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玉木邸その4

作者の個人的見解が延々と述べられています。

ご不快になられる意見もあるかと思います。

軽く流してお読み下さいませ。


 「この長州藩をどの様に、か……」


 清風は考え込んだ。

 今まで、そんな事を考えた事がなかったからだ。

 莫大な藩の借銀、迫り来る西洋列強の脅威、その脅威に対抗するには何もかもが足りない藩の実情、徳川幕府の場当たり的な諸政策等々、何とかせねばならないと解決策を考えた事はあっても、藩をどの様にしたいと明確には意識した事がなかった。


 しかし、それは明確に意識していなかっただけで、何のイメージもなかった訳ではない。

 何故なら、藩の借銀がどれだけあろうが、実際問題そんな事を清風が真剣に考える必然性はないのだ。 

 もし仮に、借銀が返せなくなって債権者の商人に藩の諸施設、江戸の屋敷などを差し押さえられたとしても、家老とはいえ一介の藩士に過ぎない清風にとって、それが何だと言うのだろう?

 藩の経営資格無しと幕府に判断され、毛利家がお取潰しになったとしても、それが何だというのだろう?

 そうなれば仕える主人を失い、家禄を失い、途端に一家を路頭に迷わせるのは確実であるが、長州藩自体は残るのだ。

 別の藩主が遣わされ、長門と周防を支配するだけである。

 そうなれば、曲がりなりにも実績のある清風は、その新しい藩主の下で、何がしかの職につけるだろう。

 もちろん、藩政を担っていた清風が、何らかの処分を受けるのは当然であろうが、それとて清風一人の責任ではないのだから。


 西洋列強の脅威にしてもそうである。

 オランダより入ってくるアジア各国の状況報告を見ても、では、西洋の支配を躊躇い無く受け入れればどうなるのか?

 支配者が変わるだけで、この国の経営を担う者は変わらないのではないだろうか? 

 そうなれば勿論、自尊心など欠片も持つ事は許されず、支配者である西洋人の意向に唯々諾々と従わざるをえず、命令されれば民を虐げ、その富を奪い、西洋に献上し、そのおこぼれを与るだけの唾棄すべき存在になるであろうが、受け入れてしまえばそれが何だと言うのだろう?

 毎日の職務を淡々とこなす、それに変わりは無いのだから。 

 しかし、そうではないのだ。


 清風は己に浮かんだ考えを力強く否定した。


 今の長州藩士達は、中国地方一の大大名となった毛利家中興の祖、元就公の頃以前より毛利家に仕え、長州藩祖輝元公の関が原敗戦後の2カ国減封処分にも関わらず、家禄を削られても良いからと付き従った者達の末裔なのだ。

 そのご先祖様達の志を思えば、みすみす長州藩を潰す訳にはいかない。


 それに、八百万の神々の住まうこの神州日本を、蛮族たる夷狄に蹂躙されるなど耐え難い屈辱である。

 この国の民草を、節操無き強欲な収奪者である西洋人の歯牙にかけさせてはならないのだ。

 弱き者達を守るべき武士が、恥を捨て、先祖の思いを踏み躙り、この長州藩を、この日本を、見捨てる事があってはならないのである。


 はたして、その思いはどこから来るのか?

 清風は考え、気づく。

 この萩を、長州藩を、日本を愛している事に。

 解決すべき問題は多々あれども、この地が好きなのだ。

 この地に住まう人が、その人が織り成す社会が、その社会を育む豊かな自然が愛おしいのだ。


 「そうじゃな、儂はこの長州藩を、神州日本を守りたいのだ。誇り高き先祖が仕えたこの藩を守りたい。この日本を夷狄の支配される土地になどさせてたまるか! そして、この地に住まう者が安心して暮らせる様にしたいのう。」


 清風の言葉を聞いた松陰は微笑む。


 「私も同じにございます。この国に住む者が幸せに暮らせる事を願っております。」

 「ほう、そうであるのか。その年で立派なものじゃのう。」


 清風は目を細める。


 「では、幸せとは何でしょうか?」

 「はて、幸せとな? それは人それぞれじゃと思うがのう。」

 「はい。私もそう思います。ですが、ある所までは同じであると思うのです。」

 「ある所までとは何じゃ?」

 「はい。」


 松陰は自分の考えを述べ始める。


 幸せである事の最低限の条件とは、健康で、美味しい物を食べる事が出来、十分な睡眠をとる事が出来る事であると。


 余りに単純な答えに、清風も唖然とした。

 そんな清風に構わず松陰は続ける。


 健康である事は生きる上での基本である事。

 しかし、人は怪我をするものであるし、病気にもなる。

 その為、医療の充実は欠かせない。

 誰もが気軽に医者に掛かる事が出来、誰もが病を癒す薬を買える事が出来る様にしなければならない。

 その為にはまずもって病気の予防である。

 予防こそ最も安価で効果的な健康を保つ方法であるのだ。

 その為に最適なのは保健の知識と医食同源の漢方である。

 

 そして、怪我や手術を必要とする治療には、西洋の技術が最も有効なのだ。

 それは人の解剖図を見れば一目瞭然であろう。

 目の前の現実を忠実に詳細に調べる西洋の学問は、観念が先行しがちな漢方医学とは比較にならない。

 そして、西洋の医学を学ぶ為には専門の機関が必要となる。

 現在の、蘭学者がそれぞれ独自に研究している様な態勢では不十分なのだ。

 

 体の健康もそうであるが、心の健康も大切である。

 ねたみ、ひがみ、そねみは人の常とはいえ、それに囚われる状態が長いと心を痛める事となる。

 

 しかし、心の状態を知るのは難しい。

 心は見えないからだ。

 けれども、心の状態は振る舞いに現れるものであり、それを知るのは周りである。

 しかし、社会から切り離され、孤独に打ちおかれた場合、それは誰にも分からない。

 誰にも気づかれず更に心を痛め、その結果社会を恨んで凶行に走るか、恨みが自分に向かい、己の命を絶つ事につながる。

 それを防ぐにはどうするか?

 人とのつながりの場を増やしていくしかないだろう。

 勤め先だけの人間関係では、その職を失ってしまえば人間関係までも失ってしまうだろう。

 居場所が家族だけでは、それは煮詰まりやすい。


 遊びも大事である。

 適度に遊べば鬱屈した気分も発散され、明日を頑張る力も戻るだろう。

 人と時間を共有する類なら、新たな人間関係を構築する助けにもなろう。 

 

 そして、美味しい物である。

 日々の食事を美味しいと感じるのは体が健康であるからだし、日々の食事をきちんと摂るには十分な収入が必要となるのだ。

 仕事がなく、生活が苦しくなれば心も荒む。

 心が荒めば美味しい物を食べても美味しいとは感じなくなるのだ。

  

 また、食べる物を作っているはずの農民に重い年貢を課してしまうのも問題である。

 丹精こめて育てた米を年貢として持っていかれ、残った米も借入金の返済や日用品を買う為に売り払い、自分達は粟や稗を食べ、糊口を凌ぐ。

 そんな状態で凶作でも重なってしまえばどうなるか。

 

 待ってるのは一家離散や飢餓、子供の身売りだ。

 何一つ生産しない武士を食わせる為に、農民がそんな悲惨な状態に置かれるのはあってはならない事だ。

 藩の収入の為に専ら米を生産させ、それは凶作が起これば飢餓を引き起こす。

 米が無くても人は死なないが、食べる物が無ければ人は飢えて死んでしまうのだから。


 従って、作物は複数栽培しておかねばならない。

 もし米が駄目でも他の物を用意しておき、飢饉に備えておく。

 しかし、それだけでは不十分である。

 いくら飢饉に備える為とはいえ、美味しくもない物は誰も育てようとは思わないだろう。

 しかし、調理法によっては全く違った味になる事もあるのだ。

 その為にも美味い食べ方を開発し、普及を図る必要が生じる。

 

 作物自体の栽培方法を研究する必要もある。

 作物の健康も人と同じであり、まずは健康な成長ができるにはどうするのかを調べなければならない。

 健康であれば病気になる事は少ないのだから。

 そして、作物に忍び寄る虫の害を防ぐ薬の開発もある。

 これらも、民間に任せるだけでは不十分である。

 篤農家の努力だけでは手が回らない事も多い。


 そして、十分な睡眠の確保である。

 体と心が健康で、十分な食事を摂れていれば、自ずと良質の眠りも取れるのだから。

 家屋の改善も欠かせない。

 隙間風が入り、寒さに震える様な家屋では十分な睡眠は得られないだろう。

 心に不安を抱えていても良く眠れないだろう。

 お腹がすいていても眠れないだろう。

 病に苦しみ、痛みに耐えていれば眠る事は出来ないだろう。


 全てはつながっているのだ。

 

 怒涛の様に説明する松陰に、清風は言葉を失くして聞き入った。

 成程と思う事ばかりである。

 しかも松陰は理念だけではなく実行しているのだ。


 ポテチなる物でジャガイモの新しい食べ方を示し、紙芝居という物で子供達に娯楽を提供した。

 柿の種という物で煎り餅の味付けに新しい風を吹き込み、戦棋なる物で遊戯に戦略という概念を持ち込んだのだ。


 そして清風は松陰に、それだけではないと感じていた。

 まだ何かあると思われた。

 隠しているのはこんなものだけではないと確信した。


 しかし、この場でそれを追及しても仕方無いだろう。

 吉田家当主である松陰は、いずれ明倫館の師範となる人物である。

 今はまだその為の学問を積んでいる最中だろう。

 これだけの事を成し遂げ、驚く程その見識が深くとも、今はまだ元服すら迎えていない少年であるのだから。


 「成程のう。しかし、今日は得難い経験をさせてもらったものじゃ。」

 「それはようございました。」


 気づけばもういい時間である。

 お美代はまだ八重と話し込んでいるのだろうか?

 まだまだ松陰と話してみたい事は多いが、今日は驚く事が多く、正直疲れてしまった清風である。

 このまま帰れば気持ちよく眠れそうな気分であった。


 良く眠り、良く食べ、良く遊び、良く働く。


 なるほど、それが出来れば、誰もが笑顔で暮らせる国となるだろう。

 安心して暮らせる町となるだろう。

 問題は、それをどうやって実現してゆくのか、であるが、松陰には明確な進路が見えている気がした清風である。

 

 これからの長州藩を担ってゆく若い世代に、松陰の様な存在がある事に深く安堵する清風。

 「この者がその能力を存分に発揮してゆく為にも、儂は儂に出来る事を精一杯なしてゆかねばな」と決心するのであった。


 しかし、運命は唐突に訪れるものである。

 清風の予期しない形で、自身が松陰との関わりを深めていく事になるとは、この時は全く思ってもいなかった。

食う寝る出すで、毎日健康!

健康なら幸せとは言いませんし、不健康だから不幸とも言いません。

生まれつき障害を持っている人もいる。

闘病生活が長く続く人もいる。

そんな人は幸せになれないとかあるわけが無い。

もし、そう思われてしまったのなら、それは作者のミスです。

あくまで、為政者の立場として、国民の健康と福祉を確保していこうという事です。

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