霧に佇む金門海峡(ゴールデンゲート)
説明回です。
西暦陽暦に日付を直して記す。小松帯刀。
1854年3月2日 晴れ、微風
ハワイを発って暫くし、我が国でいう信天翁、別名アホウドリしか見ない日が続いたが、ちらほらとカモメの姿が目に付く様になった。
絶海の孤島に巣を作り、広大な海域を飛び回るアホウドリとは違い、カモメは陸地からそう離れて飛ばないそうだ。
陸が近い事が伺える。
計算方の小野友五郎殿の観測によると、現在位置は北緯34度21、東経129度68との事。
このままの速度で進めれば、目的地のサンフランシスコまでは残り2日程だそうだ。
いつも正確な観測と計算を為される小野殿の言葉であるので、まず間違いないだろう。
3月4日 曇り、弱風
昼を過ぎた頃、海上に厚い霧が漂い始めた。
五里霧中という表現がぴったりな状況の中、メインマストに上って望遠鏡を覗いていた見張りから叫び声があがる。
前方に山影有り、との事。
とうとうアメリカ大陸に到着した様だ。
その声を聞きつけ、続々と乗客が甲板に集まって来た。
スズ姉様などは、瞬く間にマストを昇ってしまう。
妙齢のご婦人が、軽々しくその様な行動を取られては困ると思う。
鼻の下を伸ばして見上げる男達の事は目に入っていないのだろうか。
幸い武術の稽古中だった様で袴姿であったが、普段のままであっても同じような行動をされていた気がする。
ご自身の魅力に疎いのは昔からだが、大奥から女歌舞伎の世界に入られて、箱入り娘の様に育ってしまわれたのではなかろうか。
先生との仲はどう進展していくのだろう?
小さな頃からお二人の事を見ているだけに、少々心配である。
そんな事を考えている間に、一陣の風が吹き付け海上の霧を晴らした。
船の先に現れたのは、北から南へとなだらかに続く連峰の途中を大きく切り取ったかの様に口を開けた、湾であった。
湾の北側は山脈で、木々の少ない山肌に青々とした草が生える風景が広がっている。
そして突然切り取られた様に海面が広がり、再び南側に陸地が続く。
右手を見れば、なだらかな傾斜がずっと先まで続いていた。
見渡す限りに何もない海上を旅してきた暁に、この様な風光明媚な景色が見れるとは、苦労してきた甲斐があったというものだ。
後方を望めば、瑞穂号もしっかりと随伴している。
同じ様に甲板には人が溢れ、アメリカ大陸への到着を祝っている様だった。
ただ、威臨丸の姿は影も形も見えない。
ハワイの時と同じく、先に着岸して上陸しているのだろうか?
3月5日 晴れ、風やや強し
目的地のサンフランシスコ港の入り口、金門海峡を、日本丸と瑞穂丸が意気揚々と通過する。
我が国の技術で作られた船で、こうして大洋を渡って来れたのが誇らしい。
長崎港を彷彿とさせる美しいこの湾には、世界各国の旗を掲げた蒸気船が多数入港していた。
アメリカは元より、イギリス、フランス、ロシアといった列強の商船が、我が国の日の丸を見て祝砲を鳴らす。
我が艦もそれに応え、甲板から花火を上げた。
白煙が海上を漂う中、港の沖合に停泊する。
サンフランシスコは国際港という事で、多数の埠頭があり、大小さまざまな船が錨を降ろしていた。
波止場の向こうにはぎっしりと建物が見える。
丘の上に、整然とした区割りで仕切られた街の作りは、京の都を思わせる。
建築中のモノも多く、大勢の者が忙し気に立ち働いているのが見えた。
まさに今、街が急速に発展しつつある事が一目で見て取れる。
我が国とは違い、四角い見た目の4階5階建ての大きな建物が目に入り、台湾とも広東とも違う異国情緒に溢れていた。
祝砲を聞きつけたのだろう、多数の群衆が波止場に駆け付けている。
我らに向かって盛んに手を振っており、歓迎してくれている事が見て取れた。
感慨深く、喜びが溢れてくる。
やがて小型の蒸気船が近付いて来て我らの船を曳いてくれ、無事に接岸した。
周辺の埠頭を探したが、威臨丸の姿は無い。
先生はまだ到着していないらしい。
先にアメリカの地を踏める事が我ながら少し誇らしく、新平君と共に到着を祝った。
サンフランシスコ市長、駐留する軍隊の長官、街の有力者が揃い踏みの中、堀田様を筆頭に我が国の遣米使節団の一行は、集まった市民の熱烈な拍手に迎えられて船を降りた。
どうやら、ハワイから帰港した捕鯨船から、我が使節団の到着が近い事を聞いていたらしい。
いつでも歓迎出来る様に準備をしてくれていたそうだ。
そのまま、我が国の使節を歓迎する式典が行われた。
まずは市長が挨拶する。
アメリカと我が国との国交が平和的に樹立する事を祈念し、両国関係の友好的な発展を期待するという趣旨のモノであった。
応えて堀田様が英語で挨拶する。
列席した彼の国の者らは、英語での答辞にまずは驚いた様だ。
その為にしっかりとした準備をしてきただけに、彼らの驚く顔が痛快である。
堀田様も満足そうな顔であった。
その堀田様の挨拶は概ね次の通り。
太平洋を挟んで相対するのがアメリカと我が国である。
この両国が友好的な関係を築ければ、それぞれの国にとって必要な物産をやり取りする事が出来、双方にとって大きな利益となるだろう。
その際、このサンフランシスコは、我が国の船が真っ先に訪れる地となる筈だ。
この地の繁栄が我が国の繁栄に繋がり、今のこのサンフランシスコの発展に掛ける情熱を見れば、将来の我が国の繁栄も約束された様なモノであると述べた。
そして最後に、どうか親しく友情を結び、共に繁栄していける事を望む、という言葉で挨拶を〆た。
観衆の熱狂は表現し辛い程であった。
我が国の民とは違う、直接的な感情の表現に感じる。
些か過剰に思えて終いには皆閉口したが、喜んでくれた事は理解出来たので善しとしよう。
それから、アメリカ側から数名の者が挨拶に立ち、式典は終了した。
後から聞けば、長旅の疲れを考慮して手短にしてくれたらしい。
大変ありがたい心遣いである。
市長が用意してくれた馬車に分乗し、我らは宿泊場所であるホテルに移った。
インターナショナル・ホテルという名の煉瓦作りの建物である。
このホテルは、日本丸が停泊したヴァレーホ街埠頭から少し離れた所にあり、モンゴメリー街に近いジャクソン街にあった。
5階建てで、各階に数十の部屋があり、広い部屋で25畳、狭いモノでも8畳はあろうか。
それぞれの部屋にベッド、蚊帳、洗面器、鏡、手燭、マッチなどが備えられている。
今回は我々の都合を考えて、部屋には予備のベッドが入れられており、一部屋に数人が泊まれる様になっていた。
初めての異国であり、一人でいるよりは数人でいた方が心強い。
ハワイがそうであったので、その話を聞いた市長の計らいで、特別にその様にしてくれたらしい。
全くありがたい事である。
また、部屋にはガス灯が引かれており、夜には火を灯して部屋を明るくする事が出来た。
紐が壁より垂れ下がっており、興味を惹かれて引いて見た所、誰かが部屋の扉を叩いてきた。
誰かと思って開けた所、笑顔のボーイが立っている。
どうやらあの紐は、ボーイを呼ぶための紐らしかった。
何とも親切なモノである。
とはいえ、用事があった訳ではないので謝まりつつも帰ってもらい、その旨を他の人に注意する為、新平君らとホテル内を駆けまわる事になった。
中には、備え付けられた尿瓶を興味深げに眺めている者もいた。
その事は中浜万次郎にも聞いていたので、よく説明して使い方を確認する事となった。
中々に忙しい事であったが、気持ちは軽やかである。
そしてその日はホテルで夕食をとった。
ホテル3階の食堂で一堂に会し、我々の為に準備された洋食を食した。
我が国の迎賓館で食べた物と違い、少々油の臭いが鼻につく。
私も正直我慢して食べたが、中には全く受け付けない者もいた様だ。
日本丸に行けば醤油も味噌もあって好みの味で調理出来るのに、誠に残念な事である。
この時ばかりは船に残った者を羨んだ。
こうして我が国初の使節団は、アメリカでの記念すべき一日を終えた。
松陰先生到着の報は無い。
3月6日 晴れ
今日は朝から市長に案内され、使節団の主だった者が市内を見学した。
サンフランシスコがあるカリフォルニア州は、1846年に終わったメキシコとの戦争の結果、メキシコから割譲された地域である。
この州だけで我が国よりも大きいというから驚きだ。
その大きさの土地に、今現在で僅か10万人しか住んでいないらしい。
そのうち、サンフランシスコ市には約5万人が暮らしているとの事。
今、人口が急激に増加しており、街の整備が追い付いていないそうである。
ただ、10万という人口に外国人は含まれておらず、インディアンと呼ばれる、元々このアメリカに住んでいた原住民も数には入っていないらしい。
市内ではそのインディアンを多数見かけた。
多くが貧しい身なりをしており、物乞いの様な生活を送っていると聞く。
酒を恵めば大人しくしているので、市としてもそこまで邪険には扱えない様だ。
新平君が一人のインディアンの老婆に話しかけられ、たどたどしい英語でどこから来たのか聞かれたらしい。
この海の向こうからだと答えると満足したのか、酒代をせびって帰って行ったそうだ。
その後ろ姿は小さく、哀れさを感じたらしい。
アメリカ合衆国は、白人がインディアンから奪った土地の上に建てた国との、松陰先生の話が思い出される。
今まさに膨張している、この華やかな街並みの陰で、どれだけの者が泣いているのだろうか。
目の前の明るい通りの光景からは、その様な暗い気配は隅に押しやられ、人々に認識されないモノらしい。
町を丹念に観察した者らの話を聞いていて、それを痛感した。
そして、このサンフランシスコ市が急激に膨張している理由であるが、1848年に州都であるサクラメント近郊で砂金が見つかり、ゴールドラッシュと呼ばれる狂騒劇が今も続いているのが、その主たる理由らしい。
1849年に真っ先にやって来た彼らを、アメリカ人はフォーティーナイナーズといって尊敬しているそうだ。
アメリカの東部から砂金が採れる地へと至るには、2種の海路か2種の陸路から選べるらしい。
陸路でいえば、東部からそのままアメリカ大陸を真っすぐ西に進むか、海沿いに南部へ抜け、テキサスを通って進む道だ。
船が沈没する恐れはないが、途中の砂漠や険しい山、平原ではインディアンの襲撃などもあり、危険が伴うとの事。
海路では、船に乗ったまま南アメリカの端ケープホーンを回って行く方法が一つ。
そして最後に、これは我々がこれから逆行する道であるが、東部から船でパナマへと行き、最も狭い地峡を横断して太平洋側に出て、そこから再び船でサンフランシスコへと来る方法である。
このうち、海路の場合は、共にこのサンフランシスコへと到着する。
また、アメリカから清国へと渡る連絡船は、やはりこのサンフランシスコで石炭や水といった物資の補給をするのである。
いかにこのサンフランシスコが交通の要衝かわかるだろう。
町が大きくなり続けている理由が理解出来る。
そんな事を思いながら、この日を終えた。
今日も松陰先生の到着は無い。
中略
3月10日
未だ先生の乗った船が着かない。
流石に心配であるし、使節団の中でも話題になってきた。
副使である新見様が、捨ておいての出発を堀田様に具申したそうだ。
我らの目的は物見遊山では無く、アメリカ政府へ開国を告げ国交を樹立し、締結する条約の事前交渉をする為の物である。
我が国の将来に関わる重大な問題を協議しに行くのであるから、考える時間はいくらあっても足りないだろう。
であれば、ここで徒に貴重な時間を浪費する訳にはいかず、急ぎ出立するべきだ、と。
威臨丸は事故で動けなくなったのかもしれず、修理の為ハワイに戻っている可能性もある。
もしもそうであるなら到着はいつになるのか分からない。
不幸にして遭難し、漂流しているのならば、それこそ大人しく待っても仕方がない事だ。
ここは事前の取り決め通り、残った我らで先に進むべきとのご主張であった。
冷静に考えればその通りであろう。
しかし、堀田様を始め、この使節団には松陰先生と親しくしている者が多い。
その者達は知っている。
先生がこのアメリカ渡航をどれだけ前から計画し、実現する為に血を吐く様な努力をされてきたのかを。
それこそ、幕府が計画を阻止する様な真似をすれば、薩摩と長州の持つ武力で、閉ざされた壁を打ち壊す事も厭われなかったであろう事を。
そんな先生が、アメリカを前にして遭難するなど考えられない。
あれ程恋焦がれたインドに渡らずして、海の藻屑と消える事などあり得ない。
多少時間がかかっても、待っていれば必ず、その元気な姿を見せて下さる筈だ。
私がその様な事を思っていると、意外な人物が先に進む事を訴え出た。
我らの中で最も先生の身を案じていると思われた、先生のご家族である千代姉様と梅太郎様、それにスズ姉様だ。
私は驚いて彼らを見つめた。
話を聞いて私は恥ずかしくなった。
松陰先生の教えを理解していなかったのは、他ならぬ私であったからだ。
千代姉様は言った。
待つ必要は無い事を。
そんな事をするよりも、寸暇を惜しんでそれぞれの使命を果たすべき事を。
その言葉に、先生が出発前に言われた事を思い出す。
米欧を訪問するという素晴らしい機会に感謝し、西洋列強の今をその目に焼き付け、彼らの力の源泉を見極め、今後の我が国の進むべき道を探るべし、と。
そうであった。
先生の身を案じ、この場に留まっている時間は無いのだ。
ここで無為のまま失う一日は、我が国の将来にとっての一年分にも匹敵するだろう。
進まねば。
それに、たとえ先生が遅れて到着したとしても、我らに追いつく事も可能な筈。
過剰な心配をする事なく、我らは我らのするべき事を為せば良いのだ。
堀田様もそう思われたのか、事前の取り決め通り、あと2日だけ待って出発する決定を下された。
その決定に対し、千代姉様は従わない事を高らかに宣言。
皆が唖然とする中、家族を待つのが女の使命だと断言された。
堀田様も苦笑いで了承する。
こうして、千代姉様、スズ姉様、楠本イネさん、坂本乙女、ハワイからついてきたマリアという女が残る事になった。
彼女らを分ける訳にもいかず、一人が残るなら全員一緒に残ってもらった方が安心だからだ。
男の中には不満げな者もいたが、忠震様の、女に国の行く末を案じろと言っても無理なのだから、放っておけば良いとの言葉に、それ以上口を挟む者は出なかった。
忠震様も、先生や千代姉様とは家族の様に過ごしたお人である。
先の言葉は本意ではあるまい。
その証拠に、あれやこれやと必要な物を見繕い、彼女らの為に残していく作業を率先して行っていた。
そして、女だけを異国の地に残してはおけないと、数人の者が手を挙げる。
スズ姉様と縁のある山岡鉄舟君とその義兄高橋泥舟君、同郷の者が心配だとして岩崎弥太郎君、ここで残らないのは薩摩藩士の沽券にかかわるとして指名された中村半次郎君、関係は無い様に思われたが何故か手を挙げられた一橋慶喜様とその御付2名だ。
先生が残り2日で到着されなければ、この二班に分かれて行動する事となる。
3月12日
とうとう先生一行は現れなかった。
我々は先に進むという決定に従い、直ぐに行動に移る。
千代姉様らの荷物を船から降ろし、パナマに向け出港した。
しかしその途上、私は唐突に気が付いた。
先生は必ず来るのであるから、それから後、千代姉様らは自由にアメリカを見て回れるのだという事を。
我々にはうるさ型の御目付役が多い上に、アメリカ側の歓迎からは逃れられない。
公式的な訪問団であり、我々が見たい場所を、気軽に視察に行ける事は無いのだ。
それに、夜は夜で様々な催しに招かれ、代わり映えのない退屈な挨拶を延々と聞かされる。
そして、疲れるだけのダンスに付き合わねばならないのである。
夜は英気を養って昼の視察に専念したいのに、それが出来ない!
それに比べて居残り組は、先生が現れてさえ下されば、それからはどこへ行こうが自由ではないか!
まさか千代姉様は、そこまで計算のうちだったのだろうか?
甚だ不自由な使節団に飽きて、気まままな旅が出来る可能性に賭けたのだろうか?
先生と御一緒してさえいれば、最早それだけで、日本では到底考えられない旅が待つ事は確実である。
それはもう、これまでの経験からも明らかだし、ハワイがその証明ではないか!
無論、サンフランシスコで訪れた視察先も、我が国の将来にとって貴重で重要なモノではあったし、それはこれから訪れる先でも同じだろう。
しかし、先生との旅は違うのだ。
正直、こんな型どおりの視察は、望めば誰でも追体験出来る類のモノに過ぎない。
それに比べて先生と共にいれば、望んでも決して得られない種類の出来事が待っている筈なのだ。
私は何と未熟なのだろう。
あの時、千代姉様の選択に追従しなかった私に向かい、喝を入れたい気分だ。
とはいえ、ここまで来てしまった以上、最早どうにもならない。
気持ちを切り替えて、これからの旅を全うするとしよう。
それすらも出来ない様では、松陰先生の弟子を名乗る事は出来ないのだから。
サンフランシスコの状況は、宮永孝氏の『万延元年の遣米使節団』を参考にしました。
万延元年は1860年ですので、作中はその6年前です。
1854年時点でインターナショナル・ホテルが建っていたか真偽は不明ですが、都合上登場してもらいました。
間違っていたらごめんなさい。
北緯などの数値はグーグルマップから適当に選んだ数字なので、帆船でそれはおかしいと思われたら、妥当な数値をお教え下さると助かります。
次話で残ったスズらの状況に触れ、その次で松陰らの登場となる予定です。




