兼定と虎徹
歳三はハワイの宿舎にて、愛刀の手入れをしていた。
床に正座し、左手で鞘を握り、右手で握った柄を静かに引き抜く。
鞘から開放された途端、刀身から眩しい光が零れる様な錯覚を覚えた。
開けた窓から入る、強い南国の日差しに刀をかざす。
明るい日の光の中、揺らぐ刃文が美しい。
吸い寄せられる様に思わず見とれ、手が止まる。
ハッとした様に我に返り、手入れを始めた。
拭い紙で峯の方から刀身の油を拭っていく。
刀身にポンポンと打ち粉を振り、別の拭い紙で拭き取る。
それを二、三度繰り返し、古い油を完全に除去してから、新しい油を薄くひいた。
ここで一旦刀身を鞘に納め、目釘を抜いて柄を外し、中心を出す。
切羽を外して鍔を抜き、鎺を取って愛刀を丸裸にする。
中心の表面に塗られた油を丁寧に拭い、溜まった埃を取り除いていく。
ふと、切られた銘が目に入った。
銘は宀に之。
通称ノサダと称される、刀匠和泉守兼定の打った刀だ。
切れ味における評価で最上大業物に分類される兼定は、大変な高額で売買される刀であり、大名の愛藏刀となるのが普通であった。
農民あがりの歳三が持つなど、およそ考えられない。
手に入れた時の事を思い出した。
「この度は遣米使節への入団、おめでとう。あの時の誓いを見事叶えましたね。お祝いとして、お二人にはこれを差し上げましょう。」
突然試衛館にやって来た松陰は、挨拶もそこそこに切り出した。
手には二本の刀がある。
「土方君は兼定ですね?」
「は?」
「近藤君は虎徹を!」
「何?」
二人は松陰の言葉が理解出来ず、差し出された刀を反射的に受け取った。
「中を確かめてみてはいかがです?」
「あ、あぁ。」
言われるがまま、それぞれ手の中の刀を鞘から引き抜く。
「うぉ?!」
「う、美しい……」
勇と共に息を呑む。
目利きなど出来ない二人であったが、それでも各々の刀に目を奪われた。
磨き上げられた刀身は、どこまでも澄んだ朝の空を思わせる。
寄せては返す大海の波の如き刃文は、生まれては死んでいく命の儚さを表しているかの様だ。
それは、身を斬り骨を断つ禍々しい凶器でありながら、一切の不浄を払う清明さをも宿していた。
歳三はふと気になり、目釘を抜いて中心を出す。
「これはノサダ!」
「本当か?! では、これも虎徹?」
勇も柄を外し、中心を出して銘を見る。
驚きに目を丸くした。
「虎徹も虎徹、ハコ虎とは!」
歳三の刀の銘にはノサダ、勇の物には長曽祢興里入道乕徹と切られていた。
ハコ虎とは興里作の刀剣の呼び名である。
虎の代わりに乕の字を用い、彼の作品の中でも名品が揃っている為、ハコ虎は剣士から垂涎の的となっていた。
二人は信じられない思いでそれを持って来た人物を眺める。
気になって歳三が尋ねた。
「本物なのか?」
「さあ?」
「さあって……」
「偽物か本物か、そんなに重要ですか? 刀の本質は、斬れるかどうかではないのですか?」
「そ、そりゃあそうだが……」
笑って口にする松陰に歳三も窮する。
居心地が悪くなり、手の中の兼定に視線を落とした。
歳三の疑いの視線を感じたのではなかろうが、兼定はより一層の輝きを増した様に思われた。
それは誰が打ったモノかによらず、その刀自身が宿す力に思える。
偽物か本物か詮索した自分がふと馬鹿らしくなり、思わず笑みがこぼれた。
「まあ、そうだな。刀は斬れ味こそ命だろうぜ。」
「確かにそうだ。」
勇も歳三の言葉に頷く。
「納得して頂いた所で、ちょっと試し斬りをして下さいませんか?」
「いいぜ。」
「俺もこいつの斬れ味を知りたい。」
庭に出て試し斬りが為される。
両名が振るう腕の動きに合わせ、立てられた青竹入りの畳表は、音も無くバラバラとなった。
「何と言う斬れ味!」
「凄まじい!」
見た目だけではなく、その斬れ味も隔絶したモノがあった。
「本当に貰っても良いのか?」
勇が問う。
本人ははぐらかしたが、この凄まじいばかりの斬れ味は、これが本物の虎徹だと確信させるモノがある。
もしもそうであれば、自分などは一生目にする機会など無いだろう、想像もつかない程の高値がつく品だ。
そんな代物を、祝いであれ貰い受けるなど考えられない。
遣米使節団の試験には合格したが、自分は田舎道場に属する一介の剣士に過ぎないし、くれるという相手は、子供の時分に一度出会っただけの相手なのだ。
疑うのが当然であるが、虎徹を手にした興奮からか、体の芯から立ち上ってくる熱気が抑えられない。
歳三も同様であった。
頬を上気させて見つめてくる両名に対し、松陰はニヤニヤして口にする。
「今宵の虎徹は血を欲しておる。」
「何?」
「だから、刀のお礼ですよ。虎徹を差し上げた礼として、今宵の虎徹は血を欲しておると言って下さい!」
理解出来ない言葉を放つ。
勇は混乱した。
混乱したが、そんな事で虎徹を貰えるならと思い、多少の気恥ずかしさを感じつつも口を動かす。
「こ、今宵の虎徹は、ち、血を欲しておる……」
「何を恥ずかしがっているのですか!」
ダメ出しされ、気を取り直して叫ぶ。
「今宵の虎徹は血を欲しておる!」
「宜しい!」
本物を見れたと忍び笑いを漏らしている松陰を、二人は不思議な面持ちで眺めた。
「一体何なんだ?」
「まあ、こんなスゲェ刀が手に入ったんだから、多少の事は気にしても仕方ないんじゃないか?」
「それはそうかもしれんが……」
そんなやり取りを、庭の隅からじっと見つめる目があった。
「二人だけずるいなぁ……」
「総司!?」
遣米使節団には自分も合格しているのに、一人だけ仲間外れにされていじけた総司であった。
その声に松陰も気づき、呼ぶ。
「このお二人は、私と交わした誓いを守ってくれたからですよ。沖田君には私の刀を差し上げましょう。」
「やった!」
途端に顔を綻ばせ、駆け足でやって来る。
松陰は腰に差していた刀を鞘ごと抜き、総司に手渡した。
「関の孫六です。二人の物に負けず劣らずの名刀ですね。敬親様が直々に私に下さった物ですが、正直、猫に小判です。沖田君が持っていた方が刀も喜ぶでしょう。どうぞ今後も精進して下さいね!」
「はい!」
嬉しそうに元気良く答える。
沖田総司と言えば菊一文字則宗であるが、流石に高価過ぎて諦めた。
要件が済み、退散する前に注意する。
「申し訳ありませんが、今日お渡しした物は皆さんには過ぎた代物です。まあ、今の所は、ですが。早くそれに見合う剣士になって下さいね。とはいえ、他人に喋れば間違いなく嫉妬を買うでしょう。ですので、それらは全て良く出来た偽物という事でお願いします。事実は心の中にでも仕舞っておいて下さいね。」
「心得た。」
「それが賢いだろうぜ。」
「そっかぁ、皆に自慢したかったのに、残念だなぁ……」
三者三様にそれを受け入れた。
そんな事を思い出し、歳三の口元が緩んだ。
しかしそれも一瞬の事で、再び真剣な眼差しに変わり、手入れを続ける。
掃除を終えたら鎺、切羽を挟んだ鍔を差し込み、柄に収め、新しい目釘で固定した。
手入れを終えたら鞘から刀を抜き払い、その感触を確認する。
すっかりと手に馴染んだ、いつもの兼定である。
これより人を斬る。
歳三は心の中で呟いた。
ガキの時分より周りからバラガキと言われ、様々なイザコザを経験してはいたが、真剣を持って臨む場は初めてである。
しかも相手は異国の女で、殺しを経験しているであろう相当な手練れだ。
ふと、己の死というモノを意識し、思わず心臓の鼓動が早まった。
今一度兼定を見やり、逸る心を落ち着ける。
これまでも、落ち着かぬ時は兼定を見れば、不思議と心が鎮まった。
己の命を預ける相棒は、いつもと変わらぬ清さを漂わせている。
人の命を絶つ忌まわしい存在である筈なのに、そこには命の輝きさえ感じられた。
いつ見ても、不思議な在り様である。
と、
「土方さん! 昨日の女の人から伝言をもらいました!」
総司が龍馬と共に、バタバタと帰ってきた。
歳三は刀を鞘に収め、二人に向き合う。
「まっこと歳三は隅に置けんぜよ! 昨日の今日で、ダンスに誘った女から呼ばれるんじゃき!」
「何と言っていた?」
龍馬の興奮具合は軽くかわし、先を促す。
「月が一番高く上がった時に、でしたっけ。ねえ、龍馬さん?」
「そうちや! 月の夜に男と女が外で逢う? 羨ましいぜよ!」
斬り合うんだが、羨ましいか?
歳三は声に出さずに呟いた。
「おい、歳!」
勇が鋭い声で叫ぶ。
「何だ、近藤さん?」
慌てて応えた。
しかし、勇はギロリと睨むばかりで何も言わない。
ギョロリとした目に心の中まで見られている様で、歳三は居心地が悪くなった。
弁解めいた誤魔化しの言葉を吐こうとした所、それを遮って勇が言う。
「換えた目釘を見せてみろ。」
「あ、あぁ。」
勇に言われ、歳三は交換した目釘を手渡した。
勇はそれを手の中で転がし、尋ねる。
「まだ新しいのに、どうして換えた?」
「い、いや、何となくだけどよ……」
斬り合いを前に念には念を入れ、目釘を新品に換えたのだが、それを見透かされている様で困ってしまう。
本来であれば仲間に告げるべきであろうが、なんせ相手は女であり、正直に話す事を躊躇わせた。
逆に、相手の方こそ仲間を連れてくる可能性を考慮すべきだが、何故かその危険性について考えが思い浮かばなかった。
あの女には誇りを感じたし、そんな女一人に多勢で向かう訳にもいかないだろう。
それに、負けるなど露程にも思いはしない。
そんな歳三を勇は見つめ、再び聞く。
「俺が必要か?」
「いや、大丈夫だ。」
助力の申し出をありがたく断る。
一人で出掛け、一人で帰って来るつもりだ。
きっぱりとした口調に、勇もそれ以上は口を挟まない。
そんな二人のやり取りを龍馬らが囃し立てる。
「逢引に他の男が付いていく言うんか?!」
「土方さんの方がもてるから、近藤さんが行っても仕方ないよなぁ」
「うるさい!」
勇は余計な口を利く二人を黙らせた。
月は水平線から昇ったばかりである。
対決の刻は今暫くの猶予があった。
兼定、虎徹、孫六は、ロマンという事で・・・
菊一文字則宗は、当時でも高価過ぎるみたいなので、採用を却下しました。