日本丸の到着
イギリスに滞在して一か月が経とうとしていた頃、シーボルトらを乗せた日本丸がようやく到着した。
船はペニシリンや蚊取り線香、この時の為に開発した工芸品などなどを満載し、ロンドンの街へとやって来た。
待ちに待った日本丸の到着に、使節団だけでなくロンドンの市民も喜んだ。
大事な商品が入れられた、頑丈な木箱がいくつも河岸に並んでいく。
中にはそのまま送られてきた物もあり、見物に集まったロンドンっ子から歓声が上がった。
使節団は武士なので監督するだけである。
その業務に当たる、日に焼けた屈強な男達が流れ落ちる汗に構わず、黙々と荷を降ろしていった。
作業が続き、ほぼ降ろし終えた所で使節団は見学者を喜ばせる作戦を実行する。
船の中で甲冑姿となり、続々と船を降りていく。
突然現れた、見た事の無い異形の者達の姿に観客は呆気に取られたが、それが異国の戦士達だと分かると、それまでの静寂が嘘の様に一気に沸いた。
中世の騎士に似た鎧姿であった。
しかし全身を覆う無骨なプレートメイルとは違い、色鮮やかな防具である。
鎧姿の戦士達は腰に差した刀剣を抜き、何やら叫び始めた。
EIEIOと口にしている様だ。
ロンドン市民は大興奮し、大きな拍手で迎えた。
「イネさん!」
「はい!」
シーボルトや長英が泊まるホテルの一室で、イネは松陰からその名を呼ばれた。
自分の名を呼ばれた事が嬉しくて、喜びを隠そうにも上手く隠せそうにない。
ワシントンで具合を悪くした松陰の身を深く心配し、自ら看病をしたかったのだが、使節団の健康を守る彼女にそんな事はさせられないと固辞され、叶わなかった。
懸命な看病をするスズを羨む気持ちさえあったが、医者としての本分を守らねばと心に言い聞かせ、その職務を全うしてきた。
その努力は成功していたかに思えたが、やはり難しかったらしい。
こんな事ではいけないと思うが、ままならないのが心というモノの様だ。
しかし、イギリスに到着し、父シーボルトも着いた今、何かが変わりそうな気がしている。
それには勿論、梅毒という恐ろしい病に効く特効薬、ペニシリンの発表が関係していよう。
師である高野長英が精力を傾けて研究を重ねてきた成果を、遂にお披露目する機会が巡って来たのだ。
オランダの医学書を見て学ぶばかりであった日本の医術が、西洋に新しい治療法を発表出来る。
それは西洋の医術に対する恩返しであると共に大変な名誉であるし、梅毒に苦しむ世界中の患者を救う事に繋がるだろう。
自分もその研究の一翼を担っていたと思うと、胸を張って誇れる気持ちになる。
ここまで来る事が出来たのは、梅毒に罹った遊女達の、文字通りに体を張った献身のお陰であった。
得体の知れない薬の効果を確かめるべく、その体を差し出して協力してくれたのだ。
安全を考慮し、事前に何度も動物を使った実験を行ってはいたが、それでも尚思わぬ失敗が起こって患者を死なせてしまった事もある。
それにも関わらず、彼女らが治験を拒む事はなかった。
寧ろ、落ち込む自分達を励まし、慰め、実験の継続を訴えた。
全ては梅毒に苦しむ者がこれ以上増えない様に願う、彼女らの優しさであろう。
彼女らの尊い意思に報いる為にも、是非とも今回の発表を無事に終え、ペニシリンの効果を広く世界に発信して貰いたい所だ。
日本通として有名らしい父であるので、心配はしていないが。
ハワイでもアメリカでも、梅毒に苦しむ者は多かった。
患者が余りに多すぎて、持ってきていたペニシリンがハワイで尽きてしまった程である。
早急に各国でアオカビを培養し、それぞれの国でペニシリンの製造を始めて欲しいと願う。
その為の専門家である熊吉も来ているので、問題は無いだろう。
そして、それらの陰には松陰がいる。
表立っては師である長英の手柄となっているが、アオカビにその様な効果がある事を示唆したのが、松陰だという事を長英から聞いているし、農民の倅である熊吉が幕府公認の微生物研究所の現場監督となっているのも、元はと言えば松陰の差し金と聞く。
熊吉と松陰は身分は違えど近所に住む幼馴染で、子供の時分より松陰の家で、微生物を使った発酵物作りを手伝ってきたのが熊吉らしい。
酒や味噌、醤油を作るのではなく、微生物の持つ力そのものに着目した研究をしていたらしく、その頃から既にペニシリンの事を口走っていた様だ。
その時には何を言っているのか理解出来なかったが、今になって思うと、全てが計画されていたのかもしれないと、アオカビの培養小屋の前で語ってくれた。
事実であれば驚くべき事だと思う。
イネにとってみれば松陰は、甘い物や美味しい物に目が無い、変わったお侍さんという認識であった。
確かに変わった侍で、父親が異人という事で後ろ指を指されていた自分に、日本で初めての、西洋医学を修めた女医になれと言ってくれたり、江戸に出て長英の下で学ぶ算段をつけてくれたりする人であった。
感謝はしているし、その並外れた行動力に感嘆もしていたし、熊吉に昔の話を聞いて信じられない思いを抱いてもいた。
憧れや尊敬の念以上の感情は無い筈だったのに、ソルトレイクシティでの一件である。
松陰への慕情が湧いてしまった。
しかし、国を代表して行っている旅の最中であるし、浮かれている場合では無い事を理解していた。
それに、想いを抑える冷静さも目的を貫徹する意志の強さもある。
そんな持前の意志の強さで、平素と変わらぬ態度を装い続けていたが、それにも限界がある様だ。
松陰に名を呼ばれただけで心が高揚するのを感じ、その事を実感した。
そんなイネに向かい、松陰は言う。
「イネさんは使節団から外れ、シーボルト先生と長英先生と共に、ペニシリンの発表会に参加して下さい!」
「え?」
思わずその顔を見つめる。
それを無視するかの様に松陰は言葉を重ねた。
「治療の経過を知っている医師は一人でも多い方が良いですし、西洋の医師達との交流も図って頂きたいのです。本では得る事が出来ない知識や、最新の技術に関する知見を出来るだけ多く得て、我が国の医療を先に進めて下さい!」
「……はい……」
イネは一瞬言葉に詰まったが、どうにか答える事が出来た。
その為にここへ来たのだから、今更嫌だと言える筈も無い。
しかし高揚した気持ちから一転、どん底に突き落とされた気分であった。
暗い顔で俯くイネに構わず、今度は蔵六に告げる。
「蔵六さんも発表会に合流して下さい。通訳兼情報収集です!」
「分かりました。」
二人は準備を整える為に己の部屋へと帰っていった。
今度は部屋に残ったままのシーボルトに向き合う。
『イネさんと蔵六さんの仲を取り持って下さいませんか?』
『イネは、君に恋心を抱いているのではないかね? 君ならば、イネを任せるのに安心なのだが……』
父親として娘の幸せを願っている。
娘の松陰を見つめる視線に、恋心を見て取ったシーボルトであった。
身分制度が色濃く残る日本にあって、恋愛による結婚は難しい事を理解していたが、相手が松陰であれば大丈夫だと思う。
前妻との事も聞き及んでいたが、跡継ぎの必要とされる武士ならば、離縁も仕方のない事に思えた。
『光栄ですが、そういう訳にはいかないのです。』
『そうか……』
言い切る松陰の態度に可能性は無いと感じ、それ以上は言うのを止めた。
となると蔵六であるが、人格や能力は申し分ないとしても、その前に厄介な問題があると理解している。
『蔵六君は女心が分からんよ?』
『ですからシーボルト先生にお願いしているのです!』
『……納得したよ。』
蔵六の問題点は人情の機微に疎すぎる事である。
発言をそのままに受け取り、その裏に隠された感情を察する事が出来ない。
正直と言えば正直なのだが、馬鹿がつく程のモノであるので、恋の駆け引きなどは無理であろう。
『最悪、蔵六さんにはイネさんを娶るべしとの命を出しますので、その前にイネさんの説得をお願いします。』
『分かったよ。』
娘の年齢を考えると、そろそろ身を固めるべきだろうと思うシーボルトであった。
それから数日後、シーボルトと長英によるペニシリンの発表会が行われ、世界の医療界に衝撃が走る。
それと共にマラリアは蚊が伝染する病気として、蚊取り線香を使用する効果が紹介された。
『ショーイン!』
『エドワードさん? そんなに慌ててどうしたのですか?』
ペニシリンに衝撃を受けたロンドンの喧噪から離れ、比較的静かなホテルであったが、再びエドワードが駆け足でやって来た。
ロビーに降りてきた松陰を見つけるなり、抱きつかんばかりに駆け寄る。
『大変なんだよ! 実は君と面会したいという人がいるのだが、今すぐ会ってくれんかね?』
『時間を作るのは構いませんが、大変だとはどういう事ですか?』
『それはもう、大変な方なのだ!』
『はぁ。一体どこのどなたですか?』
『いや、ここではちょっと……』
周りをキョロキョロと見まわし、言い淀む。
公共の場で名前を出すのは躊躇すると言いたいのだろうか。
『馬車で話すから、ひとまず来てくれ!』
そう言うなり松陰の手を掴んで歩き出す。
松陰は慌ててエドワードについていき、留守にする事を近くにいた仲間に言った。
二人は、ホテルの前に停めていたエドワードの馬車に乗り込む。
馬車は直ぐに動き出し、エドワードが口を開いた。
『君は知らないだろうが、ロスチャイルド家の当主が君を御指名なのだ!』
『ロスチャイルド?! まさか、あの?!』
『知っているのかね?!』
エドワードは馬車の天井に頭をぶつけんばかりに驚いた。
道の凸凹具合では馬車が跳ね、酷くぶつけていただろう。
松陰は自分が知っている事を述べていく。
『ロスチャイルド家は、元々はドイツに住んでいたユダヤ人で、ロートシルトという名前ですね。それを英語読みするとロスチャイルドになる、と。ユダヤ人は昔から金貸しをやっていたみたいですが、金を扱う下賤な職業だとして、随分と迫害を受けたと聞きます。時代が進み、投資が行われる様になると徐々に力を付け、ついには政治をも動かす程の権力を得るまでになった、とか。』
『いや、何と言うか、私が知らない事まで知っているのだな……。ロートシルト? 初めて聞いたよ……』
エドワードが顔を引きつらせつつ口にした。
と、道を進んでいた馬車が突然止まる。
不審に思い、御者に尋ねた。
『一体どうしたのだ?』
『貧民のガキが!』
『旦那様! お恵みを!』
馬車の前には貧しい身なりに身を包んだ子供達が数人、顔を出したエドワードに向かって手を伸ばす。
当時のロンドンは貧富の格差が広がり、貧民街が広がっていた。
産業革命はそれまでの産業に比べて格段に多くの労働者を必要とし、近郊の農村から労働力をかき集めていたが、最低賃金や労働時間といった法規が定められていた訳ではないので、資本家からの搾取の対象となっていた。
働けるうちは重宝されたが、健康でも害しようものなら即座に放り出され、たちまち生活の糧を失う事となる。
そうなれば子供さえも立派な労働力となり、炭鉱の狭い坑道に押し込まれ、朝から晩まで重労働に従事させられていた。
当時の子供は非常に短命であったという。
『これをやるからどいてくれ!』
『ありがとうございます、旦那様!』
エドワードにお金を恵まれ、子供達はそそくさと散っていった。
御者に命じてすぐに出発させる。
しかし、途端にガクンとした衝撃が車内を突き抜け、再び動きが止まった。
『今度は何だ!』
『旦那様! 馬車の軸が折れてしまいました!』
『何ぃ?!』
降りて馬車の周りを確認した御者が、慌て顔で報告する。
エドワードは顔を顰め、どうするべきか思案した。
答えが出たのか松陰に告げる。
『ショーイン、すまない! 私はこれから大急ぎで、近くに住む友人の屋敷から馬車を借りてくるから、ここでちょっと待っていてくれないか?』
『私も馬には乗れますよ?』
『いや、日本人を連れて馬に乗れば民衆が集まって大変そうだ。』
『な、成る程!」
尤もなので、大人しくその指示に従う。
エドワードは辺りをキョロキョロと見回し、目的の物を見つけた。
『あの喫茶店で待っていてくれないか?』
『いいですよ。』
通りに面し、赤い煉瓦で作られた喫茶店を指さす。
連れだってお店へと入り、中にいた店主に向かい、切り出す。
『マスター、費用は補償するので、今日はこれで店を閉めてくれないか?』
『と申しますと?』
理由を問う店主に隣の松陰を紹介する。
『実はこの方は、あの日本から来てくれた友人なのだが、私はこれから壊れた馬車の代わりに、新しい馬車を調達してこなければならないのだ。友人一人をそこらに置いておけば市民が殺到するだろうし、一緒に馬で移動しても同じだろう。それで、要らぬ騒ぎを防ぐ為にも、この店内で匿ってもらいたいのだが……』
エドワードの説明を聞き終え、店主は松陰に視線を向けた。
松陰は軽く会釈する。
その動作も含め、頭の天辺からつま先まで、値踏みする様に見られた気がした。
そして店主が返答する。
『ようございますよ。』
『ありがたい!』
『ですが既に先客がいらっしゃいますので、そのお客様を追い出す事は致しかねますが、それでも宜しいですか?』
『先客?』
店主に言われ、エドワードは店内を見た。
窓際の席に一人、背中を丸めた高齢の男性客が、静かにお茶を飲んでいる。
エドワードらの会話が聞こえていない筈が無いが、素知らぬ顔でカップの茶を楽しんでいる。
『馴染みの客なのかね?』
『そうですね。時々いらっしゃいますよ。』
『仕方ないか……。しかし、これ以上は客が増えない様にお願いする。』
『承知致しました。』
『ではショーイン。すぐに戻るので、それまではここで大人しく待っていてくれ!』
問題は無かろうと判断し、エドワードは急ぎ店を後にした。
『日本からのお客様、ご注文は如何なさいますか?』
店主は店の扉をCLOSEし、松陰を通りからは見えにくいカウンター席に誘導し、注文を聞く。
『では、ミルクティーとスコーンを下さい。』
『承りました。』
手早く作業に入った。
松陰は店主の手つきを、物珍しさと懐かしさの入り混じった思いで見つめる。
茶を入れる為の道具は見知った物ではあったが、良く使い込まれ、時代を感じさせる物ばかりである。
ふと視線を感じ、後ろを振り返る。
窓際にいた老人と目が合った。
先程は無関心を装っていたが、見た事が無い珍妙な恰好の外国人の出現に、湧き上がる好奇心を隠せなかったらしい。
『お寛ぎの所をお騒がせして申し訳ありませんでした。暫くここで厄介になります。』
『あ、ああ。私は全く構わないよ!』
珍しい生き物くらいに思っていた相手が、流暢な英語を喋った事に驚いたのだろうか、老人は目を白黒させて応えた。
しかし、言葉が通じると分かれば会話したくなるのも人情であろう。
ロンドンに来ている日本人の事は、世情に疎くなりがちな年配者であっても、聞かない日は無いというくらいに話題となっていた。
それに、世界中に植民地を持つ大英帝国ではあっても、東洋人の事など噂話に聞くだけで、実際に見た事がある市民は少ない。
そんなネス湖のネッシーにも似た相手が目の前にいるとなれば、この老人でなくても交流を持ちたくなって当たり前かもしれない。
『ちょっといいかね?』
老人ネイサンが松陰に話しかけた。
イネさんとの仲はこれで決着とさせて頂きます。
村田蔵六はこれで改名し、大村益次郎へとレベルアップです。
元々は出発前に蔵六さんと結婚させるつもりでしたが、蔵六さんは本隊にいてもらわないといけなかったので、新婚さんを別々にするのもなぁと思い、この様な展開となってしまいました。
当時のイギリスの喫茶店はどの様な感じだったのでしょうね。
シャーロックホームズのドラマなどで見た記憶はありますが、朧気です・・・
保存上の問題から牛乳は使っていなかったかもしれませんが、作者の嗜好としてご容赦下さい。




