遣米使節団、出港す
「元気そうじゃな、七郎。」
「はっ! 父上もお変わりなく、何よりでございます。」
江戸の水戸藩邸で斉昭、慶喜父子が対面していた。
一橋家を継いだ慶喜であったが、斉昭の強い後押しによって、今回の遣米使節に参加する事が決まっている。
「して七郎。お前をアメリカに行かせる目的は理解しておるか?」
「はい。東湖より聞いております。」
「では、申してみよ。」
「はっ!」
慶喜は一呼吸おき、口を開く。
「鎖国という祖法を破り、国を開く事を選択した我が国は、未曾有の変化の時を迎えつつあります。西洋国家の脅威は刻一刻と迫り、もはや悠長に構えている事は出来ません。軍事的な彼我の差は大きく、このままでは、我が国は清国と同じ道を辿ってしまうでしょう。」
淀みなく説明していく慶喜であった。
「神国日本を守る為には何をするべきか? まずは彼我の差を認識する事です。何が優れ、何が劣るのか、己の目で見て、肌で感じて来る事です。」
「うむ。」
「優れている所は更に伸ばし、劣っている所は補えば良い。買える物なら購入し、研究して己の物とします。素晴らしいと思える制度であれば参考にして取り入れ、彼我の差を埋めていくのです。」
「成る程。」
「西洋人とて同じ人です。彼らに出来て我らに出来ぬ道理はありません。」
力強く言い切る。
「此度の派遣は、我が国の開国を伝えに行くのが主たる目的ではあります。ですがより大切なのは、西洋の在り様を我ら自身が見て、聞いて、感じて来る事でしょう。伝え聞く事だけでは、西洋の本当の姿が見えてきませんから。」
「よく理解しておる様じゃな。では、これからの我が国の歩む方向を示しておこうかのぅ。」
「と言いますと?」
息子の返答に満足した斉昭は、懐から紙を取り出し、置く。
「これは?」
「まずは読んでみよ。」
そう言って慶喜に読ませた。
慶喜は表紙に書かれている文字を拾う。
「新生日本の在り方、ですか?」
「そうじゃ。まあ、読め。」
促され、ページをめくった。
途端、驚きに目を見開く。
そんな息子の様子を斉昭は楽しそうに眺めた。
「本気ですか、父上?」
読み終えた慶喜が伺う様に父を見上げる。
下手な事を言っては不味いと思ったのかもしれない。
しかし、斉昭の表情はいたって真剣なモノであり、冗談を言っている訳ではなさそうだ。
現に、
「幕府による政を終わらせ、天皇の下に国を一つに纏めるのじゃ! その旗振り役は、勤皇を説く水戸学を修めた我が藩しか無い!」
と断言した事から、慶喜は父の本気を理解した。
「しかし父上、よりにもよって徳川の御三家である我らが、徳川の世を終わらせるなどと、口にしても宜しいのですか?」
それは冊子に書かれていた事であった。
幕府を解体し、議会という統治機関を設け、この国の運営に当たるらしい。
しかし、人に聞かれれば誤解される内容である。
慶喜は人目を憚る様に小声となった。
しかし斉昭は、息子の懸念に構う事は無く言い切る。
「全ては攘夷の為である! 徳川の世を後生大事に守って、異国に我が国を蹂躙されるなど本末転倒じゃ! 我が国の富を手中にせんとする、貪欲なる異国を打ち払う為にも、我が国は一つにならねばならぬのじゃ! 藩を解体し、統一国家としての新たな体制を作らねば、既に国家としての力を蓄えた西洋の列強には対抗出来ぬ!」
「な、成る程!」
斉昭の断言に慶喜も頷いた。
その英明さを期待され、幼くして一橋家を継いだ慶喜である。
父の言葉の意味する所をたちどころに理解した。
深く頷く息子に満足し、指示する。
「七郎よ! お前は此度の使節団参加者を味方につけておくのじゃ!」
「と、言いますと?」
「今回参加する者達は、次代を担う人材ばかりである! 徳川の世が終わり、新しい体制が始まったとして、それは誰が率いる? 天皇の下に国を纏めた所で、今更大昔の様に政を行ってもらう訳にもいかぬ。世の中は複雑となり、一人が見る事の出来る範囲を大きく超えておるからじゃ!」
「君臨すれども統治せず……」
冊子にあった一文を慶喜が口にした。
斉昭は頷き、続ける。
「議会を設置し、選ばれた議員が議論によってこの国の政策、法を決めていく。しかし、それは今すぐには無理じゃ。用意も無いのに取り入れては、要らぬ混乱を招くだけであろう。当面は能力のある者が担うしかあるまい!」
「それがまさか、此度の遣米使節団なのですか?!」
慶喜の言葉に斉昭はニヤリと笑う。
「仮にそうだとして、お前も入ってはおらなんだか?」
父の言葉に息子は呻いた。
「父上はこの私めに、神君家康公のお作りになられた徳川の世に引導を渡し、新たな国を作れと仰るのですか?」
「異国にせよ外様にせよ、外からの圧力に負けて徳川の世が終わるなど、御三家の一つとして到底受け入れられぬ! ならば自ら手を下し、有終の美を飾るしかあるまい。しかし政に空白は生じさせられぬ。次をしっかりと準備して、万事抜かりなく幕を引くのじゃ!」
子の心中など慮る事もなく、斉昭はあっさりと言いのけた。
「旅の間に、しっかりと人心を掌握しておくのじゃ! いずれお前が上に立つ時、手足となって働く者ばかりだからのぅ」
そう言って笑う父親を、慶喜は呆然と眺めた。
ようやく慶喜の心が落ち着いた頃、ふと思い出した様に斉昭が言う。
「大事な事を忘れておった! 我が国に横たわる危機に劣らぬ、大切で切実な使命があったのじゃ!」
「我が国の危機に劣らぬ?! 何でございましょう?」
慶喜は緊張して構えた。
日本の危機に劣らぬ事とは何であろう。
「それは生ハムじゃ!」
「な、なまはむ? それは一体何でござますか?」
聞いた事の無い言葉に怪訝そうな顔をする。
我が意を得たとばかり、斉昭が得意そうに説明を始めた。
「生ハムとは豚のもも肉から作った食べ物じゃ! どんぐりを食べさせて大きく育てた豚の肉を使い、冷暗所で長期間熟成させて作るらしい。黴を生えさせて乾燥させるらしいが、それだけ聞けば鰹節と似ておるな。けれども、鰹節は煮た鰹を用いるが、生ハムは生のまま使う所が違うかのぅ。」
「えっと、食べ物なのでございますか?」
日本の危機に劣らぬ大事な事と聞いていたのに、まさか食べ物の事とは思わず、慶喜は拍子抜けする。
そんな息子の様子に、冗談ではないのだぞとでも言うかの如く、斉昭が言葉を重ねた。
「あやつに任せておったら心許ないのじゃ! なんせ、向こうに行けばカレーの事で頭が一杯じゃろうしのぅ。であるから、お前がしっかりと生ハムの製法を調べて来るのじゃ! 豚肉はお前も大好きであろう?」
「まあ、好物と言えば好物ですが……。しかし、あやつとは誰です? 父上にそのなまはむとやらを教えた人物ですか?」
「そういう事じゃが、その様な事はどうでも良い! 父である儂たっての頼みを聞けぬと申すか?」
斉昭が若干イライラして言った。
気は長い方ではない。
息子もそれは分かっている。
「まさか! 喜んで拝命致します。」
「ならば宜しい。今日はお前に生姜焼きとトンポーローを馳走してやろう!」
「生姜焼き? とんぽーろーでございますか?」
「そうじゃ。それを食べれば、お前も生ハムの重大さを理解する筈じゃ!」
「な、成る程……」
そして食事時。
「何だこれは?!」
一口食べ、驚く。
「どうだ? 生ハムはこれに劣らぬ美味さという事じゃ。」
「これは是非とも学ばなければなりませんね……」
「くっくっく、頼もしい事じゃ。必ず成し遂げるのじゃぞ?」
「お任せ下さい!」
斉昭の思惑は成った。
使節団が出港に向けた最後の訓練に勤しんでいる頃、世間を騒がす報せが走る。
将軍家慶が、その地位を譲る事となったのだ。
そして、後継者である家定の、第13代征夷大将軍への就任が決まった。
江戸の町が祝いの空気に包まれる中、江戸城にて家定の就任式が大々的に執り行われた。
将軍家定の就任後の初仕事は、遣米使節団を送り出す事である。
団員の主だった者らが江戸城に呼ばれ、家定の命が下された。
畏まりつつ承り、船出の準備を進める。
食料や水、土産の品々を積み込み、風を待った。
そして遂に、その日が訪れる。
西暦1854年、嘉永6年、アメリカに向け、使節団が送られた。
正使、堀田相模守正睦(44歳)
副使、新見豊前守正興(32)
同、村垣淡路守範正(41)
一橋家
一橋慶喜(17)
従者、平岡円四郎(32)、原市之進(24)
幕臣、御家人
内山彦次郎(57)、水野忠徳(44)、永井尚志(38)、大久保忠寛(37)、岩瀬忠震(36)、栗本鋤雲(32)、勝海舟(31)、小栗忠順(27)、木村芥舟(24)、高橋泥舟(19)、山岡鉄舟(18)、矢田堀鴻(25)、榎本武揚(18)、大鳥圭介(21)、津田真道(25)、中村正直(22)、中浜万次郎(27)、赤松則良(13)
計算方
小野友五郎(37)
技術方
麟州こと島津斉彬(45)、鍋島茂義(54)、田中久重(55)、嘉蔵改め前原巧山(42)、村田蔵六(30)、小沢一仙(24)、大野弁吉(53)
医師
多岐元琰(30)、松本良順(22)、伊東玄朴(53)、関寛斎(24)、楠本イネ(27)
長州藩
吉田松陰(24)、杉梅太郎(26)、杉千代(22)、吉田スズ(21)、桂小五郎(21)、高杉晋作(15)、楫取素彦(25)、久坂玄瑞(14)、吉田稔麿(13)、入江九一(17)、前原一誠(20)、三吉慎蔵(23)、井上馨(19)、松島剛三(29)、山県有朋(16)、伊藤博文(13)、金子重之助(23)
薩摩藩
西郷隆盛(27)、大久保利通(24)、小松帯刀(19)、大山綱良(29)、吉井友実(26)、伊地知正治(26)、黒田清隆(14)、大山巌(12)、篠原国幹(18)、川路利良(20)、野津鎮雄(19)、村田新八(18)、五代友厚(19)、松方正義(19)、中村半次郎(16)
土佐藩
坂本龍馬(19)、坂本乙女(22)、武市半平太(25)、中岡慎太郎(16)、岡田以蔵(16)、長岡謙吉(20)、板垣退助(17)、後藤象二郎(16)、岩崎弥太郎(20)、福岡孝弟(19)、近藤長次郎(16)、間崎哲馬(20)、河田小龍(30)、望月亀弥太(16)、佐々木高行(24)
佐賀藩
江藤新平(20)、大隈重信(16)、副島種臣(26)、
佐野常民(31)、島義勇(32)、大木喬任(22)
水戸藩
安島帯刀(42)、藤田小四郎(12)、武田彦衛門(32)、住谷寅之介(36)、大胡聿蔵(32)
熊本藩
横井小楠(45)、宮部鼎蔵(34)
越前藩
由利公正(25)、橋本佐内(20)
会津藩
西郷頼母(24)、佐川官兵衛(23)、秋月悌次郎(30)、佐々木只三郎(21)
諸藩から
佐久間象山(43)、大島高任(28)、頼三樹三郎(29)、梅田雲浜(39)、清河八郎(24)、相楽総三(15)、渋沢栄一(14)、渋沢成一郎(16)、福沢諭吉(19)、西周(25)、近藤勇(20)、芹沢鴨(28)、土方歳三(19)、山南敬助(21)、伊藤甲子太郎(19)、沖田総司(12)、永倉新八(15)、河井継之助(27)、二見虎三郎(?)、小林虎三郎(26)、西村茂樹(26)、星恂太郎(14)、細谷直英(15)、千葉栄次郎(21)、榊原鍵吉(24)、桃井春蔵(29)、清水次郎長(34)、濱口梧陵(34)、森の石松(?)、宇都宮黙霖(30)
朝廷
岩倉具視(29)、三条実美(17)、姉小路公知(15)
以上の者である。
使節団の人選ですが、12歳より下の者は選びませんでした。
陸奥宗光などは残念でしたが、公式な派遣ですから、余りに若過ぎるのもどうかと思った次第です。
一応、元服の12歳を目安にしました。
11歳も10歳も、あんまり変わりませんが・・・
これにて第一部を完結とさせて頂きます。
引き続き第二部を始めますが、前もってご注意させて頂きます。
第二部は主としてアメリカが舞台となりますが、当時のアメリカは人種差別の真っ最中です。
時代にあった表現として「黒んぼ」「インディアン」、また、彼らを侮蔑する物言い等、今では使用する事が憚られるセリフが多々出てきます。
殺人や私刑といった残虐なシーンも出る予定です。
その様なシーンがある場合は前書きでその旨表記するつもりですが、差別的な言葉は予告なく使うと思います。
その様な表現、シーンが苦手な方は、予めご注意下さいませ。
なお、作者には差別を助長する意図は全くございません。
あくまでそういう時代であったからと言う事で、やむなく使用しております。
また、これまでも史実を無視してはおりますが、アメリカではそれが顕著になるかと思います。
実際にあった出来事、事件をベースにしてはおりますが、発生年月や登場人物、場所等は変更しています。
予めご容赦下さいますよう、お願い致します。




