信用創造
『銀行の役割としての信用の創造ですが、これは一言で言えば幻想です。』
『幻想?』
幻想という言葉にライオネルはその眉をピクリと動かす。
『ます信用の創造とは、市場を巡る資金量を増やすカラクリです。』
『ほう?』
おやという顔をした。
松陰が続ける。
『紙幣は、銀行の持つ金貨の量に見合った量しか発行出来ませんよね?』
『それが兌換紙幣だからな。』
『仮に銀行の持っている金貨が100万ポンド分だとし、私が100万ポンドの紙幣を持っているとします。この時、他の人が持つ紙幣はいくらでしょうか?』
『それはゼロだ。』
『兌換紙幣ですからそうなりますよね。しかし、それでは経済が回りません。』
『それはそうだ。』
ライオネルは頷く。
『私が手元に紙幣を貯め込んでいたら、他の人は金貨が無ければその日のパンさえ買えなくなります。銀行は理由もなく金庫の金貨を放出する事はしませんし、今更物々交換をする訳にもいきません。』
『それで?』
先を促した。
『私は盗まれるのを恐れて紙幣を銀行へ預けます。この段階でも市場に存在する紙幣の量は100万ポンドだけです。』
『当たり前だ。』
『そうですね。私は銀行から、毎月ちょっとずつ預金を引き出しながら生活します。私がパンを買う事によって市場に紙幣が供給されますが、そんな程度では微々たる物です。』
『確かにな。』
消費が行われなければお金は循環しないが、この場合では規模が小さすぎる。
『ここで銀行は気づきました。私の口座に用意しておくべき紙幣の量は、私が引き出す量程度で構わないと。』
『成る程。』
『つまり、残りを他の人に貸しても何も困らない。いや、そうしなければ経済が回らないと。』
『ふむ。』
ライオネルはその顎髭を触りながら言った。
『銀行はエドワードさんにお金を貸しつけました。この時紙幣を用意する必要はありません。エドワードさんの口座に、融資した金額を記載すれば良いのです。』
『ほう?』
感心した様に呟く。
『エドワードさんが生活費として引き出す紙幣は、私が預けた預金の紙幣を用いれば良い。生活費を借金で賄うのは借り手としては禁じ手ですが、エドワードさんは事業に投資するのが主たる目的なので良しとしましょう。』
『それはそうだ。』
納得する。
『私の預金100万ポンドを、私が引き出す分を10万ポンドだとし、残りを全てエドワードさんに貸したとします。』
『ふむ。』
『この時市場に存在する事になるお金の量は、エドワードさんの借金90万ポンドがありますから、私の預金分である100万ポンドと併せ、190万ポンドになります。口座から口座に数字を移すだけで、市場にあるお金が増えるのです。』
『成る程。』
『ここで重要なのは、私の預金がほとんど死蔵されていた事実です。お金が使われないと市場が死にます。銀行がエドワードさんに融資した事によって、死蔵されていたお金が活き、市場が息を吹き返すのです。』
『確かにそうだ。』
腕を組み、ふむふむとばかりに頷いている。
『銀行がエドワードさんに貸した90万ポンドは、一部をエドワードさんの生活費に使うとし、残りは事業の資金として船の購入に充てます。それは船会社の口座に振り込めば良いので、これまた現金は必要ありません。』
『うむ。』
『船会社は船を作る為に材料費を払いますが、それも口座から他の会社の口座に移せば良いだけです。』
『成る程。』
『併せて船会社はエドワードさんからの注文があったので、生産設備へ投資をしようとします。エドワードさんから支払われたお金が口座に残っているので、それを移せば良い。足りない場合は銀行から借りれば良い。』
『そうだな。』
反論は無いらしい。
『こうして私の死蔵されていたお金が市場を巡り、多くの人が生活費や商売の資金を得る事が出来る様になりました。』
『それこそ経済であるな。』
『銀行は多くの人から利子と手数料を得られ、商売を続けられます。』
『うむ。』
ライオネルは大いに頷いた。
『信用の創造とは、預金を元に銀行が通貨を発行する事と言えます。この場合の通貨は、銀行の通帳に記載された融資額の数字です。』
『何?』
松陰の顔を見つめる。
『通貨とは物の購入にもサービスの消費にも使う事が出来る、価値の交換媒体です。それその物の価値は本来不要です。それは金貨と交換出来る前提で、ただの紙が今も市場で使われているのを見れば明らかです。紙幣が金貨と交換出来ると信用されているから市場を流通していますが、その信用が失われれば、たちまちにしてゴミと化すでしょう。』
『成る程。』
信用故に成り立っている制度ではある。
『従って、通帳に記載されている数字であっても、通貨の役割を果たし得ます。エドワードさんが借りたお金は、引き出さなければただの数字に過ぎませんが、その数字で船を買えたからです。手元に現金がなくとも、口座間を数字が移動する事で、様々な物やサービスの交換が可能となるのです。これは通貨と言って差し支えないでしょう。信用の創造とは、銀行による通貨の発行と言い換える事が出来ます。』
『ふむ。』
それでと言う風に眺めた。
『どうして信用の創造が必要なのでしょうか? それは人口が増え、経済規模が増していけば、取引に必要な通貨の量も大きくなっていくからです。しかし金の量は限られていますので、経済規模が金貨の量に制限されてしまいます。これは大変に都合が悪い。』
『それはその通りだな。』
『ですので、それを補うのが信用の創造です。もしも金貨の量が限界に達し、人々の日々の生活で使う分しか無いとなれば、新たな産業の勃興は難しい。投資に回す現金その物が足りないという事ですから。』
『成る程。』
普通、投資は余剰金で為される。
社会を巡る現金が足りなければ、貯め込む暇もなかろう。
『現金だけでは圧倒的に足りないのです。信用を創造し、投資に回せる資金を生み出さなければ、社会の発展は緩やかにしか望めないでしょう。アイデアや冒険心の有る人が新たな事業を始めようと思っても、その資金を集める事が出来なければ実現は困難になります。従って、技術の進歩や新たな商売の誕生を望むのなら、信用の創造が必要となります。』
『素晴らしい!』
ライオネルは拍手をしつつ叫んだ。
『銀行も無いという国から来たのに、よくぞそこまで銀行の役割を勉強したモノだ! まさか信用の創造までも理解しているとは思わなかったぞ! 我が国の頑迷な議員共とは比較にならん!』
議会の頑固な面々を思い出す。
預金の何倍もの融資を行う銀行の在り方に、疑問を呈する者達であった。
『今の話を議会で演説して貰いたいくらいだ! 外国人である君が話せば、信用の創造という銀行の大切な役割を、頑なに認めたがらないあの者らも、その考えを変えるかもしれん!』
それは嘆きにも似た心情である。
そんなライオネルから高い評価をもらった松陰であったが、言いたかったのはそんな事ではない。
『どなたかは存じ上げませんが、信用の創造に対する懸念は正しいと思います。』
『何だと?!』
先程までの力説ぶりが嘘の様に、涼しい顔で言ってのけた。
ライオネルが途端に不機嫌そうになるが気にしない。
『私は初めに言いました。信用の創造とは幻想であると。』
『む? 確かにそうだったな……』
それを思い出してトーンダウンする。
『そもそもお金自体が幻想です。幻想という言い方が悪ければ、思い込みとでも申しましょうか。』
『思い込みだと?』
『そうです。漁師の話で言いました。魚を綺麗な石と交換し、魚の価値を保存したと。』
『それが何だ?』
イライラしているのか先を急かす。
『魚の価値とは腹を満たす事が出来る事です。』
『確かにな。』
『では、綺麗な石の価値とは何でしょうか?』
『希少な事、美しい事くらいか……』
希少だからお金の代わりになり得、美しいから装飾品にもなる。
『そんな石で、本当に魚の価値を保存出来るのでしょうか?』
『それが思い込みだと言いたいのか?』
それには直接答えない。
『漁師は魚が獲れずに首飾りを売りに行きましたが、魚の価値が保存されているのなら、石を食べれば良いのではないですか?』
『そんな事が出来る筈がない!』
『当たり前ですね。それなのに、どうして魚の価値が保存されるのでしょう? 石を売って、どうして野菜や小麦を買えるのでしょう?』
『出来るという思い込みという訳か。』
『そういう事です。皆が出来ると思っているから、何の疑いもなくお金を使って物の売買を行います。』
説明を続ける。
『ですが、一旦その当たり前を疑いだせばどうなるでしょう? 金貨に混ぜ物がされている事が発覚し、お店が額面通りには引き取ってくれなくなったら?』
『その価値は暴落するな。』
松陰の問いかけにライオネルはスラスラと答えた。
『では、贋金が発覚したけれども、民から信頼されている統治者が、含有されている金の量に応じて必ず買い取ると宣言すればどうなるでしょう?』
『む? その場合であれば、混乱は早目に収束するだろう……』
今度は少し考え、答えを出した。
『では、有望な金鉱が見つかり、恐ろしい程に大量の金が採れたら?』
『暴落はしないだろうが、値下がりは確実だろう。』
『結局、金といえど、価値は定まっていないのではないですか? 確かに金は希少で美しいですが、もしもその希少性が失われたら、そこらの石ころの様に誰にも見向きもされないのでは?』
『そんな事態は想像し難いが、仮にそうなればそうなるだろうな。』
『紙幣であれば尚更ですよね。元は唯の紙なのに、金貨と交換してもらえるから価値があると人々に思われているのであって、もしも金貨以上の額を発行しているなんて噂された日には……』
『止めろ! それは禁句だぞ!』
ライオネルは叫んだ。
『とまあ、価値があると皆が思っているからそうなだけで、一旦疑われたらたちまち暴落する可能性があります。』
『全く! たとえ話にしても口にして良い事と悪い事があるのだぞ!』
怒っているというよりは、焦ったが正しい様だ。
気持ちを落ち着け、結論付ける。
『兎も角、思い込みだと言いたい訳だな。』
『そういう事です。』
松陰は続ける。
『信用の創造も同じです。銀行は、私が預金を全額は引き出さないと決めつけてエドワードさんに貸し出しましたが、もしも私に急用が出来、急遽全額引き出さなくてはならなくなったらどうするのでしょう?』
『それも銀行家としては考えたくない事態だが、引き出しを延期して欲しいと交渉して時間を稼ぎ、エドワードが引き出した現金を回収せねばならん。しかし、他にも引き出した者はいるし、仕方が無いが、一時的にしろ預金を封鎖せねば対処出来ないだろう。しかしそれは取り付け騒ぎに発展するだろうな……。この場合も、下手をしたら銀行が潰れかねんぞ……』
『銀行が発行した紙幣は100万ポンド分だけですから、お金が市場を巡れば当然そうなりますか。』
『最悪の事態となればな……』
ライオネルはしかめ面で言った。
そんな彼に言う。
『信用の創造は、経済が活発な状況では良い方向に作用しますが、社会が停滞期にでも入ってしまえば、企業の連鎖倒産を引き起こす危険性も持っているのではありませんか?』
『恐慌の事を言いたいのか?』
『まあ、そう言う事です。』
当時既に恐慌は何度も起きている。
『景気が良くなると思い、生産設備に投資をするのは良いのですが、人々の購買力も意欲も無限ではありません。そのうち売り上げの低迷に悩み始め、投資した金額を回収出来なくなり、返済まで滞る様になって遂には倒産です。一つの企業が倒産したら、その企業と取引のあった会社が潰れ、連鎖していく。行きつく先は社会全体の不安定化です。信用の創造の負の面ですね。』
『確かにそれは言える。』
社会保障の整っていない当時、不景気となれば町に失業者が溢れ、治安も大幅に悪化する。
金融財政政策も貧弱で、景況のコントロールは困難を極めた。
『政治家に経済への知識は必須です。誤った経済政策は不況を助長しかねません。』
『ほう?』
『経済は様々な要因が複雑に絡まっており、何が原因でそうなったのかは、容易には判断がつきません。それに実験室で行う科学実験とは違い、現実社会は常に変化しておりますから、前の状況では成功した政策が、同じ状況に見えても今度は間違う可能性もあります。しかし、誤った政策がもたらす結果は悲惨なモノとなり得ますので、国を治めていく者の責任は重大です。』
そう締めくくった。
『見事だ!』
ライオネルは椅子から立ち上がり、拍手しつつ賛辞を述べる。
『銀行の役割のみならず、貨幣の本質、信用創造の脆さ、経済政策の重要性までも理解しているとは思わなかった!』
『はぁ……』
何がお気に召したのか、上機嫌である。
『初めは日本国での銀行開設の可能性について聞きたかっただけであったが、思わぬ収穫だった!』
一人得心している。
ひとしきり黙り込んだ後、松陰に提案した。
『君は日本で銀行を作るのだろう? その前にウチの会社で働かないか? 良い勉強になる筈だ。』
N・M・ロスチャイルド&サンズはイギリスの投資銀行であり、ライオネルの父ネイサン・メイアー・ロスチャイルドによって設立された。
『父上?!』
『それは凄い事だ!』
沈黙を保っていたナサニエルとエドワードが驚きの声を上げる。
ナサニエルにとって、父ライオネルの冒険心の強さは知っていたが、まさかロスチャイルド一族が経営している名門銀行に、知り合ったばかりの外国人を招き入れようなど思いもしなかった。
確かに目の前の日本人の話す内容に思わぬ事もなかったが、それとこれとは話が別だろうと思う。
少なくとも銀行の無い国に住んでいるのであるから、銀行の業務に精通している筈はあるまい。
しかし、口出し無用でこの場にいるので余計な言葉は挟まない。
エドワードの驚きは言うまでもあるまい。
そんな外野の声が耳に入らないのか、向き合う二人は会話を続けた。
『そうなるとボスは貴方ですか?』
『当然だが?』
何を当たり前の事を言っているのだという顔をする。
そんなライオネルに言った。
『私を買って下さる事は光栄ですが、残念ながらユダヤ教徒とは付き合いを持ちたくないのです。』
『何だと?!』
偏見や差別、迫害に遭ってきたユダヤ人に、面と向かって付き合いたくないなどと口にする者は、当時のヨーロッパにも少ないだろう。
怒り心頭のライオネルに向かい言い放つ。
『第一、豚骨ラーメンを食べられない様な人の下では働きたくありません!』
『と、とんこつらーめん?』
ライオネルは怒りを忘れて呆然とした。
長くなりそうなので一旦区切ります。
信用の創造の説明はガバガバですが、ご容赦下さい。




