クリミアの天使
「うっ! 頭が……」
松陰は二日酔いの頭痛で目が覚めた。
ナイチンゲールが予想以上に酒豪で、競う様に杯を空けたのが原因だろう。
彼女の逸話は伝記で知っていたつもりだったが、まさか酒にも強かったとは思わなかった。
「しかし、あのナイチンゲールさんとは驚きですね……」
『呼びましたか?』
「え!?」
独り言に返事が返ってきてギョッとした。
慌てて横を見ると、同じベッドにそのナイチンゲールが寝ており、寝ぼけ眼でこちらを見ている。
『ナイチンゲールさん?! ど、どうしてここに?』
『それを女に言わせるのですか?』
途端に不機嫌な表情となる。
これはつまりそういう事なのかと松陰は愕然とした。
しかし、いくら飲んだと言っても、そんな事になったのに覚えていないとは信じられない。
『いや、何と言いますか、本当に記憶に無いのですが……』
『まあ! 未婚の女性を口説いて一夜を共にしたのに、記憶に無いで逃げるのですか?』
プリプリして怒っている。
『そんなつもりではありません!』
慌てて言い繕った。
『では、しっかりと責任を取ってくださるのでしょうね?』
ベッドの上でナイチンゲールが迫る。
『そ、そうきますか……』
冷や汗が流れた。
と、
「ゆ、夢か……」
彼女に結婚を迫られた所で目が覚めた。
喉が非常に渇いており、寝苦しさからあの様な夢を見たのだろう。
「いや、本当に、洒落になってない……」
枕元の水差しから水をコップに注ぎ、一気にあおった。
『実際の病院を見学して問題点を見つけるというのは如何でしょう?』
翌朝、約束通りにナイチンゲールはやって来た。
今朝の夢からホテルにいるのは不吉だと感じ、実地で考える方法を提案する。
『それで構いませんわ!』
彼女にとってもそれは願ったりで、早速近くにある病院を探し、訪れた。
修道院が運営する普通の病院で、外国語の得意な彼女が院長に掛けあい見学の許可を得た。
外国人の見学希望に院長自らが案内を買って出る。
玄関を通った所で松陰が言った。
『まず、外を歩いた靴で病院内に入るのは宜しくありません。』
『そこからですの?!』
早速の指摘に驚く。
松陰は説明した。
『貴女もご存知だとは思いますが、街はあまり清潔ではありません。病気の元となる微細な物質は、乾燥状態でもその毒性を保ち続けます。それが靴などに付着し、病院内に持ち込まれるのです。』
『そうですのね……』
街の様子を思い浮かべ、溜息をつく。
『お見舞いに来た人までも靴を履き替えるのは難しいかもしれませんが、医者と看護婦だけでも履き替えたい所です。』
『それくらいなら、まあ……』
替えの靴を用意するのも容易ではない。
二人はトイレの前を通りかかる。
『お手洗いも同じです。コレラの場合、患者の排泄物から感染しますので、お手洗いは非常に危険と言えます。出来ればお手洗いでは、それ専用の履物を履くべきです。』
『コレラですって?!』
思わず聞き返した。
平時でも厄介な病であるのに、重傷者の多い野戦病院で発生すれば致命的な事態となりかねない。
『爆発的に患者を増やす病気は大抵が感染症です。その感染の広がり方にはいくつかあります。』
『それはなんですの?』
『まず患者に直接触ったり、患者に触れた器具を別の者に使う事によって感染する直接感染、風邪など患者の咳で広がる空気感染、コレラといった、患者の排泄物で汚染された食品を口にする事で感染する経口感染、蚊やダニ、ノミやネズミなどを媒介にして広がる水平伝播などです。』
『直接感染……空気感染……』
一生懸命にメモを取っている。
その目は真剣そのもので、松陰の言葉を一言も聞き逃すまいという風に見えた。
書き終わるのを待って質問する。
『それらを防ぐ為に病院で出来る事は何でしょう?』
松陰に問われ、ナイチンゲールは考え込んだ。
話の内容を振り返ればヒントがある様に思えた。
『病気を持った患者に触れる事によって広がるのでしたら触らなければ良いのでしょうが、それでは治療が出来ませんわね。でしたら、触れた後に手を洗うなりして清潔にすれば良いと思います。』
『では、他のモノにはどうしますか?』
『空気感染にはマスクを着用する。経口感染には排泄物の管理と食べ物の管理をしっかりと行う。水平伝播には、そうですわね、害虫の駆除をしつつ病院内を清潔に保つ、でしょうか。』
その答えに内心で驚いた。
流石だと感じた。
『病院内を清潔に保つのが基本ですね。コレラに関しましては、出来れば患者を専用の部屋に隔離し、経口補水液を与え続け、かつ排泄物などを厳重に管理したい所です。』
『コレラに罹っていない人へ広げない為ですわね。』
『そうです。患者の排泄物から感染が広がるのはコレラだけではありませんが、それらを防ぐ一環でお手洗い専用の履物です。ですが、お手洗いに高価な履物は置けないでしょう。木でできた底板に革を張ったサンダルで宜しいのではないでしょうか。』
『そうですわね……』
安価でなければ普及は難しい。
その提案に納得した。
『また、医者と看護婦といった医療従事者は特に、お手洗いの後には手をしっかりと洗う必要があります。その際は石鹸の使用が望ましいです。』
『我々が病気を広げてしまったら元も子もないですわね……』
『時と場合によっては止むを得ないでしょう。しかし、注意していないと衣服の袖などに付着した患者の体液でも感染が広がる可能性がありますし、治療に使った道具でも広がります。衣服は頻繁に交換する事は難しいかもしれませんが、道具は使う度に消毒した方が宜しいでしょう。』
『どうやって消毒するのですか?』
『道具は熱湯やアルコールに漬けるのが最も簡単だと思います。衣服に関しては石鹸で十分に洗い、日光で乾かせば良いでしょう。』
『分かりました。』
そうこうしているうちに病室へと辿り着く。
中を見るなり松陰が述べた。
『窓が少ないですね。日光の殺菌作用を利用する為にも、窓を多くして光を部屋に入れた方が良いと思います。また、そうであれば換気も出来ます。湿気が籠ると黴が増えてしまいますから、弱った患者の体には悪いです。』
『それは私も思っておりました!』
戦場の薄暗い病院を思い出し、彼女は言った。
『また、日光には精神を安定させ、質の良い睡眠をもたらす効果もあります。定期的に庭にでも散歩に行けると良いですね。その庭に花でも咲いていると素晴らしいです。』
『そうは名案ですわ!』
患者の気分転換にもなるだろうと思った。
『食事の時間ですか。』
看護婦であるシスターらが食事の用意を始めていた。
そのまま病室にいる訳にもいかず、別室へと移動する。
院長の計らいで患者と同じ食事を摂る事が出来た。
堅いパンと具の殆ど入っていないスープである。
修道院の運営する病院であれば、患者は貧しい者ばかりであろうし、運営費もままならないのだろう。
訪れる国々で盛大なもてなしを受け続けたこの旅路にあって、華やかさの影に隠れた貧困を目の当たりにした気がした。
そして、この貧困すらも生ぬるいであろう、植民地の国々の辛苦に思いを馳せた。
物思いは僅かな時間で、再びナイチンゲールに向き合う。
『では、栄養について説明します。』
『お願い致しますわ。』
本題について話し始めた。
『食事に含まれる栄養は大まかに分けて三つあります。』
『三つですか?』
『そうです。パンや油といった体を動かすエネルギーとなるもの。肉や魚など体を作るもの。そして体の調子を整えるものです。』
『体を動かす……』
栄養について知っている事を語っていく。
ひとしきり説明を終えた。
『要は、偏らずにバランスの良い食事をした方が良いですよという事です。』
『それが出来れば苦労はありません!』
初めて聞く話ではあったし、為になる指摘も多かったが、物資に余裕の無い野戦病院でその様な食事など用意出来る筈も無い。
『病院は予算が限られていますから、バランスの良い食事は難しいですね。知りもしないで勝手な事を言ってすみません。』
『いえ、貴方が謝る事ではありませんわ!』
それは戦争を計画した者らへの苛立ちであった。
兵士も弾薬も前線に送る事が出来るのに、その兵士達が満足に食べられるだけの食料は送る事が難しいと言うのだ。
『とはいえ、野菜や肉が入っているのか分からないスープに比べれば、ライムギパンとエールの方が逆に栄養価は高いかもしれませんよ?』
『何ですって?!』
松陰の言葉に思わず聞き返す。
『燃料の節約の為、昔はパンを一度に焼いたそうですね。数日経って堅くなったパンは、エールに浸して柔らかくして食べていたとか。』
『そう聞いていますわ。』
中世のエピソードとして知っていた。
『それは案外理に叶った食事であると言えます。』
『どういう事ですの?』
先を求める。
『病気への抵抗性など比較出来ないので軽々しくは言えませんし、食べていたのはそれだけではなかったでしょうが、昔の人はそれで生活を送れていた事実があるからです。』
『栄養的に問題が無かったからこそ、そんな生活を続けられたという訳ですわね?』
『そういう事です。』
経験則が科学的にも正しい事を証明された事例は多い。
『一応言っておくと、全粒粉を使ったパンは炭水化物だけでなく、ある程度のタンパク質もビタミンも含まれています。それにプラスしてエールにもビタミン類がありますから、小麦から作った白いパンと具の無いスープよりは、ライムギパンをエールに浸して食べた方が、栄養の面では優れているのかもしれません。』
『そういうことですのね。』
飲む点滴と言われる甘酒も、米を麹菌で発酵させた飲み物である。
『我が国では昔から一汁一菜と言います。我が国は麦ではなく米を主食にしていますが、一汁一菜が成り立つのは玄米だったからみたいです。精米した白米ですと、脚気というビタミンが不足して起こる病気に罹りやすいのです。』
『それだけの事で大きな違いがあるのですね……』
『毎日の食べ物が健康に繋がるという意味で、医食同源と言います。』
『医食同源……』
その意味を噛みしめた。
『重要なのは効果があるのかきちんと見極める事だと思います。パンとスープを摂る集団と、パンとエールの集団とに分けて調査すれば比較が出来ます。理屈は兎も角として、効果が高い方法を採用する事こそ、苦しむ患者を救う道ですよね?』
『それは確かにそうですわね。』
統計を取るのは得意な彼女であった。
午後となり、病棟からは少し離れた、小さな小屋に案内された。
『ここは死期の間近な者が収容されているそうですわ。不治の病に侵され、家族からも見放され、苦しみの中で最期の時を迎えざるを得ない人達の為の空間です。』
感情が籠っていない様な、淡々とした表情で説明が為された。
松陰は小屋に入る手前で、思わず足を踏み入れる事を躊躇う。
中には一種異様な光景が広がっていたからだ。
薄暗い内部にはいくつものベッドが並べられ、苦しみもがく人々の姿があった。
骨と皮だけになった、やせ細った皺くちゃの老人がいるかと思えば、体が痛むのか、お腹を押さえてうめき声を上げている中年の男もいる。
症状はバラバラそうであったが、共通している事と言えば、皆一様に死相が浮かんでいる事であった。
はっきりと死を予感させる、まとわりつく様な重苦しさがその部屋には充満していた。
台湾やソルトレイクシティーでは戦争を経験している。
手足を失い失血死した者も多数見てきた。
大砲の直撃を受け、体が四散した敵兵も目撃している。
その為、多少の修羅場には動揺しない様になっていたが、今回は違った。
何か感染性の病気に侵された人もいるかもしれないと、ふと考えてしまったのだ。 前世の知識が仇となり、足を止める事となってしまった。
そんな風に小屋の前で狼狽える松陰を残し、彼女は自然体で入っていった。
苦しむ者達の枕元に跪き、ある者には叱咤するかの様な口ぶりで話しかけ、またある者にはその手を握り、慈愛に満ちた口調で慰めていた。
次々とベッドの間を行き来し、声を掛けていく。
クリミアの天使とも、ランプの貴婦人とも称された、ナイチンゲールその人の姿があった。
松陰は何も出来ず、そんな彼女の姿をただ眺めていた。
『気になさる事はありませんわ。私だって初めは怖くて何も出来ませんでしたから。』
小屋を後にし、落ち込む松陰を彼女は励ました。
『面目ありません。散々偉そうな事を言っておきながら、肝心な所で何も出来ずに……。誠に恥ずかしい限りです……』
体を縮こまらせた。
『男の方はそういう所がありますわね。血が駄目だったり、痛いのが苦手だったり。その点、女は血にも痛みにも慣れた部分があります。看護婦が必要な訳ですわね。』
『これからの看護婦は、医者に代わってある程度の医療行為も行う必要が出てきますから、専門性を持った看護婦を育てる教育機関が必要ですね。』
『それは私も強く思っていた事ですわ!』
近代看護教育の母へ近代看護教育の必要性を語った。
ひとしきりそれについて意見を交わす。
話の終わりに先程の小屋で感じた事を伝える。
『痛みに苦んだ果てに訪れる死を、モルヒネを使う事で緩和出来ますが、貴女はそれを選択しますか?』
『え?』
それは現代の終末期医療でも使われている方法である。
『痛みを忘れ、穏やな気分のまま死を迎える。モルヒネにはその様な使い方がありますが、治療を放棄する行為だと思いますか?』
『もっと詳しくお願いしますわ!』
モルヒネの使用によって痛みの緩和が出来ると説明していった。
併せて、社会にモルヒネ中毒者を出してしまう危険性なども付け加える。
是非の判断は彼女に任せた。
修道院の病院は想像ですので、実際とは異なると思われます。




