使節団、ワシントンへ
そんな感じと思っていただけると幸いです。
小松帯刀の日記より抜粋
船がパナマに到着した。
パナマは遠浅であるので沖に錨を降ろし、小型の蒸気船に乗り換えて岸に向かう。
日本丸はここで人と荷物を降ろし、一旦帰国の途に就いた。
江戸に帰還して途中経過を報告し、今度は西周りで海を進むのだ。
シーボルト先生や長英先生を乗せ、ヨーロッパへの土産物を載せて再会する手筈となっている。
長く洋上の旅を過ごした日本丸との別れに、少なからぬ者が惜別の涙を浮かべていた。
瑞穂丸はここから更に南下し、南アメリカ大陸の南端を超えてワシントンに向かう。
海路に詳しい者を雇ったとは言え厳しい航路だそうなので、風を受けて進む瑞穂丸の、これからの航海の無事を祈った。
我々はここから鉄道で、カリブ海に面した町アスピンウォールに向かう。
鉄道が無ければ、横断には相当な時間と労力を必要としたそうで、前年の開通に感謝した。
我が国も、一国も早く鉄道事業を本格化させたいものである。
しかし、この町は暑かった。
何もしていなくても肌着がじっとりとしていくる程で、誰もがウンザリとした表情を浮かべていた。
日本を出た時には寒い季節であったので、多くの者がその不思議に戸惑っている様子でもある。
私も台湾で実感しているとはいえ、やはりその妙には考え込まざるを得ない。
日本の夏を思わせる気候であるので、当然の様に蚊も多かった。
出迎えてくれた者達もそれには閉口している様子で、しきりと愚痴をこぼしている。
家では蚊帳を使って寝ているそうだが、窓は開け放つので、部屋の中で蚊柱が立つ程に多く集まるそうだ。
確かに、あの羽音が部屋で唸っているのを想像すると、眠気はどこかに飛んでいきそうである。
そんな彼らは、我々が使っていた蚊取り線香に興味津々であった。
煙を使って蚊を追い払う方法自体は彼らも採用していたが、部屋の中を煙で充満させれば咳込んでしまう上に、部屋の全てが煙臭くなってしまう。
効果も一時的で、いたちごっこだそうだ。
そんな事情を持つ彼らであるので、蚊取り線香を焚いた途端に蚊がいなくなったのを見て、大層驚いていた。
煙が少ない割りには効果が抜群なので、それは何なのかとしきりと質問された。
蚊を殺す成分を練り込んだ物であること、夜に火を点ければ朝まで燃え尽きない事等を説明したが、半信半疑な様子であったので、試しの品として数個を贈ってあげた。
翌日、大慌てで私の元に駆け付け、是非売って欲しいと言って来た時には、笑いが出そうになるのを必死に堪えるしかなかった。
先生の仰る通りであったからだ。
蚊の不快さは世界共通なので、蚊取り線香は必ず売れると。
私の前で、競り合う様に買い取りの金額を言い合う異国の者達。
先生の言葉通りの状況が眼前で繰り広げられれば、私でなくとも喜悦に浸るであろう。
先生が外国よりその種子を求め、正弘様が治められている福山藩で、本格的な栽培を始めた白花虫除菊。
温暖で雨の少ない瀬戸内地方が適しているそうで、今では近隣の藩にまで栽培が広がっているという。
雨が少ないという事は、天水に頼るしかない山あいの村々では米作りに向かず、貧しい場合が多かったのだが、そんな地でこそよく育つ作物の導入で、今では大いに賑わっている様だ。
また、蚊取り線香を作る作業所には人手が必要で、農家を継げない次男三男の良き稼ぎ処となっているらしい。
藩の財政も大いに改善し、福山藩における正弘様の名声はうなぎ上りだそうだ。
蚊取り線香には白花虫除菊だけでなく、連結材としてのタブノキも多いに必要である。
我が薩摩藩でも蚊取り線香の商品化を見据え、計画的なタブノキ栽培を始めていたので、藩財政にとっての一助となっている。
それぞれの土地に適した作物を植え、藩の垣根を超えて持ち寄り、一つの商品を作りあげる。
それが今では、異国の者も欲しがる商品とまで成長した。
我が藩の利益だけを考えていては、決して辿り着けなかった結果であろう。
我が国のこれからを考えるに、大いに参考となる出来事だ。
ここまで読まれていたのかと思うと、先生の慧眼には恐れ入るばかりである。
しかも、蚊は様々な病気を媒介すると聞く。
台湾でも問題となっていたが、マラリアも蚊が媒介するそうだ。
蚊取り線香を普及させる事によって、それらの病気の拡大を防げる可能性を考えると、これは慈善事業とも言えるかもしれない。
売る方に良く、買う方にも良く、社会にも良いとは、誠に素晴らしいと思う。
鉄道に乗り、道を進んだ。
日本では見かけない珍しい風景の中を蒸気機関車は走り、カリブ海に面する町アスピンウォールに着いた。
我々使節団がワシントンに向かっている事は、ハワイから報告の便を走らせてくれていた様で、港には迎えの船が待っていてくれた。
アメリカ海軍の蒸気フリゲート艦、ロアノーク号である。
スクリュー推進の、アメリカ海軍の船の中でも新鋭艦だそうで、我が国への配慮が伺えた。
堀田様以下一同、その心遣いに大いに感謝した。
尤も、アメリカの力を見せつける思惑もあるのだろうが。
時折襲ってくる激しい時化を乗り越え、キューバ島の西を通り過ぎ、フロリダ海峡を進む。
チェサピーク湾に入り、ポトマック河を遡上した。
そして、眼前遠く、ワシントンの町並が見えた。
江戸を発ち、数か月の船旅の果て、遂に到着したのだ。
ここに先生がいない事が本当に心苦しい。
先生は台湾でも集成館ででも、我が国は早急に開国し、国の力を付けねばならぬと力説されてきた。
薩摩で初めてお会いした時から数えれば、13年間もの長い時間を使い、我が国の置かれた状況を周囲に繰り返し話され続け、協力を得る為に奔走され、幕府までも動かしてこられた。
その長年の成果である、国を開く事を諸外国に宣言する為の使節団。
私はその一員として、初めの目的地であるアメリカ合衆国の首都へと到達した。
ここで先生の宿願の一つが叶うのだと思うと、湧き上がる興奮に居ても立っても居られない思いだ。
真っ先に喜びの言葉をお伝えしたいのに、肝心の先生はいらっしゃらない。
アメリカには必ず着いておられる筈だとはいえ、今はどこにいらっしゃるのか。
開国の旨が書かれた国書を、アメリカ大統領に手渡す時までには間に合われるのか?
先生であれば、開国という結果が得られればそれで構わないと仰られそうだが、私としては是非とも先生と一緒に、その瞬間を目撃したいものである。
船はアナコスティア川に面した海軍造船所に着いた。
巨大な機械が多数動いている建物の様子に、茂義様を始め技術方の面々は皆、まるで幼子の様に顔を輝かせていた。
大統領との面会に立ち会うなど時間の無駄だから、技術方だけでも造船所に居させろと茂義様は口にされていたが、全く以て同感である。
それぞれがそれぞれに出来る最善を果たすべきなのだ。
この旅は開国だけを告げに来たのではない。
先手を打ち、状況を我が国に優位に運ぶ目的で為された物である。
我が国に不利とならない様に条約の話し合いを進め、同時に外国の進んだ技術を持ち帰り、我が国の国力を高める。
全ては西洋列強の干渉を跳ね返し、清国の二の舞となる事を防ぐ為だ。
記念すべき国書の進呈式と言って、傍観している暇は無いのだ。
なんたることか!
やはり私は未熟者らしい。
開国は手段に過ぎないのだから、それが成ったとて喜んでいる場合では無いではないか!
先生がいらっしゃらない事を嘆く暇があったら、次にお会いする時に益のある報告が出来る様、抜かりなく心を配って事を進めれば良いのだ!
そうとなれば話は早い。
早速造船所の所長にお願いし、茂義様らの見学を許可して貰うとしよう。
先にモンロー砦で到着の打電をしていた為か、造船所前には大勢の市民が詰めかけ、盛大に我々を出迎えてくれた。
茂義様らの見学も許され、幸先の良い出だしである。
サンフランシスコと同じ様に市長らの歓迎を受け、その場で簡単な式典が設けられた。
堀田様の英語でのスピーチにどよめきが起きたが、終わる頃には割れんばかりの拍手となった。
アメリカ人とは案外に単純な性質の様だ。
造船所の所長も人が良いのか、新しい技術の習得こそ我が国にとって喫緊の課題だと訴えた所、感に堪えざるといった表情で了承してくれたのだから。
沿道に詰めかけた市民の中を馬車は進み、我々は宿泊先として用意されたウィラーズ・ホテルに着いた。
このホテルは5階建ての瀟洒な建物で、アメリカの首都に相応しいホテルだと感じた。
それぞれの部屋へと移り、荷を解く。
私は小五郎君と新平君と同室であったので、この日の出来事をつぶさに語り合い、思い出して笑い合った。
翌日、堀田様らと共に国務長官の元へ向かった。
到着の挨拶と共に、ピアース大統領への謁見に備える為だ。
式典の順序、礼儀の確認など細かに打ち合わせ、互いに失礼の無い様に取り計らう。
茂義様らは計画通り、いそいそとして造船所へと足を運んだ。
正直に言えば私もそちらに加わりたい所だが、こればかりは仕方あるまい。
結果として先生は、国書の進呈式に間に合われなかった。
白亜の政堂の大広間には、華やかな衣装に身を包んだ多くのご婦人方がいる。
武官、文官、各国の公使、この度の立役者ペリー提督といった紳士達も見守る中、粛々として式は進んだが、主役がいないままに進む舞台を見ている様で酷く味気なかった。
心なしか堀田様の顔も残念そうに見える。
多くの者が晴れやかな表情を浮かべている中、事情を知るごく少数だけが複雑そうであった。
私のそんな思いを他所に、堀田様が国書を大統領に手渡し、式は恙なく終了した。
式の次の日からは大統領主催の音楽会であったり、舞踏会などが開催された。
また、友好条約締結に関しての話し合いも始まった。
我が国としては開国に合わせて開港も行なう手筈となっており、その港を巡っての駆け引きがあった。
西洋人のやり方は、まず初めに大きく吹っ掛け、交渉の中で妥協点を見つけていく方法である。
馬鹿正直に初めの申し出に応じてしまっては、交渉も出来ない間抜けと思われ、以後際限なくつけ込まれる事となってしまう。
それが外交交渉だと認識しているらしい。
彼らの要求は、開国したのだから好きな港に入港したいとの事である。
当然、我らにそれは飲めない。
見慣れぬ異国の者が所構わず現れては、民の間に混乱を招くだけだからだ。
我らの訴えは、期限を設けての横浜一港だけの開港であった。
そんな馬鹿な話は無いとの彼らの反応に、長い間の鎖国をようやく解いたのであるから、性急に事を急げば、双方にとって好ましくない事態となるであろうと応える。
以後互いの主張が繰り広げられ、妥協点として小樽、横浜、神戸、長崎の開港と相成った。
初めからその線で考えていたので、何も問題は無い。
アメリカ側も不満は無い様子であった。
これで他の国でも、同じ条件で条約を結べる事だろう。
貿易に関する取り決めは、次の機会へと持ち越される事と決まる。
早急に進めては、取りこぼしがあるだろうとの懸念からだ。
さて、これで旅の主目的は果たした。
堀田様もホッとしているご様子。
ここからは、先生の深謀遠慮の一環である、鉄は熱いうちに打て作戦の始まりである。
ちゃちゃっと進めるのも難しい・・・
次話も使節団サイドです。
札幌を小樽に修正しました。




