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杉家の畑

 松陰の今後を考える集まりは、松陰の要望もあって杉家で行われる運びとなった。

 長州藩の実務者トップたる清風を自宅に招く事を失礼だと百合之助は反対したが、見せたい物があるという松陰の言葉に、清風自身が身を乗り出して同意した為、実現した。

 城での御勤めがある清風、文之進であったが、日程を調整し、集った。

 当時の藩政は、現代的な感覚でいえば随分と緩い勤務体系であり、調整は楽である。

 明倫館での講義は週に2度あるくらいなので亦介も問題なかった。

 それもあっての杉家詣でである。


 まずもって玉木邸に清風、亦介が集まり、三人で連れ立って山を登った先の杉家に向かう。

 玉木文之進旧宅、吉田松陰誕生地を検索していただければわかると思うが、その距離は近い。

 三人は程なく杉家に到着した。


 まずもって異変に気づいたのは文之進であった。

 前回訪れた時から時間が経っていたのだが、何やら人が増えた様なのだ。

 民家が疎らに見えるだけの山の一画であったはずなのに、今は随分と人が行き来する山道に変わっていた。

 すれ違う者は皆、何やら興奮した面持ちで、足早に山道を下っている。

 身なりは百姓である様だが、百姓がこの山に来る理由が思いつかない文之進であった。


 「随分と人が多いのう。」


 清風もそう思った様だ。

 

 「ここいらに、人は多く住んではおらぬはずですが……」

 「ふむふむ、おかしな事もあるもんじゃのう。」

 「お二人とも鈍いでござるな。」

 「なぬ? 亦介、どういう事じゃ?」

 「まさか?!」

 「そう、そのまさか、松陰殿の仕業でござろう。」


 亦介は一人合点した様に頷いている。

 しかし、二人も納得した。

 その可能性が大であろうと。


 案の定、到着した杉家には人が溢れていた。

 身なりは、途中ですれ違った者と同じ、皆百姓の格好であり、中には穢多の者も混じっていた。


 彼らの中心には松陰と百合之助がおり、皆して百合之助の話を聞いているらしい。

 そして、三人の到着に気づいた松陰が百合之助に何か囁いたと思ったら、それが終わりの合図であったかの様に、集まっていた者達は皆思い思いに帰り支度をし、山道を下りて行った。

 この者達も途中ですれ違った者と同様、皆一様に興奮し、頬を上気させていた。

 

 訳も分からず立ち竦む三人である。

 そんな三人に百合之助は声をかけた。


 「本日は愚息の為にわざわざご足労いただきまして、誠にありがとうございます。」

 「私の我侭を聞いて下さり、ありがとうございます。」


 それで金縛りが解けた三人であったが、疑問は解けない。


 「あの者達は一体何であったのじゃ?」


 代表する形で清風が問うた。


 「あれらは私の畑に学びに来た百姓達にございます。」

 

 百合之助の思わぬ答えに吃驚する三人。


 「どうして百姓が武士のお主の下に学びに来るのじゃ?」


 清風の疑問はもっともであろう。

 農が生業である彼等が、武士のやっている畑に学びに来る理由があるとは思えない。

 まあ、普通ならば、であるが。

 

 「松陰殿の知恵、という訳でござるか……」


 亦介が呟く。

 そしてそれに黙って頷く百合之助である。

 やはりそうであったか……。

 清風も文之進も頷くしかない。


 「立ち話も何ですから、中へどうぞ。さして御もてなしも出来ませぬが、粗茶の一杯でもお飲み下され。」

 「いや、すまぬが、先にお主の畑とやらを見せてはもらえぬか?」


 百姓が学びに来るという畑である。

 気になったものはその時に片付けねば、気が散って仕方無いのだ。

 松陰の今後という大事を語る時に、周りが気になっていては元も子もない。

 後顧の憂いを断つ、というヤツである。

 百合之助も納得したのか、三人を案内した。

 場所は屋敷のすぐ裏手、斜面を登った場所にある。


 「皆様方にお見せする様な立派な物ではございませぬが、こちらが私が耕しております畑です。」


 百合之助の畑はさして広くもない面積しかなかった。

 場所も広さも、文之進がかつて共に耕した畑と何も変わりは無い。

 しかし、その在り様は、文之進の良く知った以前の畑とは大いに違っていた。

 そして清風、亦介にとっても、彼らの知る畑という物とは一線を画す代物であった。


 まず、その空気が違ったのである。

 まるで掃き清められた神社の境内にいる様な、身も心も清められる、そんな感覚を覚える佇まいであった。

 芳ばしい、甘酸っぱい香りが辺りに漂い、まるで良く出来た甘酒を前にしている様な、そんな気配に満たされていた。

 そこにいるだけで心が満たされてゆく様な、そんな空気を纏っていた。


 作物も目を見張る出来であった。

 まず目を引いたのが果菜類の実の多さであろう。

 ナスにしろインゲンにしろ、その実がたわわに実っていたのだ。

 一本の木にここまで実がつくのかと思う程に多いのだ。

 実が多いだけではない。

 その実も大きく、充実し、見るからに美味しそうな出来であった。

 根菜類、葉菜類の育ちもすこぶる上等であった。

 瑞々しい色をした葉っぱがこんもりと茂り、見ただけで市中に出回っている物との差異がわかる育ちである。

 

 畑の周りの果物も同様であった。

 柿、栗、夏蜜柑など、熟すには早い時期とはいえ、その育ちの良さは一目瞭然であった。

 一つの木にここまで実がついて大丈夫なのか? と不安を覚える程である。

 ここまで実がついていれば、一本あれば一家族には十分すぎるだろう。


 成程、百姓が教えを請いにやって来るはずである。

 己の屋敷内の小さな畑とはいえ、作物の事を多少は知っている清風と亦介でさえ驚いているのであるから、この畑を耕していた文之進にとっては言わずもがなであろう。

 

 「これがあの畑ですか……」


 文之進の呟きも当然であろうか。

 支給される扶持米だけでは生活できず、仕方なく畑を耕していた。

 耕す者達に農業の経験もないのであるから、採れる野菜も貧弱で、一汁一菜が精々であったのだ。

 それなのに、この畑ときたらどうだろう?


 大家族であった杉家でも、毎日食べきれない程の収穫物ではなかろうか?

 一汁一菜などとケチな事を言わず、二菜でも三菜でも作れる種類と量だろう。

 独立し、杉家を出てから1年経つか経たないかであるのに、余りの変わりように言葉を失くす文之進であった。


 それは清風と亦介にとってもそうである。

 自らの屋敷でも、市中でも畑を見る機会は多い。

 中には持ち主が大層手を掛け、育ちの良い野菜を見る事もある。

 しかし、この百合之助の畑は次元が違うのだ。

 正直、不気味さを感じる程である。

 

 独立するまでは一緒に耕していたはずの文之進が驚いているのであるから、以前はこうではなかったのだろう。

 多分、二人が知っている普通の畑であったはずだ。

 それが僅かな間にこうなったのだ。

 一体どうして?


 答えは決まっている。


 「松陰殿、一体何をしたのじゃ? そして、これが松陰殿の見せたかったものかのう?」


 清風の問いに、


 「そうでございますね。この畑をお見せしたかった事は確かです。何をやったのかは、説明が難しいので屋敷の方でしたいと思います。」 


 松陰が答える。

 しかし、それは見せたい物がこれだけではないと言っている風にしか聞こえない。

 それが分かっている三人は、屋敷に何が待っているのやら、と若干恐れにも似た思いを抱いたのだった。

畑の描写は、あくまで当時の人の感想として、です。

肥料の普及した現代で考えれば、そんなモノかな、程度です。


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