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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
幕末の始まり編
168/239

ピロシキと大風呂敷

 『プチャーチン閣下!』

 『うぉ?!』


 プチャーチンに松陰が駆け寄り、ガバッと抱き着いた。

 身動き出来ないくらいに力強い抱擁である。

 腑抜けた男という第一印象を覆す、溢れんばかりの生命力に満ちていた。


 「スパシーバ!」

 『またロシア語?!』


 まずはロシア語で感謝を述べる。

 それくらいの単語であれば、様々な国のモノを知っていた。

 抱擁を解き、相手の目を真っ直ぐに見つめ、口を開く。


 『素晴らしいお土産、ありがとうございます!』

 『あ、あぁ。喜んでもらえて何よりだ。』

 

 ピロシキにそこまで感謝されては若干照れ臭い。

 友人の助言に従ったとはいえ、多少の後ろめたさを感じる。

 しかし、そんなプチャーチンを驚愕させる、驚きの言葉が松陰の口から発せられた。


 『ロシアからアラスカを買おうと思ってましたが、この様なご配慮を頂きましたら話は違います!』

 『何?』

 『樺太と千島列島は日本が頂きますが、その代わりにアラスカを共に開発いたしましょう!』

 『君は何を言っているのだね?』

 

 聞き間違いや冗談かと思ったが、それを口にした者の顔は嘘を言っている風には見えない。

 それどころか表情は真剣そのもので、凛々しさを感じるくらいであった。

 呆けた男かと思っていたのに、突然の変わり様である。

 余りの違いに、プチャーチンは話の内容が頭に入って来なかった。

 混乱したままの彼に、ニコニコとした笑顔で繰り返す。 


 『ですから、樺太と千島列島全てを我が国が貰う代わりに、アラスカを共同で開発しましょうと言っているのです。』 

 『ちょっと待ちたまえ! こんな場で何を考えているんだい?』


 江戸城での幕閣との会談でも、領土に関しては話し合っていない。

 開国を要求しに来たペリーと違い、日本と国境を接するロシアは、国境線を画定させる目的もあってプチャーチンを派遣していた。

 だが彼は、来日早々に話す内容でもあるまいと考え、その時期を見定めていた。

 国境線の画定は、下手をすれば戦争に発展しかねない難しい問題である。

 そんなデリケートな問題を、この様な私人の一室で話すのはどうかと思われた。

 しかし松陰は、そんな彼の懸念を全く気にする事無く話を続ける。  


 『構いませんよ。閣下が全権大使であったとしても、これほどの事を閣下の一存で決められる筈もありませんからね。』

 『確かに私は全権大使であるし、今回の来航はロシアと日本の国境を画定させる目的もある。しかし、君こそ幕府の役人ではあるまい? 何の権限も無いのに、どうしてそんな提案が出来るのだね!』


 松陰の言い様にムッとし、語気を荒げた。

 けれども蛙の面に小便とばかり、少しも効いている素振りはない。


 『それは全く心配いりません。この意見をねじ込むだけですから。それに、アラスカは宝の山でございますよ? 日本とロシアで開発に乗り出せば、容易く富を築く事が出来ましょう!』

 『渡るだけでも大変なのに、簡単に言うんじゃない!』


 高緯度の海域は荒れやすく、渡るだけでも危険が伴う。

 それを良く分かっているプチャーチンには、松陰の言葉は腹に据えかねた。


 『危険なのは百も承知でございます。北海の荒波に耐えられる丈夫で安全な船を作りましょう! 未来のカニ漁には必要な投資でございますから!』

 『何? カニだと?』

 『そうでございます! それに、インドから日本、アメリカへと続く交易路構想には、ロシアのカムチャッカ、アリューシャン列島、アラスカも入っておりますので!』

 『何? 何だね、それは?』

 『こうでございます!』


 そして松陰は説明を始めた。

 蔵六から紙と筆を借り受け、図を描いていく。

 それはペリーに語った内容とほぼ同じである。

 違うとすれば、蝦夷地を抜けた先にカムチャッカ、アラスカを描いている事であろう。

 世界を半周する規模の交易路構想を熱く語る若きサムライに、プチャーチンは口をぽかんと開けて見つめるだけだった。




 『ご理解頂けましたか?』


 一通りの説明を終え、プチャーチンに尋ねた。

 問われた方は呆然自失な状態に見えたが、ややあってコクコクと頷く。 

 頭の中は疑問だらけでグルグルとしていたが、ふと思った質問が口を突いて出る。


 『しかし、カムチャッカをどうするつもりなのだ?』

 『何を仰いますか! カムチャッカは鮭の遡上場所でしょう? よぉく知っておりますよ!』


 それは前世のテレビ番組で見た、川を赤く染める紅鮭の姿である。

 川面を真っ赤に染め、大量の鮭が遡上してくるのだ。

 太平洋の鮭の凡そ2割が、カムチャッカにある湖を産卵場所にしているそうである。 

 それだけの漁場をみすみす黙って見ている訳にはいかない。

 冷蔵の技術が無いのでイクラは無理であるが、塩漬けや燻製の鮭は確実であろう。

 ほくそ笑む松陰にプチャーチンが更に尋ねる。


 『確かにカムチャッカは鮭が多い。けれども、それを一体どうするつもりなのだね?』

 『勿論、売るのでございますよ。』

 『どこに?』

 『我が国に、台湾に、広東に、香港に、清国に。交易路上の国に、でございますよ。』

 『しかし香港はイギリスの支配下にあるぞ? 我が国とは仲が宜しくない……』


 語尾がしぼんでいく。

 クリミア戦争の余波で、極東にいるプチャーチンの艦隊も危険であった。

 要所要所を抑えているイギリス海軍の力は圧倒的で、極東におけるロシア海軍の力は余りに頼りない。

 松陰の話は大体理解したが、ロシアにとっては障壁が高い様に思われる。

 しかし、


 『この交易路上で争いは許しません!』


 不安げなプチャーチンに松陰はきっぱりと宣言した。

 その姿は不思議と頼もしげに見える。

どうやってという素朴な疑問が浮かんだが、ついに口に上る事は無かった。

 代わりに発したのは、


 『だからと言って、樺太と千島列島を全て寄越せとは法外ではないのかね?』


 という文句であった。

 カムチャッカ、アラスカを共に開発するにしても、そこは元々ロシアの領土である。

 樺太は両民の雑居地、千島列島は択捉島と得撫(うるっぷ)島の間に国境線があった。

 それなのに、ロシア領を開発するだけで、日本が樺太と千島列島を得ようとするのは納得出来ない。 

 余りに不平等であろう。


 『そうですね。アラスカ、カムチャッカを共に開発したとしても、樺太と千島列島に見合うメリットがあるのかは分かりませんよね。』

 『そうだろう?』

 『でも、はした金でアラスカを手放すよりは、余程メリットがあると思いますよ?』

 『それはどういう意味だね?』

 『今は秘密です。』


 悪戯めいた笑みを浮かべ、それ以上の説明は伏せた。




 『何なのだあの男は……』


 松陰の帰った後でプチャーチンは力なく椅子に腰かけ、疲れ切った声で呟いた。

 聞けば成る程と思う構想ではあるのだが、如何せん話が大きすぎた。

 一介の軍人には判断しかねる。

 そこで、長年の友人に意見を求める事にした。

 

 『フィリップ、君はこの話を知っていたのかね?』

 『ああ、全てでは無いが、概ね知っていたよ。』

 『そうか……。君が会うべきだと勧めた理由が分かった。でもね、私には話が大きすぎて考えが纏まらないよ。どうすれば良いのかね?』


 実直な友人であれば、そう答えるだろうとは思っていた。


 『君の国にとってアラスカは、厄介な存在でもある、違うかい?』

 『まあ、正直に言えばそうだな……』


 過去、毛皮を求めて開拓団が度々送られたが、乱獲して資源の枯渇を招いたり、病気や内輪揉めを起こして村が壊滅したりしている。

 それに何より、極東の開発すらままならないのに、荒れた海を越えた先のアラスカなどに手が回る筈が無い。 

 かの地はロシアの領土でありながら、開発は手付かずなまま放置されている状態であった。


 『もしも日本が開発の補給基地となれば、アラスカは兎も角カムチャッカは確実に潤う訳だよね?』

 『それは確実だな。それもあって我が国は、ずっと日本に交易を打診してきたのだから。』


 プチャーチンが来る遥か前から、ロシアは日本に接触を図ってきた。

 けれども開国を頑なに渋る幕府が、決して近寄らせなかったのだ。


 『樺太と千島列島の事は置いておいて、アラスカの開発はロシアにとって不利益は無いんじゃないんかい?』

 『それは確かにそうだな。開拓村が維持出来るだけでも大助かりではある。』

 『まあ、話が大き過ぎる事は確かだから、国に持ち帰って皇帝陛下に諮るしか無いんじゃないかな?』

 『……そうだな。』


 全権大使であるプチャーチンであったが、流石に一人で判断するレベルを超えている。


 『しかし、あの者が言っていた、アラスカをはした金で売るよりもマシとは、一体どういう意味だね?』

 『さぁなぁ。私には分かりかねるよ……』

 『長年日本に住む君にも分からんのかね?』

 『買いかぶり過ぎだよ。日本人が何を考えているのか、今でも分からない時が多いからねぇ。』

 『そうか……』


 クリミア戦争に負け、経済的に疲弊したロシアは、アラスカをアメリカに売る決心をする。

 720万ドルという驚く程の安値で売ったその土地から、数十年後に大量の金が発見されるのだ。

 ゴールド・ラッシュに沸くアラスカは、多くの資源に恵まれた土地である事が判明していく。

 それを知っていた松陰であるので、未来のアメリカ一強を防ぐ意味でも、アラスカはロシア領のままでいて欲しかった。

 今の技術力ではそこまで開発出来ないだろうし、金によって一時的に潤ったとしても、ロシア国内の共産主義者の台頭を防ぐ事は出来ないだろう。

 いざとなれば共同開発者の権利として、革命でごたついている時にアラスカへの進軍も考慮に入れていた。 


 そんな事など露程も思わず、二人の外国人が語り合う。


 『しかし、あの男は一体何者なんだね? 正直に言えば、初めはウスノロとしか思わなかったぞ?』

 『その疑問は尤もだ。私も今日は君と同じ気持ちだったからね。しかし、君の持って来たピロシキを食べてからはいつもの彼……いや、すまない。いつも以上だったな、アレは。』

 

 シーボルトがやれやれという風に肩を竦める。 

 

 『しかし、ピロシキが何だと言うんだね?』

 『ピロシキじゃなくて、カリィだよ。』

 『カリィ?』

 『何でも、彼はインドにえらく執着しているらしい。それも、カリィには相当思い入れがあるそうだ。だからインドに寄るだろう君に、スパイスを買う事をアドバイスしたのさ。』

 『そういう意味だったとは……』


 シーボルトは友人であるプチャーチンに手紙を送っていた。

 検閲を考慮し、内容は近況を知らせる程度の世間話である。

 その中で日本に来航する際には、自分の為にインドでスパイスを買う様、遠回しに伝えていたのだ。

 そうとは知らずに買ってきた彼に、カリィ風味のピロシキをお土産とし、持って来る様に言ったのが事の経緯である。

 幕府の要人と親しく付き合う松陰に、友人の心象を良くしようと思った次第だ。

 尤も、その効果は本人の想像を遥かに超えてしまっていたが……。 


 『何にせよ、あのサムライに近づく事が出来たから、そういう意味では大成功だったよ。』

 『とてもそうは見えないが、あの者はそんなに大物なのかね? まだ随分と若いのだろう?』

 『確かに若いね。しかし、君には信じがたいかもしれないが、その若い男の意志が、この国を動かしている風に見えるんだ。』

 『何だって?!』


 プチャーチンは友の言葉に驚いた。

 冗談だろうと言いかけたが、言った本人の様子に口を閉じる。 

 真面目な顔つきからは、ふざけていないと分かった。


 『信じられる訳が無いだろうさ。私だって今でも半信半疑だからね。でも、幸いだったよ。』

 『何がだね?』

 『あのサムライが直々に、君への江戸の案内を買って出てくれただろう?』

 『それがなんだね?』

 『多分、見せてくれるのだろうさ。』

 

 そう口にしたシーボルトの顔は、心なしか笑っている様に見えた。

 プチャーチンは不思議に思い、尋ねる。


 『一体何をだい?』

 『今まで私にもひた隠しにしてきた、あの若いサムライが主導しているのだろう、この国の今、だね。』

 『何だって?!』 


 プチャーチンは友人の言葉に衝撃を受けた。

 聞けば来日してよりこの方、実に様々な知識を披露してきたそうである。

 医学や動植物学といった彼の専門分野だけでなく、ヨーロッパ各国の地理や歴史、政治から経済、法律、文化、哲学から風俗に至るまで、ありとあらゆる事を尋ねられたと。

 そして最終的に、日本が開国する際に整えておくべき事への、具体的な意見具申を求められたそうだ。


 彼と一緒に来日した学者、技術者は何人もいたのだが、その悉くが同じ様な質問攻めに遭遇し、持てる知識を総動員して日本人を指導し、技術の伝承を図ったらしい。

 そして、彼らの殆どが長崎から出る事を許されなかった。

 中には各地の造船所に派遣された者もいたが、その多くが長崎に留まる事を要請されたのだ。


 『一体どうしてだね?』

 『彼らには見せたくない物があったからだろうね。』

 『でも、君は江戸にいるじゃないか。』

 『江戸には居るが、限られた範囲しか出歩けないよ?』

 『何?!』 


 またも驚きの言葉が飛び出す。


 『監禁こそされていないが、行動は常に監視されているのさ。』

 『何故だい?』

 『私にも見せたくない物があるんだろうよ。』 

 

 そう言って、またも肩を竦めた。


 『しかし、明日はその隠したい筈の江戸を、彼が案内してくれるのではないかね? 矛盾しておらんかね?』


 尤もな指摘だろう。

 シーボルトは苦笑しつつ言う。 


 『ようやくお披露目の時がやって来たという事だろうね。』

 『どういう事だい?』

 『私から、国の外へと情報が漏れるのを心配したのだろう。けれども、来年には日本から使節を派遣するのだし、もう十分だと思ったんじゃないかな。事実、先日来日したアメリカ人に、彼は一部を披露したみたいだしね。』

 『そこまでして隠す内容なのかね?』

 『それは明日分かると思うよ。』

 『……成る程。』


 そう告げる友人の言葉に、プチャーチンは思わず背中が寒くなる思いがした。

ロシアがアラスカをアメリカに売らなかったら?

当座は凌げるでしょうが、大勢に変化はなかったのではと思います。

寧ろ逆に、皇帝や貴族の贅沢を招き、余計な反発を招いたのかもしれないとも。


何だか思わせぶりな終わりになってしまいましたが、そこまでの事はありません。

主としてペニシリンに触れ、次の選抜会に進みたいと思います。

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