鉄は熱いうちに打て
ホワイトハウスの大ホールに居並ぶ人々の間には、ただならぬ緊張感が満ちていた。
息を呑む事を忘れる程の張りつめた空気の中心には、向かい合う二人の男の姿がある。
奇妙なお面を被り、光沢のある腹巻の様な物で胴を覆い、両手は手袋に似た物を付け、木製であろう剣を握っている。
まるで中世の騎士の決闘場面の様な、時代錯誤に思える光景であった。
向かい合う二人は、相手の一挙手一投足にその神経を注いでいる事が見て取れる。
片方の剣先が微かに動くと、それに反応する様に相手の剣も動くからである。
一見すると何の動きもなく、静かに向き合っている様に見えても、虚実織り交ぜた攻防が繰り広げられているのだと、観察力の有る者には知れた。
そして遂に、両者の間で保たれていた均衡が崩れた。
防具の下に着込んでいる服の色が藍色の側が、白い側に向かって剣を振り上げ、突撃したのだ。
観衆には聞き取れぬ叫び声を上げ、相手に襲い掛かる。
聞く者の体を硬直させる様な、そんな雄叫びであった。
空気を切り裂く音が聞こえてきそうな速度で、木製の剣を相手の頭に振り下ろす。
やられる。
観衆は思わずそう感じた。
それ程までに激しい打撃であった。
しかし、白い側は冷静である。
慌てず騒がず、相手の攻撃を受け止めるかの様に剣を振り上げたかと思うと、圧倒的な力強さで自分に向かって振り下ろされた太刀筋を、まるで赤子をあやすが如くに脇へと逸らせた。
必殺の気迫を込めて攻撃した方は堪らない。
思わず踏鞴を踏み、姿勢を崩す。
その隙を見逃す筈は無い。
「めぇぇぇん!」
『おぉぉぉ』
白い道着を着た者の、素早く振り上げられた上段からの一閃が決まり、観客から歓声が上がった。
それは異国の者の目にも鮮やかな一撃であった。
『何という素晴らしい試合だ!』
『俺には何が起こったのかさっぱりだが、凄い事だけは分かったぜ!』
観客は口々に感想を言い合った。
『これは竹製です。』
『おぉ、バンブーか!』
竹刀を披露する。
北米大陸で竹は珍しく、それを利用した竹刀に興味深そうだ。
『武道は礼に始まり礼に終わります。』
『成る程!』
興味津々な顔のアメリカ人に、桂小五郎が説明していく。
そこには試合を終え、防具を脱いで控える二人がいた。
促され、名乗る。
「鏡新明智流の桃井春蔵と申す。」
「直心影流の榊原鍵吉だ。」
流派名など英語には訳せないので、日本語のままであった。
小五郎が剣の流派について言葉を重ねる。
それを聞いた観衆から歓声が上がった。
『勝ったのはキョーシンメーチリューか!』
『ジキシンカゲリューも凄いぞ!』
観衆は二人の健闘を讃えた。
『他にも流派はありますよ。』
それだけではないぞとでも言う様に、脇に控える者に目配せした。
「北辰一刀流の千葉栄次郎。」
そして最後に自己紹介をする。
「神道無念流の桂小五郎です。」
割れんばかりの拍手が鳴り響く中、折り目正しく頭を下げた。
ホワイトハウスに集まっているのは、アメリカの上流階級に属する者達である。
経済の中心地はニューヨークであるが、ワシントンには政治家を中心として、この国の中枢を担う人材が揃っている。
この度の企画は、そんなエスタブリッシュメントである彼らに、日本の歴史や文化を紹介し、日本へ親しみを持って貰おうとする試みだ。
そもそもアメリカが日本に開国を迫ったのは、捕鯨船の燃料補給基地として、また、中国との貿易における中継地としての必要性から、日本の港が必要だった為である。
全てはアメリカの都合から要請された事であるが、一方では未知なる存在への興味もあろう。
イギリスやフランスといった、かつて激しい戦争を行った勢力が、アジアに触手を伸ばしていた時期である事も関係している。
大国ロシアが日本に向かうという報せが入り、ペリーが急いだ事実もある。
また、神の教えを広めるという、キリスト教徒が持つ情熱もあるかもしれない。
理由は多々あるだろうが、まさに今この瞬間が、アメリカ人の日本への関心度は最大である。
未知なる東洋の島国から来た蛮族。
数百年間国を閉ざしていた、文明から置いてけぼりにされた国。
未開で遅れた文明でありながら、見事な工芸品を作り出す不思議な民族。
当時のアメリカ人が持つ日本国のイメージは、その様な所であろうか。
そしてそんな国から、開国を宣言する為に外交使節団がやって来た。
通信手段が限られ、娯楽の少ない当時、彼らの好奇心が掻き立てられたのは想像に難くない。
日本を印象付けるのに、これ程適した機会は滅多に無いだろう。
まさに鉄は熱いうちに打て、だ。
事前に打ち合わされていた、日本通獲得計画。
前世の知識から、分かりやすく説明すれば容易く達成出来ると松陰は目論んでいたが、引き続き行われた、真剣を使った演武を見つめる彼らの顔を見る事が出来たなら、作戦の成功を実感したであろう。
剣道だけでなく、書道教室では講師の見事な筆さばきが披露されている。
当然の様に、英語圏の者には漢字は理解出来ない。
しかし、力強く書かれた文字に思う所がある様だ。
格言や故事成語などが書かれた書を貰い、頬を上気させてお礼を述べている。
英語の訳も付随していたので、短い文字の中に宿る深い意味に感じ入り、考え込む者もいた様だ。
東洋の知恵だとして感激していた。
書は、紙と筆があればいつでもどこでも用意する事が出来るので、最も安価な日本文化を紹介する品かもしれない。
現に、名を書いただけの名刺すらも、争う様に求めるアメリカ人の姿があった。
まるでコレクターの様に、全員分の名刺を集める為に走る者もいた。
日本側も表は日本語、裏はアルファベットで書いた手書きの名刺を多数用意し、求める者に配り続けた。
名刺が無くなれば、出された紙きれに書きあげる。
中にはハンカチや本を差し出す市民もおり、まるで宝物の様に大事にしまうのだった。
目の前でスラスラと書かれる意味の分からない文字に、西洋とは違う文化の存在を実感していた。
別室では、小松帯刀や江藤新平による、日本の歴史や文化についての特別講義が行われている。
シーボルトによって書かれた『日本』や、ペリーの遠征記によってある程度の知識を持つ者もいたが、日本人による講義ともなれば、否が応にも好奇心が高まって当然であろう。
立見が出る程に人が集まった中、帯刀らは日本の紹介に熱弁を振るった。
また、堀田正睦が今後の日米関係についての考えを述べた。
多くは松陰の思い描いた貿易構想である。
まずは人口から見えるアジア市場の大きさに言及し、その可能性を話した。
しかしそれには、政情の安定が不可欠であろうと続けていく。
貿易を安定して行うには、安全が確保され、公正な取引が欠かせない。
イギリスが清国に兵を進めた理由は、自由で公平な貿易を望んでの事ではあろうが、その結果はどうなったであろうか?
戦に勝ち、莫大な賠償金と領土を得たイギリスではあるが、戦費を回収し利益を上げる為にはそれだけでは足りなかった。
当然の様に、清国での商売にその解決策を求めた。
更なる市場の解放と、制限を受けない貿易である。
しかし、それは同時に、清国の民衆の富を奪う事に他ならない。
既に清国の民の間に外国への不満を生じさせており、いずれ過激な排斥運動へと発展するであろう。
イギリスは再び武力を行使せざるを得ず、その費用の回収に、更なる収奪を計るしかあるまい。
そして益々民衆の憎悪を掻き立てる。
悪循環でしかない。
やがて民衆の不満の矛先は清国政府に向かい、政情の不安定化を招くであろう。
政情が不安定になれば、安心して貿易を行う事も難しい。
これでは本末転倒である。
我が国の商人の間には、次の様な言葉がある。
売る方に良し、買う方に良し、社会に良しと。
三方に良い売り買いであって初めて、継続的な商売に繋がるという考え方だ。
買う方にのみ利益があるならば、商人は儲けられずに撤退するであろう。
売る方にのみ利益があれば、買う方は恨みを抱くであろう。
社会にとって害悪のある商売であれば、政府が規制せざるを得ない。
これは、国家間の貿易にも当てはまるのではないだろうか?
初め、清国が茶を売って利益を享受し、イギリスが不満を抱いた。
次にイギリスは、アヘンを売って巨利を得た。
アヘンは正当な国際商品であるとしても、清国にとっては禁制品である。
規制しようとするのは当然であろう。
しかし、自由な商売を求めるイギリスには認められず、武力で解決を試みた。
儲けの為に貿易を行っていた筈なのに、結果としてどちらも損害を大きくしている。
双方共に、どこで間違えたのであろうか?
清国は利益を享受するだけでなく、イギリスの商品を買い入れていたら?
イギリスが清国の立場を尊重していたら?
答えは出せないが、少なくとも己の事だけを考えていては、継続的な商売は望めないだろう。
相手の利益も考えなければならないのだ。
そして今、我が国は開国を決めた事を宣言する為にやって来た。
そうなれば、貴国とも貿易を行う事となるであろう。
しかし我が国の慣習は、貴国らのそれとは大いにずれている事と思う。
言葉の違いもあり、中々思う様にはいかない事も予想される。
その時、双方共に、実力で物事を解決しようとしてはならない。
まずは話し合いの場を設け、双方の意見を交わすべきである。
徒に武力で解決しようとすれば、将来に禍根を残す事になるからだ。
貴国の事は、議論を交わして物事の是非を決める、理性的な人々の集まった国と聞いている。
今回、我が国へ開国を求めに来た国家が、貴国であって幸いだった。
我が国にとっては、貴国の中に西洋諸国の姿を見る事になるからである。
国を開き、初めて接する相手が理性の通じない野蛮な国であったなら、絶望しか感じなかったであろう。
太平洋を隔てた隣国が貴国であるのは、我が国にとっての僥倖である。
願わくば、互いにとって有益な関係を築ける事を。
万雷の拍手に迎えられ、正睦は壇上から降りた。
英語でのスピーチであったが、練習の成果があって無事に終える事が出来た。
降りた途端に握手を求められ、続けるうちに更に集まり、遂には握る力が無くなる程であった。
けれども人々の反応に手応えを感じ、旅の成功を確信する。
そしてそれは、新しい時代の到来を意味していた。
自らがその当事者であると強く感じ、思わず身震いが出る。
まだ見ぬ日本の姿を脳裏に描き、人知れず笑みがこぼれた。
一行は市民との交流もしっかりと図りつつ、ワシントンでの時間を過ごす。
希望する者には剣道の稽古を付け、書道も体験してもらった。
それと共に陸海軍の基地や訓練を見学し、各種工場へも積極的に視察した。
瑞穂丸の到着を待ってはいるが、ワシントンにだけ留まる訳にもいかず、バルチモアやフィラデルフィアにも向かい、同じ様に日本の文化を紹介していった。
そしてフィラデルフィアに滞在中、瑞穂丸の入港と共に、松陰らの到着を電信にて知る。
ニューヨークに向かう予定を急遽キャンセルし、慌ててワシントンに戻った。
そこには亡者の群れと見紛うばかりの、やつれ果てた松陰らの姿があった。
イギリスの外交官もいる筈で、正睦の演説は大丈夫なのか心配ですが・・・




