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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
幕末の始まり編
176/239

出港前の出来事

 「お父様、お母様! 蒸気機関車がやって来ました!」

 「おお!」

 「待ちくたびれたわねぇ」

 

 娘の声に、居合わせた家族らは一斉に目を凝らした。

 視線の先には日の光を浴びて鈍く輝き、どこまでも真っ直ぐに伸びた二本の黒鉄くろがねがある。

 その線が延びた先から、煙をモクモクと上げて近づいてくる小さな影が見えた。 

 影は次第次第と大きくなり、やがてその巨体を横浜の駅に横たえた。

 

 プシューという音を大量の湯気と共に吐き出し、列車は止まる。

 同時に、辺りは大きな歓声に包まれた。

 集まった子供達はワクワクした表情で列車を取り囲み、運転席から顔を覗かせた運転士を尊敬の眼差しで眺めた。

 大人達はと言えば、あんぐりと口を大きく開けて見つめる者、興奮して隣と話し込む者、恐怖で身が固まる者など、およそ平静を保っている者は見当たらない。

 郷里でも大きな話題となっていた、江戸と横浜を繋ぐ蒸気機関車という鉄製のカラクリに、皆度肝を抜かれていた。


 「しかし、よくもまあ、この様な物を作り上げたものだ!」

 「流石、松兄様ですね!」

 「これふみ! その様な事を言うでない! あらぬ誤解をされてしまうぞ!」

 「はい、すみません!」


 父親にたしなめられ、文は頭を掻く。

 百合之介の懸念も分かるが、全ては兄である松陰の発案である事は知っているので、誰彼構わず自慢したいくらいに誇らしい気分で一杯だった。

 郷里を出る際の、見送りの友人達の羨望の眼差しを思い出す。

 江戸へ行く事だけでも羨ましがられたのに、何と蒸気機関車にまで乗れるのだ。

 帰ったら質問攻めに遭うなと思い、何を聞かれて良い様に、列車の姿をその目に焼き付けようとした。


 「オラ達なんかが江戸まで来れるなんて、今でも夢のようでやす……。熊吉が松陰先生に拾ってもらわなんだら、一生叶わない事でやした……」


 熊吉の父親がぽつりと呟いた。


 「何を言うのですか! 熊吉君には私も大いに助けられましたし、何も不思議はありません! それに、熊吉君が脚気の特効薬を見つけたと言う話ではありませんか!」

 「全部、松陰先生のお陰でやしょう。ナンマンダブ、ナンマンダブ……」

 「……」


 念仏を唱え始めた彼に、百合之介はそれ以上言うのを諦めた。


 「しかし、私まで江戸へ向かえるとは、些か驚きましたぞ。」

 「何を言うか文之進。此度の派遣団には、そなたの推薦した者が多く入っているのだろう?」

 「まあ、松下村塾の選りすぐりを送り出しましたからな!」

 

 文之進は自負があるのか、誇らしげに胸を反らす。

 萩で吉田松陰の名を知らぬ者のいない。

 その彼を指導したと言う事で、玉木文之進の名も有名になっていた。

 屋敷のある松本村に塾を開き、松下村塾と名付け、身分を問わずに広く子供達を集め、松陰に施したのと同じ苛烈な教育を実施していた。

 アメリカに派遣する団員を募集するという話を聞き及び、どこに出しても恥ずかしくない者を選び、江戸へと送り出したのだ。


 今回、藩主敬親の計らいによって、使節団の出発を藩として見送りに行く事が決められた。

 長州藩士が数多く選ばれた事が理由の一つだ。

 その際、団員の家族も江戸に招待された。

 当時、地方に住む者にとって、江戸に行くのは大きな憧れである。

 しかし、かかる費用を考えれば、日々の生活すら苦しい者達には遠い夢でしかない。

 けれども、思いもかけずにそれが叶い、多くの者が涙を流して喜ぶのだった。


 「蒸気船であっという間に横浜に着き、蒸気機関車に乗って江戸まで向かうとは……。何という時代になったのでしょうな……」


 感慨深げに文之進が言う。

 萩から蒸気船に乗り込み、数日のうちに横浜へと到着した。

 足で走破した昔を思えば運泥の差である。 

 文之進の言葉に百合之介も考え込んだ。


 「それどころでは無いだろう? 国を開いてアメリカに渡るなど! しかもその使節団に、我が子が三人も入っておるとは!」

 「そうでしたな。一人ならば誇らしいかもしれませんが、三人となると変に勘ぐる者もいるでしょうな。」

 「あの子達の事を知らぬから、好きな事が言えるのだ……」

 「まさしく。」


 兄の言葉に弟は大きく頷く。


 「それに、全てあの日から始まっている事など、誰に言った所で信じてはもらえまい……」

 「お告げの通りになった……。いや、したのでしょうか?」

 「したなどと! それに、国を開く事さえ、ほんの序の口だぞ?」

 「そうでしたな……。全く、この国は今後どうなるのやら……」

 「少なくとも、私の想像を超えているのは確かだ……」

 「それは言えております……」


 天からお告げがあったと松陰が口走った日から、二人の人生は元より、長州藩も、更には日本さえもその姿を大きく変えてしまった。

 お告げの通りに物事が進んでいる事を二人は恐れ、松陰の日頃の言動から察せられる、この国の行く末に思いを馳せた。

 それは憂慮であろう筈なのだが、浮かんだのは困惑だった。 


 「しかし、どうにも食べ物の事を口走っていた記憶ばかりが思い出されるのだが、気のせいだろうか?」

 「奇遇ですな、私もです。」

 「……はぁ……」

 

 まるで蒸気機関車が余分な蒸気を吐き出す様に、大きな溜息をつく二人だった。




 一方、その溜息を向けられた人物は。


 「こんにちは、お菊さん。あれはどんな具合ですか?」

 「任せとき! ばっちり出来てるで!」


 松陰は家族が江戸に着く前に、お菊の宅を訪ねていた。

 彼女の住まいは彦根藩屋敷の端に建つ、簡素な造りの離れである。

 側室の待遇など歯牙にもかけず、好きな鉄砲鍛冶を続けていた。


 お菊が部屋の奥から布に包まれた物を持って来る。

 手渡された松陰は、早速包みを開けて中を確かめた。

 黒く光る鉄の塊であるそれは、ずっしりとした重さであった。

 前世で見た西部劇でお馴染みの、シングル・アクションの拳銃である。 

 渡米に際し、お菊に注文して開発してもらったのだ。

  

 松陰はグリップを握り、シリンダーに弾が入っていない事を確認する。

 構え、撃鉄を起こす。

 それに合わせてシリンダーが回転し、ゆっくりと引き絞る様に引き金を引いた。

 バネの力で撃鉄がカチリと落ちる。

 何度かその動作を繰り返した。


 「これは見事なリボルバーです!」

 「苦労したでぇ。なぁ、藤丸ちゃん?」

 「そうですね、母上!」

 「才次郎だって手伝ったよ!」

 「そうやったなぁ。ありがとな、才次郎ちゃん!」

 「えへへ!」


 直弼とお菊の次男である才次郎が笑った。

 そんな次男坊はさておき、撃鉄の動きに合わせてシリンダーを回転させるのが大変だっただの、バネの力が不十分で思うように動作しなかっただの、強度の確保と重量の軽減の両立に苦労しただの、技術者達は製作上のあれこれを口にする。

 10歳にしていっぱしの鉄砲鍛冶の仕事をこなす藤丸は、確かに国友一貫斎の血を引く者であろう。 

 製作者の苦労は兎も角、リボルバーの出来は素晴らしく、不完全な松陰の知識を技術でカバーした、職人技の光る逸品であった。


 「弾も用意して貰ったんやけど、規格通りの物は百発が限度やったわ……」

 「十分です! 戦いに行く訳ではありませんからね!」


 松陰が言いきる。

 その度の渡米は、日本の開国を諸外国に正式に伝えると共に、国際社会へのデビューを宣言する為である。

 拳銃は、剣の腕に自信の無い松陰が護身用として持つのだが、外交団に対して害意を向ける者などそうそういないだろう。

 けれどもペリーに見せびらかす可能性も考え、わざわざ用意してもらったのだ。


 「せやけど、とうとうアメリカに行くんやねぇ、松陰君は。」

 「長かったです……」

 「ずっと言っとったもんねぇ」

 「その通りです! やっと! やっとなのです! 遂にアメリカに手が届く所まで漕ぎつけました! アメリカにさえ行ければヨーロッパはすぐです! そして、その旅の暁には、私の悲願であり宿願である、聖地インドへと至るのです!」

 「松陰君は変わらんなぁ……」

 「勿論ですとも!」


 出会った頃より同じ事を言い続けている松陰に、お菊は思わず微笑んだ。


 「それはそうと、スズちゃんも千代ちゃんも行くんやねぇ。台湾の時と同じやんなぁ。せや! ウチも連れていって貰う訳にはいかんの?」

 「母上、私も行きとうございます!」

 「やなぁ。藤丸ちゃんもアメリカに行きたいよなぁ!」

 「お菊さんの場合は直弼様が許されないでしょうし、藤丸君は小さ過ぎるので却下です。」

 「つれないなぁ……」

 「そんなぁ……」

 「あめりかって何?」

 

 母子は残念そうな顔をした。


 「まあ、藤丸ちゃんはこれから機会があるやろうけどな。」

 「はい!」

 「才次郎は?」

 「せやな。才次郎もなぁ。」

 「やったぁ!」


 無邪気な次男に松陰の顔も緩んだ。


 「ほな、母ちゃんは松陰君に大事な話があるさかい、二人は向こうで遊んでてな。」 

 「分かりました、母上! ほら、才次郎、行くよ!」

 「はぁい……」


 子供達が去り、お菊は松陰に向き合い、切り出した。


 「吉乃ちゃんとはどないなん?」

 「……やはり、寂しいですよね……」

 「そうやのうて、やや子はまだなん?」

 「残念ながら、まだです。妊娠はしているのですが……」

 「そうなんか……」


 吉乃の前身を知っているだけに、幸せになってもらいたいお菊である。


 「なあ、松陰君?」

 「何でしょう?」

 「吉乃ちゃんに子供ができへん理由ってあるん?」

 「私のせいかもしれませんし、吉乃さんの体質かもしれません。でも、一番の理由は、長い間白粉を使っていた事による、鉛の影響ではないかと……」

 「そんなん、一緒になってから使ってないんやろ?」

 「それはそうですが……」


 専門的な知識のない松陰には、理由など見当もつかなかった。

 そんな松陰にお菊が口を開く。


 「あんなぁ、ウチには一つだけ思い当たる事があんねん。」 

 「えぇ?! それは何ですか?」 


 お菊の言葉に勢い込んで問い返した。

 しかしお菊は、はぐらかす様に逆に尋ねる。


 「松陰君は、どないな女が夜叉になると思う?」

 「夜叉、ですか? えぇと、情けが深い人、でしょうか……」

 「そうやなぁ。情けが深い、一途な女やから、嫉妬で夜叉になるねん。」

 「吉乃さんが夜叉になると?」

 「そうやのうて、吉乃ちゃんは他の女に嫉妬されとるんやないんかなぁと思うねん。」

 「吉乃さんが嫉妬されている? でも、誰にですか?」


 訳が分からず、松陰はお菊に聞くばかり。


 「松陰君が言ってたやん? ずっと松陰君の為に祈っとる女がおるんやろ? ほんま情けが深い、一途な女やねぇ。けど、松陰君は吉乃ちゃんと所帯を持った訳やん? 嫉妬してるんちゃうん? 一途なんやろうし、浮気した松陰君を憎む事はせえへんやろうけど、悪い感情は吉乃ちゃんに向かうんやないの?」

 「カレーの妖精さんが? まさか!」

 「まさか言うてる時点で女の事を分かってないやん。女がニコニコ笑ろうてる時ほど、心は何を考えとるか分からんでぇ」

 「いや、しかし、そんな事が……」

 「ま、女の勘っちゅうやつやさかい、本気にせんでえぇで。けどな、これだけは言えるで?」

 「な、何でしょう?」


 グビリと唾を飲み込んで言葉を待った。


 「インドにおる言う、松陰君の思い人の事や。必ず見つけ出すつもりなんよね?」

 「勿論です! 私の為に今も罪を償っている筈ですから!」

 「その辺は松陰君の言う事やからツッコミは入れへんけど、見つけ出してどないするん?」

 「そ、それは、私の為にカレーを作ってくれればと思ってますが……」

 「それってつまり、妾にするって事なん?」

 「いえ、そうと決まった訳では無いのですが……」

 「そないないい加減な事でええの?」

 「それは……」

 

 お菊の追及に言葉を濁す。

 妖精さんを見つけ出すつもりではあったが、それからどうするのかは、会ってみない事には分からないと考えていた。

 けれども、改めて聞かれると優柔不断に思える。


 「ウチが言いたいのはそこやねん。優しい松陰君の事やから吉乃ちゃんを嫁にしたんやろうし、インドにおる子も救いたいんよね? けどな、両方とも自分で幸せにしたいなんて思わん方がええで?」

 「どうしてですか?」


 思わず聞き返した。


 「どっちも一途やからや。正妻と妾なんてな、片方が割り切っとらんと普通は無理やで。家の存続の為か知らん。生活の為かも知れん。けどな、目的の為に自分を抑えられん女にはどちらもでけへんで。吉乃ちゃんもインドの子も、どっちにも無理なんやないんかなぁ」

 「そう、かもしれませんね……」


 松陰は納得した。

 

 「でな、松陰君にインドの子を捨てられる訳がないんよ。だって、カレーの為に松陰君は生きとるんやろ?」

 「ま、まあ……」

 「その為にインドに行くんやもんね?」

 「そう、です……」

 「だったら決まりや! 出発の前に、きっちり吉乃ちゃんと離縁するんや! それが吉乃ちゃんの為やで? ウダウダしてたら、きっと二人とも不幸になる! 心配せぇへんでも、吉乃ちゃんやったら引く手あまたや! 吉乃ちゃんの為に松陰君が泥を被るのが、男の優しさってもんやろ?」

 「そう、ですね……」


 入ってきた時とは打って変わり、元気無くお菊の宅を辞した。


 松陰は道すがら、お菊の言葉を反芻しながら、拳銃を懐に入れたままで帰宅した。

 研修が終わり、江戸に住む者はそれぞれの住まいに戻り、出発までの時間を家族と過ごしている。

 地方の者はそれぞれの藩邸だったり、横浜の外国人居留地で、上京してきた家族との団らんを楽しんでいた。


 「とうとうアメリカに行きなんすね……」


 食事が終わり、吉乃がポツリと口にする。


 「ええ。今回は、いつも以上に長く家を空ける事になります……」

 「そう……」 


 松陰の応えに吉乃は俯いた。

 会話が途切れる。

 暫く無言の間が続き、遂に松陰は意を決し、口を開く。


 「吉乃さんに話があります。」

 「何でござんす?」

 「私が今回アメリカに行くのは、勿論この国の未来の為です。」

 「ええ。」


 吉乃が頷く。


 「ですが、他にも目的があります。」

 「カレー……」

 「どうしてそれを?!」


 ビックリとして妻の顔を凝視した。


 「夜な夜なうわ言で口に……」

 「そうでしたか……」


 その答えに納得し、言葉を続ける。


 「カレーの目的地はインドなのですが、実はそのインドで」

 「やめなんし!」


 吉乃が遮った。 

 勢い込んで喋る。


 「松陰さんがインドでやりたい事も分かってござんす!」

 「え?」

 「想い人を探しんすね? それが松陰さんでござんすから、わっちには何も言えん! やけんど、やっぱりわっちには耐えられん!」


 思いつめた顔で言った。


 そして、松陰と吉乃夫婦は縁を切った。

 使節団が出発する、ほんの数日前の事である。

次話、アメリカに向け出発します。

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