が一堂に会しての食事となった。

 

 「香りが物凄く、いい!」


 松陰は、運ばれてきた料理から漂う香りに心奪われていた。

 芳しく刺激的な匂いが鼻腔をくすぐり、それまでの食欲不振が嘘の様に空腹を感じる。

 意気消沈するまではクミン、コリアンダー、カルダモン、クローブといった香辛料の香りを思う存分市場で堪能していたが、どのスパイスからもここまでの高揚感は感じなかった。

 しかし今、懐かしい友人に思いがけず再会出来た様な、探し求めていた品に偶然巡り合えた様な、不思議な興奮と感動に包まれていた。

 食べる事を忘れたかの様に鼻をヒクヒクと動かし、ウットリとしている松陰に呆れながら、正睦は恐る恐る目の前の料理に手を伸ばす。

 辛い物が苦手とはいえ、この様な場で何も食べない訳にはいかない。


 「これはそこまで辛くない!」


 まず料理を一口頬張り、正直な感想を述べた。


 「であれば俄然食が進む!」


 初めは手を使って食べる事に戸惑った正睦らであったが、郷に入っては郷に従えと無理やり慣れていった。

 数をこなせばそれなりに上手になるモノで、今ではすっかり問題無く食事をする事が出来ている。

 

 「ふむ。辛過ぎないからか、味わう余裕があるぞ。味付けの方法はさっぱり分からんが、中々に美味いではないか!」


 ここまで香辛料をふんだんに使った料理は、日本は勿論ヨーロッパでも経験していない。

 それまでは、まるで漢方薬だと違和感ばかりがあったが、今日の料理は違った。

 辛い事は辛いし、香りも強くはあるが、それにも増して美味しさが勝っている。

 

 「ナンであったか、ヨーロッパで食べたパンに劣らず、大層な旨さだ!」


 別の場所で焼かれたのを直ぐに持ってきているのか、熱々のナンもまた食欲をそそった。

 正睦は、これまでの事が嘘の様に食が進んだ。


 「……」


 言葉を忘れたかの様に料理を頬張る。

 と突然、尚も香りを嗅いでいた松陰に向かい、言った。


 「吉田よ、すまん!」


 正睦の謝罪にハッと我に返った松陰が、慌ててどうしたのだと尋ねる。


 「藪から棒に何ですか?」

 「いや、自分でも良く分からんが、何やら無性にその方に謝りたくなった! すまぬ!」

 「意味が分かりませんが……」


 訳が分からずに戸惑うばかり。 

 と、


 「悪かった!」

 「麟州様もですか?!」


 何を思ったか、麟州までもが謝ってきた。

 すると他の者までもが「許してくれ!」「すまんかった!」「御免!」と続々と言ってくるのだった。

 混乱している松陰に思わぬ人物から声が掛かる。

 

 『すまぬが……』


 声の主に顔を向ければ、今回の謁見の目的であったバハードゥル・シャー2世その人であった。

 驚いて立ち上がり、皇帝に向き合う。


 『皇帝陛下もなのですか?』


 会話には前世で必死に覚えたヒンドゥー語を駆使している。

 正睦の口上を訳して話しているので皇帝も驚かない。

 

 『いや、そうではない。先程、客人らの誰かが“ゴメン”と口にした様だが、それはどういう意味なのだ?』


 謝った誰かの言葉が耳に入っていた様だ。

 松陰は説明する。


 『それは日本語で謝罪を意味する言葉ですよ。』

 『何だと?!』


 それに大層驚く皇帝。

 どうしたのかと思っていると、更に混乱する事を言ってきた。


 『頼む! 我が姫に会って貰えぬか?』

 『え?』




 『我が娘であるシータ姫は、幼い頃に患った熱病で言葉を失ってしまったのだ。』

 『そう、なのですか……』


 場所を宮殿の中の廊下に移し、歩きつつ皇帝は松陰に説明していく。

 高齢なので脇に付き添いの者がいる。


 『以来姫は香辛料を挽く事に熱中しており、一日中やっているのだ。』

 『え? それって……』


 何やら記憶にある情報であった。


 『どれだけ話しかけても姫は返事すらせぬ。しかし』

 『しかし?』


 意味深な所で言葉を切った皇帝を見ると、長い廊下の端にある部屋の前で足を止めている。

 部屋に入りつつ言った。


 『姫は以前、確かに“ゴメン”と口にしたのだ!』



 

 部屋の中には入り口に背を向け、うずくまって何やらゴリゴリとやっている娘が見えた。

 漂ってくる匂いで想像はついたが、何をやっているのか近寄って確認してみると、思った通りに石で出来たり器で香辛料を挽いている。

 横顔しか見えないが、額に汗を浮かべ、頬には涙の跡を残し、一心不乱にその作業に没頭しているのが分かった。

 脇には挽いた粉を入れる容器と、挽いていない香辛料が所狭しと積まれている。

 口を僅かに動かしている事から何かを呟いている様で、耳をそばだててみると確かに「ごめんなさい」と繰り返し言っている様だ。

 

 その姿を見て松陰は胸が熱くなった。

 夢で見た通りなら彼女はカレーの妖精のカオルコさんで、100年間に渡り香辛料を挽き続けてきた筈だ。

 全ては贖罪の為に。

 そんな彼女の祈りがあったから、今の自分はここにいる。

 こみ上げる万感の思いを必死で抑え、震えそうになる声で話しかけた。


 「カオルコさん?」


 途端にビクッとし、手を止めてキョロキョロとし始めた。

 けれども松陰が視界に入っていないらしく、何事も無かったかの様に再び手を動かし始めた。

 今度は彼女の前に回る。

 その表情を見れば、一心不乱と言うよりは、心がここに無い夢遊病者と言った方が適切そうな印象を受けた。

 恐ろしくなってもう一度、今度は強めに声を掛ける。


 「カオルコさん!」


 今度ははっきりと認識した様で、まるで魔法から醒めた様にその表情には感情が戻っていた。

 口をあんぐりと開けて松陰を見つめている。

 夢で見たカオルコの顔とは違い、インド人の特徴を持った若い女性である。

 けれどもその存在の全てからカレーの香りがしてくる気がした。

 口をパクパクと動かし、何か喋ろうとしているが、空気だけしか出てこないらしい。

 やっとの事で声になった。 

 

 「誰? どうしてアタシの名前を?」


 夢でも聞いた気がする、クミンを思わせる声だった。

 思わず駆け寄り抱きしめたくなる衝動に襲われる。

 どうにか理性を保ち、言った。


 「カオルコさん、純です! 南原純です!」

 

 大きく息を呑むのが見えた。

 感動の再会を思い、心が昂ぶる。

 しかしカオルコの口からは否定の言葉が出た。


 「嘘! 純はそんな顔してない!」

 「成る程! 仰る通りです! でも、生まれ変わってるんですよ! 幕末の長州藩、松下村塾で有名な吉田松陰ですが、分かりますか?」


 全くの正しい指摘に慌てて説明する。


 「そんなの分かんないわよ!」


 ガクッとした。


 「確かに吉田松陰は、幕末志士を育てたとはいえマイナーな存在ですよねぇ……」


 歴史上の人物としての己の知名度の無さを嘆く。

 そんな松陰とは対照的に、カオルコは自分の一番大事な名前を口にされ、怒ってしまった様だ。

 さき程までは虚ろと呼べる位に感情を感じなかったのに、驚く様な変わり方である。

 問い詰める様に叫ぶ。


 「アンタが純だっていうなら、特製スパイスの中身を知ってる筈よ!」


 ビシッと指さした。

 それを聞き、思わずニヤリとしてしまう。  


 「成る程、そう来ますか。良い質問ですねぇ……」

 「何よ! 純なら知っている筈でしょ?」


 腕を組み、フンと鼻を鳴らした。

 答えられるものなら答えてみろと言いたいのだろう。

 しかし、当の本人であるので造作も無い。


 「あの特製スパイスはそう簡単には答えられませんよ。」

 「何よ? 誤魔化すつもり?」

 「そうじゃないのはカオルコさんが一番良く知っているでしょう?」

 「ど、どういう事よ?」


 動揺を隠せないカオルコに畳みかける。


 「私のカレーは基本的に市販のルーを使って作っています。残業から帰って一からカレーを作る時間はありませんし、スパイスから作ると日本では高くつきますからね。日曜に大量に仕込み、冷凍庫保存が基本です。」

 「そ、そんなの、忙しい家庭なら普通でしょ!」

 「まあ、そうですね。ですが、それではスパイスの香りが弱まり、カレーの素晴らしさを思う存分には楽しめません。スパイスの香りは挽き立てが一番ですからね!」

 「よ、良く分かってるじゃないの!」


 元がカレーの妖精であるので、カレーを褒められれば嬉しい様だ。

 眉間に皺を寄せていたのに、今は頬を若干赤らめている。

 そんなカオルコに続けた。


 「そこで特製スパイスの出番です!」

 「そ、そう?」

 「そうです! ありきたりですがシナモンとクローブ、ナツメグを基本とし、カルダモンとクミンを加えてガラムマサラを作ります!」

 「へ、へぇ!」

 「後はその日の気分次第で、適当にスパイスを加えたら出来上がりです! それくらいなら電子レンジを待つ間に挽けますからね。香りが欲しければクミンを足し、辛みが欲しければコショウを加え、飲み会の前にはウコンを増やし、寒い冬にはショウガを使います。これで特製スパイスの説明は終わりです!」

 「純!」


 言い終わるや否や、カオルコはガバッと松陰に抱きついた。

 その目からは大粒の涙を流し、会いたかったと訴える。

 途端にクミンやコリアンダー、ウコンといった香辛料の芳しい香りが立ち込めた。

 思わずその香りを胸一杯に吸い込んだ。


 「アタシのせいで純がぁぁぁぁ」


 カオルコは前世の事を後悔して泣き叫ぶ。


 「大丈夫、大丈夫だから。」


 松陰は優しく慰めた。

カオルコを呆気なく見つけてしまいました。

これが作者の限界です。


初めの辺りで言及しましたが、インドで転移者を出す予定でした。

会社の同僚だったハーンさんです。

言葉の通じないインドを放浪してもらい、日本の味と同じカレーを食べたと松陰に教える役割です。

ですが面倒なのでその展開は止めました。

従って転移者は出ません。

もしも覚えていらっしゃる方がおり、誰なのだと期待されていらっしゃったとしたら、誠に申し訳ありません。


イスラムの姫の衣装や部屋、育て方などは、触れないでいただけると幸いです。

整合性は考えておりません。

皇帝を放置していますが、後ろで見守っております。

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