派遣前訓練その二
今年もよろしくお願いします。
「それでは本日からアメリカ滞在時におけるマナー、つまり時と場に応じた振る舞いについて学んで頂きます。マナーがなっていないと、日本人は野蛮人だと思われてしまいますからご注意下さい。」
一同は迎賓館の大ホールに集まっていた。
舞踏会用のスペースを持った空間である。
「では、講師の方をご紹介しましょう。漁の最中に嵐に遭い、遭難している所をアメリカ人に助けられ、かの国で学校に通われた中浜万次郎先生です!」
忠寛の紹介に一人の男が進み出てくる。
ぎこちなく頭を下げ、挨拶をした。
「ご紹介に預かりました、中浜万次郎です。本日から、アメリカにおける振る舞い方について説明していきたいと思います。」
実践を踏まえた講義が始まった。
ある日の講義。
「西洋では女性を尊重した振る舞いが肝心です。自宅に食事に誘われれば、必ず夫婦同伴で出かけます。その際、ダンスという、我が国で言うと盆踊りに近い物ですが、それが行われる事が多いです。西洋の踊りは大抵男女一組で行われますが、女性から一緒に踊る事を誘われる事もありますので、今のうちに練習しておきましょう。」
万次郎の言葉に合わせ、奥から多数の女性が現れた。
見慣れた呉服とは違う、見た事の無い服を着ている。
袖は細く肌に張り付いている様であった。
首元まで伸びた襟元には飾りがあり、胸の前で揺れている。
一番の違いは腰から下であろうか。
腰周りは細いのだが、それより下は、まるで中に釣鐘を下げている様に大きく広がっていた。
そんな女達に、部屋の隅で講義を見物していたロシア人の輪から一斉に溜息が漏れる。
『美しい……』
『東洋の神秘だ……』
皆うっとりとした顔で呟いた。
「この方達は高良塚の役者さん達です。西洋の踊りはもとより、立ち振る舞い方もしっかりと学んで頂いております。まずは見本をお見せしますので、しっかりと見ておいて下さい。」
万次郎の合図にどこからか音楽が流れ出し、女達が動き出す。
プチャーチンらを誘い、音楽に合わせて踊り出した。
男らの顔はにやけて崩れ落ちそうだ。
「西洋の踊りは音楽と共に行われます。」
音楽はロシア人によって演奏されている。
艦隊には楽隊も同伴していたので、協力してもらっているのだ。
その申し出には二つ返事で快諾してくれた。
と、一人の女性が踊りの輪から外れ、呆けた顔で見守っていたチョンマゲ達の方へと進み出てきた。
一人の侍の前に止まり、声を掛ける。
「松先生? 私と踊って頂けますか?」
「スズさん?!」
松陰は驚いた。
彼女らにも前もってダンスを習ってもらっており、この研修で侍達の練習相手をしてもらう手筈であった。
従って、スズがダンスの誘いに来るのはおかしい事ではないのだが、松陰が驚いたのは彼女の姿である。
アメリカの女性が着るドレスを、万次郎の監修で再現してもらっていたのだが、それが予想以上に似合っていた。
控えめな色調のドレスを纏っていたが、それがかえって彼女の美しさを引き立たせている。
映画やアニメでしか見た事が無いとはいえ、懐かしい洋服姿の女性に前世を思い出し、暫く言葉が出なかった。
驚きは周りも同じな様で、口を大きく開けてスズを見つめるばかりである。
そんな周りの視線の中、スズは頬を赤く染めつつも、真剣な面持ちで松陰を見つめた。
我に返った松陰が慌てて返事をする。
「先に言っておくけど、私は相変わらずダンスが苦手ですよ?」
言いつつ手を伸ばす。
それなりに練習はしていたのだが、相手の足を踏まない様にするので精一杯であった。
「その為の練習でしょう?」
スズはニッコリ笑い、差し出された松陰の手を取る。
ぎこちないながらも、二人は踊りの輪に加わるのだった。
「薩摩モンは女子と手なんぞつながん!」
激昂したのは誰であったか。
忠寛がぴしゃりと言う。
「郷に入っては郷に従え、です! 西洋に行くのですから、西洋人の振る舞い方を身につけて下さい! ですが、どうしても嫌ならダンスを拒否されても構いません! 知識として知っておけばそれで良いので、他の者の立ち振る舞いを見ているだけでも宜しいでしょう! ですが、西洋人に招かれた祝いの席で、そのやり方が気に食わないと席を立ったら、向こうの者がどう思うか考えて下さい!」
忠寛の言葉にそれ以上の反論はなかった。
密かな賛同の声を上がる。
「薩摩モンは勿体ないのぅ。女子と仲良うなる折角の機会、もとい、わしらの洗練さを示す絶好の場じゃろうがよ!」
「もてない男には辛いかもなぁ」
「ちっ。揉め事になりゃあいいのによ……」
すっかりつるむ様になった龍馬、歳三、晋作であった。
拒否感を感じる者もいる中で、訓練は続く。
「今日からは航海実習です。まずは船に慣れて頂きます。」
「待ってました!」
蒸気船は完成していたが、遠距離の航海には耐えられない。
従って、この度の使節団は帆船での渡米である。
大船建造の禁止令はとうの昔に撤廃され、既に多くの船が建造されて運航しているし、当時であっても船旅は珍しいモノではない。
けれども、数か月に及ぶ事が予想される航海を経験した者はいない。
船酔いや、船での生活に慣れる為にも、洋上での訓練は必須であった。
とはいえ、船の作業を担う事は無い。
船内で各種の講義を聞くくらいだ。
「そろそろ遠距離の航海に行きましょう。」
船に慣れた頃、次のステップへと移った。
百人以上を乗せる船は未だ出来ていないので、その半数を乗せた船が帆を広げ出発した。
残る半数は別の船で別の目的地へと旅立つ。
それぞれにロシア船が付随し、先導されながらの航海である。
片方が目指すのは、蝦夷松前藩であった。
「良く来たな吉田よ。」
「ご無沙汰しております。」
松陰は松前藩主、松前崇広の下を密かに訪れていた。
航海のついでに用を済ませようと、水や食料を補給している間にやって来たのである。
勿論、幕府の船の公式な訪問であるので、藩を挙げての歓迎は既に為されている。
そんな中では落ち着いて話も出来ないので、後日にしたのだ。
松陰と崇広の出会いは数年前に遡る。
佐賀集成館で製造した、ソーダ灰を使ったガラスを用い、昆布を収穫する為の箱眼鏡と、収穫棒を持って松前藩に献上していた。
これまでの収穫作業と比べて段違いに容易となり、松前藩の収益は大きく上がった。
それ以来、崇広本人に懇意にしてもらっていたのだ。
互いの年齢が一つしか違わないのも、二人の交友関係に影響しているのかもしれない。
また、松陰よりも一つ年上でしかない若い藩主の、生まれ持った開明さもあろうか。
良い物を良いと認められる柔軟性を持ち、松前藩の置かれた状況と歴史を考え、出没する異国の船と入手される西洋事情を鑑みれば、日本の開国は当然の結論であった。
けれども、当時は鎖国の真っただ中である。
密かにロシア人と交易をしていた松前藩であるが、表だって幕府の方針に逆らう事など出来はしない。
そんな中、西洋の技術を用いて作ったという、箱眼鏡なる便利な道具を持って現れた、開国を公言する若者の登場である。
崇広が大いに励まされ、親近感を持ったのは当然であろう。
直接言葉を交わし、友好を深めたのだった。
それからというもの、松陰は何度か蝦夷を訪れていた。
蝦夷は将来の農業基地である。
開拓に向け、崇広に準備をお願いしていた。
それに、蝦夷と長州藩には深い関係もある。
長州藩の塩が蝦夷に運ばれ、様々な塩漬けが作られて日本中に運ばれていたからだ。
挨拶もそこそこに、崇広は屋敷の中の畑へと松陰を案内する。
そこには葉を茂らせた、多くの種類の野菜が育っていた。
崇広はその中の一つをむんずと抜き取り、松陰に見せた。
「見よ、この砂糖大根を!」
「これは見事に育っておりますね!」
「だろう? そしてこれが出来た砂糖だ!」
「ついにですか!」
崇広は懐から包みを取り出し、渡す。
松陰は期待に胸を膨らませながら、慎重にそれを広げた。
そこには茶色に染まった、サラサラとした結晶の塊があった。
「味見しても構いませんか?」
「当たり前であろう?」
「失礼します!」
指先を口で濡らし、手の中の粉に付け、くっついた物を口に運んだ。
途端に目を輝かせ、叫ぶ。
「甘い!」
「うむ!」
どうだと言わんばかりの崇広である。
サトウキビから作る砂糖には若干劣るが、それでも十分な甘さを持った甜菜糖であった。
「これなら十分商品価値がありますね!」
「その方がこの種を持って来た時は半信半疑であったが、まさかこの蝦夷で砂糖が作れるとはな……」
感慨深げに口にする。
思えば苦労の連続であった。
まずもって、アイヌとの交易で財政を支えていた松前藩では、そもそも農業への関心が薄かった事が挙げられよう。
崇広とて例外ではなく、松陰の話を容易には受け入れられなかった。
ましてや、藩主自らが農業をするなど前代未聞の事であり、藩士の崇広に対する風当たりは強い物であった。
それに加えて日本で初めて栽培する野菜であり、要領など分からずに株を枯らす事も多かったのである。
様々な困難を何年もかけて乗り越えてゆき、ようやく出来た甘い結晶。
崇広の喜びが知れよう。
しかし、松陰の輝く視線は別の一画へと向けられていた。
「それはそうと、あれらも良く育っていますね。」
思い出に浸っている崇広に、おずおずと切り出す。
松陰の言葉に現実へと帰って来たのか、応えた。
「そうだな。タマネギ、ジャガイモ、ニンジンも生育が良いだろう?」
「全くです!」
引き抜いたタマネギの株は大きく膨らんでおり、良好な成育を示していた。
「しかし、どうしてこの様な話になったのだ? その方の手紙を受けてからは、正直生きた心地がしなかったぞ。」
「誠に申し訳ありませんでした。」
頭を下げつつも、カレーの具、基本の三種に松陰の頬も緩む。
ジャガイモは既に他の地域でも栽培されていたが、重要なのはタマネギである。
種を輸入し、崇広にも分けて育ててもらっていた。
冷涼な気候を好むタマネギは、蝦夷地での栽培が欠かせない。
乾燥させれば保存も効くので、大量に作付けしてもらわねば困る野菜なのだ。
カレーのみならず、ハンバーグにも必須といえるタマネギは、松陰にとっては何としてでも普及させねばならない野菜であった。
また、これらの野菜は、とある計画の為にも必要不可欠な物資と言えた。
松陰が、この度の訪問の目的とも言える、その計画について言及する。
「突然の事となってしまいましたが、ボルシチ計画は順調ですね!」
「成育が順調だから良いものを……。ロシア人を連れて来たのは、その為なのか?」
「まさしく!」
「成る程……。全く、その方に付き合わされる御公儀の面々が気の毒だな……」
「何を仰られますか! これは全て我が国の将来への布石にございますよ!」
「その方の話は大き過ぎるのだ。で、肝心のロシア人は来ておるのか?」
「はい! 暫くお待ち下さい。」
『ボルシチ計画』
それは、ロシア極東地域を日露で共同開発するプロジェクトの、コードネームである。
僻地開発における最も重要な物資は、人材もそうではあるが、まずは食料であろう。
食う物が無ければ話にならないのだ。
極東では海に出れば魚は容易に手に入るが、それだけでは栄養が偏ってしまい、開発の最前線である村には病気が蔓延しがちであった。
しかも極東の海は荒れやすく、嵐が続けば漁にも出られない。
その為、酷い時には流行り病で村が全滅する事も多々あった。
それを防ぐには野菜などが欠かせないが、夏が短く冬の厳しい高緯度地域では、満足のいく量を確保する事は中々に困難である。
それを補うのが蝦夷の存在だ。
蝦夷はロシアにとって、極東の開発を進める上での重要な拠点と位置づけられていた。
その為、ペリーが日本を訪れる遥か前から、ロシアは幕府に接触を図ってきていたのである。
この度、樺太と千島列島を日本がもらう代わりに、アラスカを共に開発しようと提案した松陰であったが、その取引を成立させる為には蝦夷地の開発は前提条件と言えよう。
極東開発の基地への、食料の安定的な供給を約束出来なければ、その様な取引が成り立つ筈が無い。
元々はカレーの具を確保する為だけのタマネギ栽培であったが、思いがけなく話が大きくなっていた。
手紙でその計画を打ち明けられた崇広も、国家の行く末を左右しかねない話となっている事に、頭がクラクラしたのだった。
老中である阿部正弘の手紙が決め手となり、蝦夷開拓は藩を挙げて取り組む事が決まった。
そして今日、ロシアのプチャーチンが来ている。
蝦夷の開発具合をその目で確かめてもらう為だ。
口で言うだけでは、信用は得られない。
共同でアラスカを開発しようと言った松陰であったが、その言葉を信用してもらうには、成功を予感させるだけの何かが必要であろう。
砂糖大根と野菜達は、その何かとなってくれる筈だ。
加えて秘密兵器も一つ、別に用意してある。
『これはビーツ?! それにタマネギ、ジャガイモ、ニンジンも! 肉があればボルシチが出来るではありませんか!』
プチャーチンが驚きの声を上げた。
ボルシチはロシア人にとっての味噌汁らしい。
故郷を遠く離れ、郷愁に駆られているのだろうか。
彼の眼前には広大な原野が広がっている。
耕されている畑は僅かであったが、良く育った野菜がその葉を広げていた。
開拓はまるで進んでいないが、大きな可能性を感じさせる眺めであった。
『蝦夷は如何ですか?』
『素晴らしいです! 予想以上ですよ!』
蝦夷の重要性は認識していたが、これ程までとは思いもしない。
この広大な大地が食料生産基地となり、交易出来れば、ロシアの極東開発は大いに前進するだろう。
『これをどうぞ。』
『何です?』
『景気づけの一杯ですよ。』
言うなり松陰は空のグラスをプチャーチンに渡し、陶器に入った液体を注いだ。
透明の液体がグラスを満たす。
人数分を配り終え、乾杯となる。
『これは素晴らしいウォッカだ!』
乾杯の声と共に、グラスを一息で飲み干したプチャーチンが述べた。
『サトウキビから作ってますから、正確にはラムですが……』
アルコールの強さにむせた松陰が訂正する。
「何なのだこれは? 焼酎にしては強すぎるのではないか?」
崇広も困惑する。
喉が焼ける程に強い酒であり、平気な顔をしてお代わりをしているロシア人に唖然とした。
「ロシアの方は強い酒がお好きなのです。」
「しかし、限度があるだろう?」
「我々の常識では測れない様ですね……」
「全くだ……」
次々に杯を開けていく彼らに、二人は言葉を失った。
容器を空にし、満足気なプチャーチンに声を掛ける。
『このお酒は気に入りましたか?』
『勿論ですとも! 江戸で飲んだ酒も美味かったですが、我々には幾分刺激が足りないモノでしたからな。』
『それは良かった! では、こういう話は如何でしょう? アラスカを共同開発するに当たり、ロシアの開拓者には、一人につき一年で樽一つ、この酒をプレゼントしましょう!』
『何ですと?!』
酒で樺太と千島列島が買えるならば安い物だ。
アラスカに住める人員など高が知れており、必要な酒の量など大した事は無い。
それでアラスカに立ち入る権利が得られるならば、何程の事があろうか。
『良い返事が聞ける事を祈っています。』
『皇帝陛下次第ですが、私は心動かされました。』
こうして、プチャーチンとの会談は全て終了した。
出港に際し、
「このまま真っすぐ江戸に帰るのか?」
「いえ。蝦夷をグルリと回って帰ろうと思っています。」
崇広の問いに松陰が答える。
何か思い当たったのか、ニヤリとして言った。
「お目当ては帆立、鮭か?」
「流石は崇広様! 全てお見通しですね!」
「食いしん坊な所は変わらないな。」
「それが私の生きる目的でありますれば。」
「断言する所に関心するぞ。」
季節は既に秋を迎えている。
となれば、秋鮭が美味い頃だ。
船は知床へと進み、船の上から魚を獲った。
河口を埋め尽くす魚の群れに、初めて見る者は感嘆の声を上げる。
「何これ?!」
「美味しいわ!」
「凄い……」
「初めて食ったぜよ!」
食卓に上った鮭に、皆舌鼓を打つ。
イクラはご飯の上に山盛りにされ、脂の乗った身は炭で焼かれた。
鮭の横ではホタテがパカっと口を開き、美味そうな香りが辺りに漂う。
江戸に住んでいては味わえない、この上も無い贅沢に思われた。
「鮭とはこんなに美味いモノなのだな! 刺身で食ったら、もっと美味いんじゃないか?」
「それはそうかもしれん。」
歳三の言葉に勇が応えた。
それを聞きとがめ、松陰が言う。
「鮭を刺身で食べる事はお勧め出来ません。虫が入っている事があり、誤って食べると猛烈な腹痛に襲われますよ?」
「何だと?!」
「それはもう、床をのたうち回る程の痛みとか。」
「お、恐ろしい……」
有名なアニサキスである。
よく噛んで食べても、身を薄く切っても、薬味を付けても予防は難しい様で、十分な加熱が最も効果の高い予防法だ。
「それはそうと松先生。こんな美味しい物を、こっそりと一人で食べていたの?」
殺気すら感じる程の視線が松陰を貫いた。
ドッと汗が噴き出し、慌てて否定する。
「いや、これは違う! ここまで来たのは初めてだよ! ねえ、平吉さん!」
「確かにここまで来たのは初めてだな。」
「ほら!」
台湾から付き合いの長い平吉は、この練習船の船長になっていた。
常に松陰を乗せて蝦夷とを行き来しているので、その言葉に嘘は無い。
けれども、
「でも、ここまで来なくてもいいんでしょ?」
スズの鋭い質問が飛ぶ。
「まあ、な。蝦夷ならどこでも獲れるわな。」
「平吉さん?!」
平吉の裏切りに松陰の顔が歪む。
その答えにスズは大きく頷いた。
「やっぱり! 松先生? 一体どういう事なの?」
「いや、これは、その、あれだよ、あれ。」
「何があれなの?」
しどろもどろになりながら、必死で言葉を探す。
「いや、だから……」
「だから?」
「だから……すみません!」
ひたすら平伏する松陰であった。
薩摩の人には、ダンスなどもっての外なのでしょうか?
この当時のアメリカ女性の服装をイメージするには、「南北戦争 女性の服装」で検索されるのが一番だと思います。
訓練回はこれで終わりです。
1月10日、一部修正し、アニサキスに関する描写を入れました。




