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戦場にて

 松陰は塹壕の中にいた。

 あり合わせで作ってもらった防護頭巾をかぶり、ライフルを脇に抱えてうずくまっている。

 急ごしらえで準備した塹壕は幅も狭くて深さも十分ではなく、人一人が身を隠すのにやっとであった。

 隣には大きな体を小さく屈め、耳を両手で塞いで恐怖にガタガタと震えるアメリカ人がいる。

 大丈夫だと声を掛ける余裕は無く、松陰は一人じっと体を縮めていた。


 塹壕の外では政府軍の曲射砲から放たれた炸裂弾が着弾して爆発し、大きな音と共に地面を微かに振動させている。

 飛び散った土が防護頭巾の上にパラパラと降り注いだ。


 松陰は一人思う。

 今この瞬間、塹壕から顔をちょっとでも出すだけで、ひっきりなしに爆発している炸裂弾の爆風で命を失いかねないだろう。

 塹壕の中にいるとはいえ、砲弾の直撃を受けても即死は確実だ。

 ジョニーと乙女らを中心とし、町の者にはきんを出して急ぎ用意した塹壕であったが、その効果は今の所絶大であった。

 一歩外に出れば確実な死が待ち受けているのに、大地の守りは固く、塹壕の中は驚く程に静かだった。


 松陰は一人自問する。

 どうしてこんな事になっているのかを。

 そして思い出す。

 抑えられぬ怒りを。

 それはつい数日前の出来事であった。




 松陰は激怒した。

 必ず、あの邪智暴虐の男を除かねばならぬと決意した。

 一行と合流し、急ぎ事情の把握に努めた松陰である。

 千代からイネの事を聞かされて怒り心頭になった松陰だったが、一時の感情に任せて行動しては、モンモル教徒が多数を占めるこの町で、圧倒的に不利な状況へと陥るだけであろう。

 怒りを必死に抑え込み、開拓民が虐殺された事件の詳細を調べてもらい、モンモル教団の情報を集め、政府軍に関する話を仕入れてもらう様、指示した。

 幸い、機転の利くスズがいたので既にある程度の情報は集まっていたが、念には念を入れてお願いした。

 しかしここはモンモル教の勢力下にある町である。

 目立たぬ様に注意し、深入りはしない事を徹底させた。


 そして集まってくる事件の詳細。

 朧気ながらも全容が把握出来るにつれ、情報を集めて走り回っていた者達の顔色は蒼白となっていった。

 

 事件のあらましはこうである。

 教祖を殺した男が開拓民の中に紛れ込んでいるとの噂を信じ込み、教団幹部はその男への復讐を決意する。

 協力関係にあったインディアンを唆し、街道を進む開拓民を襲わせた。

 しかし開拓民は、そもそもインディアンや盗賊の襲撃を想定して武装している。

 互いの馬車を連結して盾とし、強固な陣地を作り上げて頑強に抵抗した。

 そこで教団幹部は一計を案じ、白旗を上げて開拓民に近づく。

 インディアンに囲まれているから逃げられないとの嘘を吹き込み、自分達はインディアンと交流があるから、話し合いをすれば穏便に帰ってもらう事が出来るだろうと吹聴した。

 良い噂を聞かないモンモル教団ではあるが、同じ白人同士なので無碍には扱わないだろうと考え、開拓民は彼らを陣地内に引き入れてしまう。

 味方が来たと勘違いして油断した開拓民の男達を、教団は隠し持った銃で皆殺しにしたのである。

 泣いて跪き、必死に命乞いをする女達の頭を、彼女らの恋人や夫らを撃ち殺した、まさにその銃の台座で、容赦なく打ち砕いて殺したのだ。

 結果、140名近くの開拓民のうち、生き残ったのは子供ら18名だけであったという。 


 松陰は俄かには信じられなかった。

 それは皆も同様で、特に女達の受けた衝撃は大きかった。

 それはそうであろう。

 子供達が見ている目の前で、彼らの両親が惨殺されたのだから。

 それも、助けに来てくれたと信じた同じ白人によって、である。

 仲間だと安心していた存在に裏切られ、両親を殺された子供達の心情を思えば、口をついて出てこようとするどんな言葉も、ひどく空しく軽く思えた。

 同情も憐憫も、今は等しく無価値に感じる。

 彼らの受けた痛みを和らげる為、今現在出来る事と言えば、下手人を捕まえて裁きに掛ける事しか無いと思った。


 しかしそんな思いも、モンモル教団の内部事情が分かるにつれて怒りへと変わる。

 なんと犯人達を匿い、州政府に渡すつもりは無いというのだ。

 口を開けば神の愛や正義を唱え、正しくあれと教えている者達である。

 教祖を殺された事に腹を立て、復讐に燃えるのは理解出来るけれども、その怒りの矛先が真偽の程はどうあれ、教祖を殺した個人に向かうのならばまだしも、全く無関係の筈の女にまで向けられたのだから話にならない。

 あまつさえ、その様な凶行に走った者らを政府に渡し、裁判にかける気も無いという。

 しかも、どうやらその虐殺を指示したのは、教団のトップであるマイケル・ダンその人らしい。

 卑怯な手段でイネを5番目の妻にした男である。

 松陰らが激怒したのは言うまでもないだろう。


 信者の中には、そんな教団の姿勢に疑問を抱いている者もいた。

 罪を明らかにし、法律によって裁かねばならないと、ごく当たり前の感覚を持った者も相当数いた。

 けれども、教団を率いるマイケル・ダンには逆らえず、彼が支配するこの町で生活していく為には、様々な不正にも目を瞑らなければならないらしかった。

 しかし良心の呵責には耐えられず、余所者に話をしてくれたのだ。


 イネについても同じであった。

 マイケル・ダンがイネに目を付けたのは、彼女が医者として町で診療行為をした事が話題になったから、らしい。

 当時のアメリカでも医者は免許制でなく、日本と同じように言った者勝ちである。

 それはつまり腕の差が激しい事を意味する。

 そんな中、父であるシーボルトに鍛えられたイネの腕は確かであった。

 瞬く間に評判となるのも当然であろう。


 また、自由と思われるアメリカであっても当時の女性は家に居て、家事と育児に専念する事を望まれていた。

 女医などそれこそいる筈もなく、イネの存在は非常に珍しいモノであった。 

 彼女が整った顔であった事もあり、人々の関心を集めた事がマイケル・ダンの目を惹いた様だ。

 その話を明かしてくれた町の者は皆一様に眉を顰めていたので、納得出来ない者は多いらしい。


 そして、イネの事で一番激昂していたのはマリアだったそうだ。

 普段は温厚な彼女が、珍しく顔色を真っ赤に染めていたという。

 貞淑貞操純潔を大事にするキリスト教徒から見れば、一夫多妻を教義とするモンモル教は許しがたいのであろう。

 そして己の持つ権力を嵩に妻となれなどと、女としても受け入れ難い所業と感じた様だ。

 私に任せて欲しいと言って、イネの侍女として入団していったという。

 異国人であるイネには助けが必要だと、教団側に訴えて認めさせたらしい。

 イネに関しては外部からは手出しが出来ないので、心苦しいながらもマリアに任せる他に無い。


 そして牢屋にいる者達である。

 松陰は彼らに対しても怒りが湧いていた。

 煽られたにしても、不義なる者らの側に立って戦うなどもっての外である。

 事情を知らなかったでは済まされない。 

 のほほんと、戦に参加出来ると喜んでいた彼らを許せなかった。

 再び牢屋に向かい、言う。


 「降りかかる火の粉は払わねばならないでしょう。助けを求める人に手を差し伸べる事を咎める気はありません。しかし、今回の事は別です!」


 そして事件の詳細を話して聞かせる。

 四名は段々と顔色を無くし、説明を終える頃には顔を青くしていた。

 ばつが悪そうに互いの顔を見つめる彼らに松陰が告げる。


 「皆さんをこの旅に随伴させているのは、明日の日本を担う人材となる事を期待しての事です。強欲苛烈なる西洋諸国と渡り合うのに必要な、信念と胆力を養う事を目的としています。それなのに無辜の民を虐殺した者達に唆され、罪を裁く為にやって来た政府軍と刃を交えるなど、言語道断です!」


 その言葉に一斉にうなだれた。


 「皆さんは戦に参加する必要はございません! ここで頭を冷やしておいて下さい!」


 しかし、その指示には異議を唱える。

 武士たる者が、という奴だ。


 「心配いりません! 武士に二言は無い事は私が証明しておきます!」

 

 こうして教団に掛け合い、四人の代わりに戦に参加した松陰であった。

 損害を減らす為に塹壕を掘る事を了承させ、その費用も負担する。

 ソルトレイクの湖畔に埋めた金を掘り返し、充てた。

 夜の間に町を抜け出し、同じ様に夜の間に密かに持ち込んだ。

 そして勝利を確実なモノとする為に、残った者には政府軍の物資集積所の焼き討ちを頼んだ。

 

 そして始まった戦いである。

 郊外のモンモル教団所有の土地が戦場となった。

 まずは政府軍の曲射砲が火を噴く。

 大砲で散々に敵軍を叩き、その後にライフルを持った歩兵が進んで敵の残党を掃討していく作戦であった。


 炸裂弾の爆発が続く。

 ひとしきり大砲が撃たれ、煙幕が晴れると歩兵の行進が始まった。

 それに合わせ、教団側は松陰の合図で塹壕から体を出し、手に持ったライフルを滅多やたらに撃つ。

 無抵抗であった相手からの思わぬ反撃に政府軍は足並みが乱れ、慌てて退却して再び大砲を放つのだった。

 

 「運動エネルギーは2分の1MVの2乗でしたか。放物運動をする物体の予想到達地点は発射される角度に依存し、仰角45度で最大飛距離となる、でしたか。」


 松陰は塹壕の中、まるで他人事の様に己の知識を整理していた。 

 それは一種の離人症と言えるかもしれない。

 あたかも第三者の目で自分を見ている様に感じる症状で、極度のストレス状態に晒される事に因って引き起こされがちである。

 しかしそれは自己の精神を防ぐ機構とも言えた。

 

 再び遠くで、一発の大砲が火を噴いた事を感じた。

 松陰はそれに合わせ1秒、2秒と秒数を数えていく。

 装填されていた火薬の量は最適化されていた様で、他とほぼ同じ秒数で自陣に着弾した。

 今度のは角度も方向も絶妙だったらしく、松陰のいる塹壕のすぐ脇へと落ちた。

 重量のある砲弾が物凄いスピードで飛んで来て、塹壕の横に盛られた土の壁とぶつかる衝撃は凄まじく、離れていながらその衝撃が体を貫いた。

 隣の男はその途端にヒイッと叫んで失禁してしまった様だ。


 しかしその弾は炸裂しなかった。

 暫くそのまま待ったが、やはり爆発しない。

 所謂不発弾である。 

 けれども安全な訳では無く、何かの衝撃で爆発するとも限らない。 


 途端、松陰の脳裏にとあるイメージが湧いた。

 それは天からのメッセージに思えた。

 思わず「これだ!」と叫ぶ。

 ひっきりなしの砲弾の音に、周囲の誰もその声に気づかなかった。


 塹壕に籠り、損害を防ぎつつライフルで反撃するだけで戦線は膠着していた。

 政府軍としては事件の首謀者を捕らえる事が目的であるので、無理に突撃して自軍に損害を出す意味が薄かったのかもしれない。

 大砲で圧力を掛け続ければ根を上げ、簡単に白旗を掲げると思ったのだろう。

 しかしモンモル教側はいつまでも抵抗を続け、容易には引き下がらない。

 その教団側も塹壕に籠り続け、反撃だけで攻撃に移る事はなかった。

 互いに決定打に欠ける中、時間だけが過ぎていく。

 そして伝えられた、政府軍基地焼き討ち成功の報。

 補給の困難なソルトレイクシティである。

 政府軍はこれ以上の戦闘継続を諦め、何の成果もあげられないまま撤収を決めた。


 教団側は実質的な勝利に沸き、指導者であるマイケル・ダンを褒め称えた。

 そして、イネを妻に迎える為の祭式が、勝利の記念と併せて大々的に執り行われる運びとなった。

 恩赦で釈放された囚人達が式に際して歓声を上げる中、全ての準備を整えた松陰一行が、イネの奪還を画策して行動を開始する。

途中にあるのは『走れメロス』です。


アメリカの医療者免許制度は正確には分かりませんでしたが、カリフォルニアに向かう開拓民の旅路を記した本の中で、その旨記述されていたので、それに従いました。

血を抜くのが主たる治療だったとか・・・

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