月下の刺客
「いつまで続くのですか!」
松陰が堪らず叫んだ。
ウンザリとした目には、握手を求めて集まった者らが作る、猫一匹も這い出る隙間も無い人垣が映っていた。
差し出される手を握り続けて、最早手の感覚は残っていない。
けれども、噴火を言い当てた予言者を一目見ようという群衆は、そう簡単には松陰を放してくれそうになかった。
「人気アイドルの握手会じゃないのですよ!」
言葉が分からないのを良い事に、彼らの目の前で堂々と愚痴を言う。
群衆はそれすら反応し、ドッと沸いた。
傍らで聞いていたロトは、松陰の口にした単語に首を傾げる。
『アイドル?』
『あ! いえ、何でもないです……』
慌てて誤魔化した。
『しかし、一躍有名人になってしまったな。』
切れ目なく現れる自国民にロトも呆れ顔だ。
王宮前の広場は、まるで年に一度のお祭りの様相を呈していた。
神への捧げ物の如く、様々な食べ物が松陰の前に運ばれてくる。
酒もふんだんに用意され、両名共に盛んに勧められた。
陽気な性格の者が多いから、こういう機会にはお祭り気分になるのだろうが、いい加減にして欲しいのが松陰らの正直な所であろう。
それに、
『アレックス王の無事が分かっておらん! 騒ぐのは、王とお妃の無事が分かってからにしろ!』
既に何度叫んだのか分からない。
予知通りにキラウエア山が噴火したが、アレックスが船で向かったのはその前日である。
威臨丸の船足の速さは驚異的だったとは言え、それでも間に合ったのかは不明だ。
ロトは考える。
間に合わなかったのなら仕方がない。
妃に迎え入れる筈だったエマを失う事は痛手だが、冷たい様だが他の相手を探せば良い。
しかし、もし仮にアレックスに何かあれば……。
『もしも王に何かあったら、それは全て私の責任です……』
ロトはギクリとした。
まるでその心中を察したかの様な、松陰の告白である。
噴火を正確に予知出来たのであるから、本来であればアレックスをハワイ島に向かわせるべきではなかっただろう。
王を補佐するロトこそ、進んで島に向かうべきだったのだ。
これで王の身に何かあれば、ロトの責任は勿論、松陰への責任の追及も避けられまい。
見方によれば、外国人が王を唆して、積極的に死地に追いやったとも見て取れる。
今の民衆の熱狂がそっくり反転し、自分と松陰を断罪する声になりかねないのだ。
目の前の群衆の興奮状態をそのままに、それが自分達に向かう場面を想像し、恐怖に駆られて思わずブルっと震えた。
しかし、直ぐに気を持ち直し、暗い顔の友人を勇気づける様に言う。
『島に向かう事を決めたのは王自身だ! 仮に何かあっても、それは君の責任では無い!』
『ありがとうございます。ですが、周りはそうは受け取らないでしょう……』
『……王の無事を祈ろう……』
『はい……』
友人の懸念通りなので、ロトは力無く呟いた。
『ちょっと手を洗ってきます。』
『大丈夫ら? 足元がふりゃついとりゅぞ?』
『そういう貴方も呂律が回っておりませんよ。』
『何を言うら! 俺はまだ飲めりゅぞ!』
『はいはい。』
酒盛りは続いていた。
南の島の夜は長い。
多くの者がへべれけになっていく中、松陰は退散する名目として用を足すため、一人宴会の場を抜け出した。
余り飲めないと固辞したが叶わず、飲めども飲めども次々と杯に注がれ、真っ直ぐに歩く事もままならない。
不幸中の幸いは、ヤシから作った酒は度数が低い事であろうか。
王宮の敷地を抜け出し、海に向かって歩く。
吹き渡る風が火照った体に気持ち良い。
夜空には月が出ているが雲もかかっており、風情ある景色の中の散歩は、さながら名画の中を歩いている様だ。
松陰の歩く後ろには、月に照らされて出来た長い影だけが付き従う。
大木が屹立し、月の光を遮る木立に差し掛かった時だった。
足元の覚束ない松陰が通り過ぎて暫くし、一つの影がスッと現れた。
息を殺し、気配を絶っているかの様なその影は、忍び足ながら素早く松陰との間を詰めていく。
影がその懐から抜き身のナイフを取り出した所で、不意に後ろから声が掛かる。
「そこで止めとけ。」
唐突に響いた聞きなれぬ言葉に、影の動きがピタリと止まった。
声の主が近いのか遠いのか、それすらも判然としない。
不用意には動けず、固まる。
チラッと素早く視線を動かし、松陰の後ろ姿を目で追った。
声に気づいていないのか、千鳥足のままどんどんと遠ざかっていく。
影は松陰を追うのを諦めたのか、それとも別の思惑があるのか、出したナイフを戻し、注意深く辺りに気を配りながら体の向きを変えた。
キョロキョロとするまでもなく声の主を探しだす。
木立の間に、一人の男が立っていた。
服装は影が追っていた日本人と同じで、腰にも同じ様に大小の棒を差している。
刀と呼ばれる近接武器である事は知っていた。
男は左手でその一本を握り、右手を左手近くにかざしている。
いつでも抜く事が出来る様に、だろう。
立ち姿に緊張は見られず、自然なままその場にいる風で、片時も油断ならぬ男だと感じる。
暗さでその表情はしかとは掴めなかったが、心なしか楽し気に感じられた。
影は気を緩める事なく、気づかれない様に、上着の内ポケットに入れたままの右手に力を込めた。
「テメェ、やり慣れてやがるな……」
男には見破られていた様で、再び影には理解出来ぬ言葉を発し、かざしていた右手で刀を掴み、鞘から一気に引き抜いた。
そのまま流れる動作で両手に持ち替え、影に向き合う。
極々自然な動作であり、何万回と繰り返した所作であろう事が見て取れた。
刀の刃先は真っすぐに自分へと伸びている。
雲の切れ目から覗く月が、刀の上に一筋の光を降り注ぐ。
月の光を浴び、刀身が暗闇から妖しく浮き上がった。
一種幻想的な光景に、影は場違いとも言える感想を抱く。
美しい、と。
しかしハッと我に返り、素早くナイフを取り出した。
獲物の差は歴然である。
けれども、それを抜きにしても厄介な相手だと悟り、面倒な事になったと心の中で愚痴った。
「威嚇だけにしろと言われたけどよ、歯向かうなら遠慮はいらねぇよな?」
男がニィと笑う。
途端に影の背中に悪寒が走る。
本能が危険を察知し、ガバッと一瞬にして距離を取った。
その身のこなしを見れば、相当な手練れである事が分かる。
「何だよ? やるんじゃねぇのか?」
男はそう口にし、一歩その足を進めた。
影はそれに合わせる様に後退する。
男がまた一歩足を進め、影はまた距離を取り、ついには身を翻して闇へと消えていった。
それ以上追う事はせず、男がその場で呟く。
「結局逃げやがったか……」
予想通りではあったが、若干拍子抜けもした。
「しかし、異国にもつえぇ奴はいるんだなぁ」
驚きなのか喜びなのか、月が隠れた闇の中では分からない。
「しかも、あれは女だったよな?」
はっきりとは断言出来ないが、目つきや体つきからそう思う。
「女で、真剣を前に怯みもしねぇし、やり慣れてる、だぁ? やべぇ匂いがプンプンしやがるぜ!」
言葉とは裏腹に、心は期待に満ちていた。
「うーん、吉乃さん、もう飲めません……」
「おい! どこで寝てんだよ!」
歳三は砂浜で寝転がっていた松陰を蹴飛ばした。
南の島とはいえ、こんな所で寝ていては風邪をひくだろう。
松陰の目が覚める。
「……あれ? ここは?」
「テメェが浜に来たんだろうが! とっとと帰るぞ!」
「痛い! 分かったから、そんなに蹴らないで下さいよ!」
酔いの醒め切っていない松陰を促し、宿舎へと歩かせた。
夜が明け、幾分落ち着いた民衆の前に日本丸と瑞穂丸が現れた。
日の丸を掲げて堂々と入港する船に、真珠湾は大歓声に包まれる。
ハワイ側から祝砲が上げられ、返礼としてなのだろうか、二隻の船から花火が上がった。
湾内にて停船し、降ろされた小舟に分乗して岸へと進む。
船着き場は、まるで出発時の江戸の様な賑わいを見せていた。
「これはこれは。熱烈な歓迎ぶり痛み入るのう。」
正使である正睦が眼前の光景を眺め、感無量という表情で述べた。
「お祭り騒ぎですな。民草はいずこも似ておるという事でしょう。」
忠震が冷静に分析してみせる。
「しかし、湾のどこにも威臨丸がいないな。吉田の事だから、てっきり先に来ておると思ったが……」
「あやつが我らを殊勝に待つ筈などございませぬから、いないという事はまだ着いていないのでしょう。」
「船足はあちらの方が早い筈なのにのう……」
不思議そうな顔をする。
そうこうしている間にも、小舟は船着き場に到着した。
正睦ら一行は地元民の盛大な出迎えを受ける。
その中に、地面に正座して待つ者がいた。
よく見ると見覚えのある恰好だ。
驚いて声を掛ける前に、機先を制してその者が挨拶を述べる。
「堀田様! お待ちしておりました!」
「やはり吉田か! 威臨丸はどうしたのだ?」
顔を上げたのは思った通り、咸臨丸に乗っている筈の松陰だ。
正睦の質問に答える。
「一言では語れない事態となっておりまして、威臨丸はここにはおりません。」
「吉田よ、また何か仕出かしたのか?!」
「またとは人聞きが悪いですね……」
「いや、その通りだろ!」
正睦の言葉を聞き咎めたが、後ろの歳三が小声でツッコミを入れる。
すると、埋め尽くす観衆から一段と大きな歓声が上がった。
口々に、
『アレックス王だ!』
『おい! お妃様もいるぞ!』
『二人とも無事だったんだ!』
『良かった!』
と盛んに叫んでいる。
喜んだ松陰は、正睦らの応対をそこそこに、船着き場へと走った。
日本丸、瑞穂丸からの小舟は多い。
懐かしささえ感じる面々が続々とハワイに上陸していた。
「松先生!」
松陰を目ざとく見つけたスズが声を上げ、人込みの中を器用にすり抜けて駆け寄った。
「スズ! 良く来たね!」
「ふふっ。初めて団子岩のお家に来た時みたい。」
子供の頃を思い出し、スズは微笑んだ。
その笑顔にドギマギする。
しかし、船の汽笛にすぐに大切な事を思い出す。
「そんな場合では無かった! アレックス王!」
「先生?!」
叫ぶなり船着き場の先端に走った。
すれ違う者は皆松陰に声を掛けたが、それに上の空で応える。
沖からは、疲労困憊と言いたげな威臨丸が、息も絶え絶えな様子で海面を進んで来ていた。
その舳先には、こちらを見つけたのか、盛んに手を振るアレックスの姿が見える。
そんな彼の横には、ピッタリと寄り沿う様に一人の女性が立っていた。
『アレックスはエマを救った様だな。』
いつの間に来ていたのか、隣りのロトが感慨深げに口にする。
『そうですか、間に合ったのですね。良かったぁ……』
松陰もホッと胸を撫で下ろした。
追い付いたスズが尋ねる。
「松先生? あれって一体誰なの?」
「あれはこの国の王様ですよ。」
「王様?!」
松陰の答えに周りは驚愕する。
そして後日、事の経緯を詳しく聞き及び、更に驚くのだった。
オアフ島は、日本で言えば盆と正月がいっぺんにやって来た様な、特別な日を迎えた。




