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落日のムガール帝国

ありきたりな展開ですが・・・

 ムガール帝国首都デリーにある宮殿ラール・キラー。

 一人の男が大理石で出来た玉座に腰かけ、物思いに耽っていた。

 その顔には幾筋もの皺が刻まれ、外からその心情を伺う事は出来ない。

 一見すると無表情にも見えるその男、ムガール帝国第17代皇帝バハードゥル・シャー2世は、皇帝たるに相応しい衣装を身に纏いながらも、内心では忸怩たる思いを抱いていた。

 虚ろとも言える皇帝の眼が捉えていたのは、目の前に広がる誰もいない、がらんとした空間である。

 栄光あるムガール帝国皇帝が謁見を許す場である筈なのに、今日とてそれを希望する者はいない。


 今となってはそれは当たり前の事で、自らもその状況を受け入れてしまっているが、時折思い出した様に虚しさが襲ってくる。

 父祖などから聞かされてきた輝かしい帝国の歴史を思えば、自分の代になってという訳ではないが、この様なみすぼらしい状況に陥っている事が情けなく、恥ずかしい。

 かつての宮殿には皇帝への謁見者が詰めかけ、一日中対応し続けても行列が途切れなかったと聞く。

 貢物が高く積み上げられ、柱が見えなくなる程だったと言う。

 想像を絶するが、過去にはそんな時代があったのだ。


 若い頃には帝国の威光を取り戻さんと決意した事もあったが、齢80を越えた今、かつての情熱は心より去って久しい。

 二度に渡るシク王国の、イギリスの支配に対する反乱は最後の希望であったが、圧倒的な軍事力を持ったイギリスに破れ、皇帝の他力本願な思いも潰えた。

 そんな皇帝にとって、東インド会社から支給される年金に頼っての生活は屈辱ではあったが、ある種の心の平穏に包まれていた。

 

 正当なるインドの統治者としての尊厳は皆無であるが、娘シータ姫の作る料理に舌鼓を打ち、自身も学者であったウルドゥー詩を研究するだけの生活に満足もある。

 面倒で危険な政争に巻き込まれる事もなく、趣味に没頭していれば良い宮殿での生活は、考え様によっては非常に快適であるといえる。

 詩を吟じている間は皇帝の重荷から解放されているし、娘の料理は素晴らしかったからだ。

 また、高名な詩人を宮殿に招き、優れた詩をいくつも書いてもらった。

 自身も帝国の栄光を謳い上げ、宮殿から見えるデリーの美しさを描写して日々を過ごしていた。

 

 そこでふと娘シータ姫の事を思う。

 バハードゥル・シャー2世には計8人の正室と47人の側室の間に、22人の息子と32人の娘がいる。

 シータ姫は皇帝が愛した側室との間に出来た、帝位を継いでから生まれた娘である。

 インドの二大叙事詩の一つ、ラーマーヤナに出てくる英雄ラーマ王子の妃シータ姫の名を頂いたのだが、ひどい難産で、母親は産後の快復が思わしくなく、治療の甲斐無く亡くなってしまった。

 それもあって目に入れても痛くない程に可愛がってきたのだが、物心つく頃に熱を出し、以来物の言えぬ身となってしまった。

 それまでは活発であったのに急に部屋に閉じこもる様になり、盛んに香辛料を求める様になった。

 大量の香辛料を集め、一日中部屋で挽き続ける。 

 どれだけ言っても止めず、無理やり道具を取り上げようものなら泣いて足元に縋りつき、理解出来ない言葉を口走って抵抗するのだった。

 

 初めは評判の医者を招き、娘を診てもらったが、原因も掴めず治りもしない。

 やがて怪しげな祈祷師までも呼び寄せたが、どんな祈りを捧げようが全てが無駄であった。

 娘の口走る言葉を調べればという考えも頭を掠めたが、何やら不吉な気がして言語学者を呼ぶ事はしていない。

 そんな父親の心配もどこ吹く風と、周りがどれだけ騒いでも一心不乱に香辛料を挽く娘の姿に、父もついには諦め、好きな様に任せるのだった。

 そんな娘はやがて料理を始めた。

 自らが挽いた香辛料を使い、宮廷料理人を押しのけ見事なカリを作り上げていく。  

 食欲をそそる香りを放つ料理ではあったが、呪われる事を恐れて誰も手を付ける者はいなかった。

 食べれば同じ様になってしまうと思ったらしい。

 折角作ったカリなのに、食べる者は一人としていない。

 出来立ての料理がただ冷えていく横で、それでも娘は作る事で満足なのか、再び黙々と香辛料を挽き始める。

 そんな娘の姿に憐みを感じた父親は、止める家臣に構わずカリに手を付けた。

 

 その時の事は今でも鮮明に覚えている。

 娘の作ったカリは、表現する言葉が無いくらいに素晴らしかった。

 ふくよかな香りも複雑に絡み合った味もさることながら、何より食べた瞬間に心が満ちていく、不思議な満足感があった。

 小さな頃の母の思い出から始まり、楽しかった若かりし日々の記憶が次々に甦り、思わず頬が緩んでしまう。

 気づけば皿を空にしている、そんな料理であった。


 それからはシータ姫の料理を望んだが、思い出した様にしか作ってくれず、頼んでも聞き入れてはくれず、10日に一度食べられれば良いだけの頻度となっている。

 それに比べて彼女が毎日挽き続けている香辛料は、宮殿で使うには十分なので、毎日の料理に使われていた。

 彼女が挽いた香辛料を使ったメニューは、彼女が作った料理程ではなかったが、それでも感情に訴える何かを持っていた。

 思わず過去の失敗を謝ってしまいたくなる様な、会えない人を偲ぶ気持ちが生まれる様な、そんな心を呼び起こす。

 父であるバハードゥル・シャー2世に留まらず、宮殿に暮らす皇帝一族全員がそれを使った料理を好んだ。

 評判は人知れず知れ渡り、知らぬ間に客が増えて同じ食事を摂っている有様であった。

 謁見の間には人が来ないのに、そこには人だかりが出来ている。

 宮廷の料理人も気を利かせ、大いに用意するのだった。

 シータ姫もそれを理解しているのか、懸命になって挽いた。


 皇帝は一人考える。

 地に落ちた帝国の威信を辛うじて守っているのは、物さえ言えぬ姫が担っているのではないのかと。

 卓越した政治力も、軍事的な統率力も無い自分だから謁見を望む者はいないのだろうが、不思議な力を持った姫の香辛料には我先に群がっている。

 カリスマの無い自分が情けなくもあるが、在りし日の帝国の繁栄を垣間見えて密かに嬉しかった。 


 宮殿に来る者の中には、是非とも彼女を家に迎え入れたいと望む者も出てきた。

 息子の妻に、という事だ。

 有力者もいるので、没落したムガール帝国を再興しようと思えば断る話ではない。

 しかし、何を思ったか皇帝は、その首を縦に振らなかった。

 どんな好条件が提示されても頑なに拒否するのだった。 

 

 一つには娘の身の心配である。

 意思の疎通さえままならない我が娘を輿入れさせた所で、相手は朝から晩まで香辛料を挽かせるだけだろう。

 皇帝の娘は政略の為に有力者に嫁がせる存在とはいえ、シータ姫の場合、余りに心が痛む。

 また、その決断が出来ない故の帝国の今だろうとも自嘲した。


 もう一つは自棄やけとも言える気持ちであった。

 シク王国が東インド会社に破れた今、反抗する勢力がいなくなったイギリスは、これから思う存分にインド支配を強化していくだろう。

 皇帝である自分も、いつまでこのままの状態でいられるか分からない。

 これまでは統治の象徴として置いておかれたが、必要が無いと見なされれば瞬く間に皇帝の座から引き摺り下ろされるだろう。

 帝国の死が迫っているのなら、娘の料理を味わいながらその時を迎えたいと思う。 そんな諦念があった。

  

 物言えぬ娘の将来と、帝国の暗い行く末を憂うバハードゥル・シャー2世に、玉座の下から声が掛かる。

 

 「陛下……」


 家臣であった。


 「どうしたのだ?」


 躊躇いがちな家臣の呼びかけに、ハッと我に返ったバハードゥルが問う。 


 「日本という国の使節団がコルカタに到着し、こちらに向かっているそうでございます。デリーに到着後、陛下への謁見を申し出ております。」

 「にほん?」


 久しぶりに打診を受けた外国使節の宮殿訪問であったが、日本という国名に首を傾げる。

 家臣が説明した。 


 「日本は清国の東隣に位置する島国でございます。長い間国を閉ざしていたのですが、アメリカからの圧力で国を開いた様です。世界を回り、開国する事を宣言に参ったとの事です。」

 「清国の隣の島国? そう言えば聞いた事があるな……」


 東インド会社の者が噂していたのを覚えていた。


 「謁見を許可なさいますか?」

 「久しぶりの異国からの客人だ、拒む理由はあるまい。」

 「承知致しました。」


 弱体化したムガール帝国に敬意を示す近隣国は無い。

 久方ぶりの外交使節の訪問に心が浮足立つのを感じる。

 やはり皇帝としての誇りがあるのだろうか。

 

 そうなると宮殿内は、日本という未知の国の話題で持ち切りとなった。

 情報が少ない中、人々は聞きかじりの噂を囁き合う。

 そんな時、


 「陛下!」


 家臣が慌ててやって来た。 


 「どうしたというのだ?」


 皇帝は驚いて尋ねる。


 「シータ姫が大変なのです!」

 「何?!」


 その言葉に急ぎ姫の元へと向かう。


 「何があった!」 


 彼女の部屋へと入るなり、オロオロとしている侍女に問う。


 「それが……」


 侍女の説明はこうであった。

 今日は気が向いたのか、調理場へと向かった姫はいつもの様に料理に取り掛かった。

 料理人達も慣れたもので、彼女の邪魔とならない様にしつつ、他の料理を作っていく。

 彼女は一品しか作らないので足りない物を用意するのだ。

 料理がほとんど完成した所で、一人の料理人がふと思い出した事を彼女に話しかけたという。

 反応が無い事は分かっていたが、親しみを込めていつもやっているらしい。

 料理人として彼女の料理に感服していたので、尊敬もあった様だ。

 

 それは近いうちにやって来る、外交使節団の事であった。

 姫の料理であれば、その使節団もきっと驚く事だろう、という内容を口にしたそうだ。

 その時点ではいつもの様に姫の反応は無かったのだが、他の料理人がそれを聞きつけ、その国の名が何だったか尋ねたのだという。

 日本だと答えた途端、姫の様子が変わったそうだ。

 目をカッと見開き、体をワナワナと震わせ、「にほん!」と口走ったという。

 それからはボロボロと涙をこぼし、床に突っ伏して泣き続けたそうだ。


 「姫が喋ったのか?!」


 皇帝は耳を疑った。 

 これまで姫が理解の及ぶ言葉を話した記憶が無いのに、突然の様に日本という国の名を口にしたというのだから、驚くのも無理はないだろう。

 娘を見ればベッドの中ですすり泣いている。

 

 『にっぽん……』


 姫が口にしたという単語を呟く。


 『ごめん……』


 言語学者に調べさせようとした、聞き取る事が出来た言葉を思い出す。

 何やら関係がある様な気がして、皇帝はふと背筋が冷えるのを感じた。




 場所を移してインド、アグラ。

 タージ・マハルで有名な古都に、憔悴した顔の人々が集まっていた。


 「正睦様……」

 「おぉ……。無事にしておったか……」


 使節団の宿泊地に現れたのは、一足早くインドに向かった筈の松陰であった。

 しかしその声に力は無く、顔色も優れない。

 迎えた正睦らも体調が優れない様に見えた。


 「喜び勇んで向かった割には元気が無いぞ? その方があれだけ望んだインドではないのか?」


 不思議に思った正睦が松陰に尋ねた。


 「……植民地支配の実態がこれ程の物とは思いませんでした……」


 行商人のキャラバンに紛れ、アフガニスタンを越えた辺りまでは元気一杯だったのだが、今でいうパキスタンの地に足を踏み入れてその気持ちは一変した。

 歴史上の出来事としてイギリスのインド支配の過酷さは知っていたが、それを目の当たりにした事で、現実の事なのだと実感したのだ。

 本場のカレーが食べられるという浮ついた気持ちは消え去り、寧ろ何も喉を通らない程の衝撃を受けていた。

 その告白には正睦も頷く。


 「それは儂も感じておった。インドの民、特に農民の貧しさは何なのだ? 骨と皮しかない様に見えたぞ……」


 コルカタからアグラまでの道中、農村部も通っている。

 街道を行く正睦らを見送る人々の様子に、これまでにない違和感があった。

 アメリカでもイギリスでもヨーロッパのどこの国でも、珍しい客の姿に好悪の感情はさておき、興味を持っている事が見て取れた。

 しかしこのインドでは、刀を差した着物姿のチョンマゲ達が道を進んでいるのに、

まるで興味が無いという風に畑につっ立っているだけであった。

 骨と皮だけに見える農民が、ノロノロとした動きで作業をし、時折ボーっとした表情で一行を見つめ、何事も無かったかの様にまた作業を再開する。

 そんな農民の姿に、自身の意思を持っていないのではないかと感じたのだった。


 「もしもこれが圧政の結果であるのなら、想像を絶する苛烈さであろうな……」  


 貧すれば鈍すると言う。

 貧しさで感情までも鈍感になるのなら、どれ程の貧しさであるというのか。

 日本でも民に圧政を敷き、幕府より咎められた藩はある。

 けれども、流石にここまでのモノは聞いた事が無い。


 「イギリスやヨーロッパのあの繁栄ぶりは、インドやアフリカといった植民地からの搾取によって成り立っているのです……」

 「さもありなん。あの不自然なまでの富の集中は、この犠牲があっての事だったのだな……」

 

 深く納得した。


 「しかし、人の上に立つ立場の正睦様が、それしきの事で食が細くなられるとは思いませんでした……」


 意外であった。

 正睦はそれに反論する。


 「勘違いするでない。確かにこの国の民には同情するが、儂がやつれているのは他の理由だ!」

 「と、言いますと?」


 不思議に思って尋ねた。


 「ここの食べ物は匂いがきつすぎる上に辛すぎる!」

 「な、成る程……」


 確かに慣れない者には厳しいかもしれない。

 それに追加する。


 「更には不衛生である! 何人も腹を壊してしまったぞ!」

 「だから注意しておいたのに……」


 インドに向かう前に注意点は伝えておいた。

 食事の前には必ず手を洗う事、その水は清潔な水である事、飲み水にも気を付けて生水は飲まない事、などだ。

 けれども徹底は出来なかったらしい。

 果物にはバイ菌が無くても、それを切る包丁が汚れていては同じなので、中々に難しい。


 「それで皆様は元気が無いのですか?」


 松陰は一行を見渡して述べた。

 正睦が言う。


 「それも違う。」

 「え? では他の理由が?」

 「クリミア戦争を見て意気消沈してしまったらしい。刀を振り回す時代は終わったと感じたそうだ。」

 「な、成る程……」


 それを期待して行かせたのだが、想像以上に効果があった様だ。


 「圧倒的な数の大砲の前では剣術など無意味だと、柄にも無く落ち込んでいるのだ。」

 「うーむ、長期的にはまさにその通りではありますが、歩兵銃すら整っていない現状での陸上戦闘では、剣術はまだまだ意味があるのですが……」


 効き過ぎてしまったらしい。

 正睦が話題を変える。


 「それはそうと、その方の目的は果たせたのか? 夢に出てくる女には会えたのか?」

 「いえ、残念ながら……。彼女が挽いた香辛料を料理に使っていれば必ず分かると思うのですが、今は香りを嗅ぐ事すらも体が拒否するのです……」

 「難儀な事だな……」

 

 その為、今は水だけで炊いたお粥と果物くらいしか食べていない。

 

 「ご心配をお掛けし申し訳ございません。このインド滞在中に必ずや見つけ出します!」

 「その時は好きに動けば良いぞ。」

 「お気遣いありがとうございます!」


 こうして一行はデリーに向かった。

 

補足


千代「スズ、首尾はどうなりましたか?」

スズ「えぇと、まあ、ボチボチ・・・」

千代「ボチボチ? どうボチボチなのです?」

スズ「だから、墓地まで一緒にボチボチとって事!」

千代「それは?!」

スズ「正妻は無理だったけど・・・」

千代「くっ! あの頑固者め!」 


という感じで進んでおります。

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