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幕末香霊伝 吉田松陰の日本維新  作者: ロロサエ
幕末の始まり編
167/239

ロシアのプチャーチン

 幕府御雇の外国人学者、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの江戸の居宅は、神田明神の近くにあった。

 神社の広大な敷地を囲む地に、小さいながらも門を構えた屋敷である。 

 そんな門の前に肌の白い男が立っていた。

 心なしか不安げな表情で門番に取次を頼む。


 『失礼。私はエフィム・プチャーチンという。こちらがフィリップの住まいと聞いて来たのだが……』


 オランダ語で尋ねた。

 言葉が通じるのかとの心配があったのだが、さりとて日本の言葉を知っている訳ではない。

 躊躇いがちに口にした言葉に、門番の男は流暢なオランダ語で答えた。


 『お待ちしておりました、プチャーチン様。どうぞこちらへ。』

 『ありがとう。』


 ホッとして門番の後に続き、屋敷へと足を踏み入れた。 


 「プチャーチン様がいらっしゃいました。」


 門番が屋敷の中へ告げる。

 それに応える様に、一人の女が慌てて出迎えに来た。

 両手を付いて挨拶をする。


 『ようこそおいで下さいました。』

 『もしや君がフィリップの娘さんかね?』

 『はい。イネと申します。』

 『そうか! フィリップが君の事をいつも気にしていたからなぁ……』


 優しい目をして言う。

 そんなやり取りをしている所に、この屋敷の主人であるシーボルトがやって来た。

 

 『エフィム、よく来てくれた!』

 『おお、フィリップ。お邪魔させてもらうよ。』

 『ささ、上がってくれ。おっと、日本の屋敷では靴を脱ぐからね。』

 『承知しているよ。これは土産だ。日本の風習だったね?』

 『これはすまない。』


 笑顔のプチャーチンは手に持った包みをシーボルトに渡す。

 にこやかな顔で受け取ったシーボルトが、その包みを娘イネに預けた。




 『ここがフィリップの自宅か! うぅむ、興味深い……』

 

 屋敷を一通り案内されたプチャーチンが感想を述べた。

 横浜の居住地と迎賓館しか知らない彼には、日本人の住宅に興味があったのだ。

 伝統的な日本家屋に興味は尽きない。

 

 『見た目の派手さは無いが、必要な機能は全て揃っているよ。日本は人口の割には住むのに適した土地が狭い。そんな中で培われた、狭い空間を狭く感じさせない技術が素晴らしいんだ。』

 『うむ、それは感じるよ。我がロシアは国土が大きい。サンプトペテルブルグは全てが巨大で荘厳だが、この江戸の町は全てを小さくまとめているのに巨大だ。全く、江戸の町は驚きの連続だったよ。』

 『君の国の建物は巨大だから当然だね。』


 二人で談笑している所にイネが茶を持って来る。

 座敷に慣れていないプチャーチンの為、二人は椅子に座り、テーブルを挟んでいた。 


 『頂いた物はもう一人のお客様がお着きしてからにしますね。』

 『おぉ、ありがとう。しかしフィリップ、娘さんに会えて良かったな。』

 『ありがとう、エフィム。江戸での暮らしを大いに助けてもらっているよ。』


 互いの家族の話が弾む。

 そしてそんな所に、もう一人の客の到着が告げられた。


 『失礼します、シーボルト先生。吉田様が来られました。』

 『分かりました、蔵六君。』


 シーボルトの下で修業中の村田蔵六が伝えに来た。

 長崎で鳴滝塾を開催していたシーボルトである。

 再び日本に来た彼は、今度は幕府に乞われ江戸でも塾を開いていた。

 村田蔵六は台湾から帰国後、西洋の知識を直に学ぶ為に彼の下に来ていた。

 当然の様にオランダ語を習得し、今は通訳の為にいる。 


 『本日はお招きに預かりまして、誠にありがとうございます。』


 吉田松陰が英語で挨拶をし、プチャーチンとの非公式な会談が始まった。

 



 プチャーチンの松陰への第一印象は、正直に言って拍子抜けするモノだった。

 長年の友人であるシーボルトが、日本で再会して早々に、是非とも会っておけと助言する人物なのでこの会談に臨んだのだが、友の人を見る目を思わず疑ってしまった程だった。

 友人が日本びいきな事は知っていたが、それが過ぎると判断する心を惑わせるのかと、つい心配になる。 

 それ程に目の前の若いサムライは凡庸で反応が薄く、目に力を感じない人物であった。

 上の空という言葉がぴったりに思われた。


 これでは長崎や横浜で出迎えてくれた役人、江戸城に勤めるサムライ達の方が、何倍も有能に思えた。

 例えば目の前の、もう一人の若者である。

 頭の大きさが特徴的なこの若者は、聞けば英語は元よりオランダ語、清の言葉すらも理解しているという。

 その言語力を活かし、シーボルトの持つ知識を貪欲に吸収しているそうだ。

 今では江戸に開いたシーボルトの塾で、塾生に講義をするまでになっているらしい。

 試しに一言二言ロシア語を教えてみた所、プチャーチンも舌を巻く程の記憶力を発揮し、瞬く間に使いこなしてしまうのだった。


 そんな蔵六とは対照的に、松陰という男は無能に思える。

 何を話しても、返ってくるのは通り一遍な反応ばかりで、何を考えているのか掴みかねた。

 友人の顔も何やら戸惑っている風に見える。

 自分の前でだけ有能そうな振りをしていたのかと、今更に疑っているのだろうか。

 そんな微妙な空気が漂う中、イネがプチャーチンの持って来たお土産を運んで来た。

 

 『プチャーチン様から頂いた物です。』


 そう言ってテーブルに皿を並べた。

 器に乗っていたのは、こんがりと焼けたパンに見える。

 

 『これは一体何という食べ物ですか? パンに見えますが……』


 そう言いつつイネはちらりと蔵六に目線を送った。

 松陰はどうしたのかと問いかけたのだが、朴念仁の蔵六に通じる筈も無い。

 私が馬鹿でしたと小さくため息を漏らす。

 いつもなら珍しい食べ物には目が無い筈の松陰である。

 それがまるで反応が無いのだから、イネが不審に思うのも無理はなかろう。

 場に漂う空気を盛り上げる意味でも質問したのだ。


 『我が艦の料理人に作らせた、ロシアの伝統的な食べ物であるピロシキだよ。』

 『ピロシキですか。』

 『ピロシキ?』

 

 周りは気づかなかったが、松陰が僅かに反応を示した。

 ピロシキとは簡単に言えば総菜パンである。

 小麦粉を練った生地で様々な具を包み、オーブンで焼くか油で揚げた食べ物だ。

 松陰に構う事無く場は進む。 


 『折角のフィリップの好意です。早速頂きましょう。』

 『はい。』


 皆してピロシキに手を伸ばす。


 『吉田様は頂かれないのですか?』


 イネが気を利かせ、松陰に勧めた。

 言われるがままに手を伸ばし、一つ掴む。

 それに安心したのか、イネは手のピロシキを口に頬張った。

 

 『美味しいですね!』

 『うむ、美味いな。』

 『それはありがとう。』


 笑顔が咲いてゆく。

 そして彼らの手からは、ピロシキの香りが漏れていった。

 部屋の中にその香りが広がっていく。 

 それは松陰の鼻にも漂って来て、鼻腔を優しくくすぐった。 


 『この香りは?!』


 松陰はハッとした。

 慌てて周囲を見回す。

 匂いの元を探し、それが皆が持つピロシキからのモノだと気づいた。


 『まさか?!』


 驚愕に満ちた表情で、物は試しと手の中の物にかぶりついた。

 

 『う?!』

 

 途端、彼に異変が起きる。

 何か衝撃でも受けたのか目を大きく見開き、体の動きを止めたのだ。

 まるで彼の時間だけが止まったかの様であった。

 周りは呆気に取られ、心配の声を出す事も出来ず、空しく時間だけが過ぎていく。


 それはあるいは、ほんの一瞬だったのかもしれない。

 固まったままの松陰の口が再び動き出し、何度か噛みしめ、口の中の物をゆっくりと飲み込んでいく。

 ゴクリと音がする様な、そんな飲み込み方であった。

 その顔は、何とも言えない幸福感に満ちている。

 涙を流しているらしく、その頬には二本の線が走っていた。

 驚きの余り放心状態であったプチャーチンに向かい、松陰が尋ねる。


 『これはまさか、カレー風味のピロシキなのですか?』


 問われたプチャーチンはハッとして我に返り、答えた。


 『良く分かったな。我が艦隊はインドに寄って来たので、香辛料をたっぷりと買えたのだよ。その香辛料を使い、カリィ風味のピロシキとしてみたのだ。お気に召したかな?』

 「ハラショー!」

 『何?!』


 ロシア語であった。

 素晴らしいという意味の言葉である。 

 驚く彼を他所に、松陰は手のピロシキを愛おしそうに眺め、一口一口噛みしめる様に食べていく。

 瞬く間に手のピロシキを全て食べ終え、一息ついて口を開いた。


 『カレー風味のピロシキとは驚きました! 驚き過ぎて心臓が止まるかと思いましたよ!』


 それはこちらのセリフだと言いたくなったプチャーチンだった。


 『まさかこんな所で麗しき香霊様の化身と言える、あのカレーパンに似た食べ物に出会えるとは思ってもいませんでした!』

 『何を言っているのだね、君は?』


 意味が分からない。

 しかし興奮した松陰には届かない。


 『もう少しスパイスを効かせ、具をカレーに寄せ、焼きでなくて揚げれば、まさにカレーパンと呼んで差し支えないモノになるでしょう! あぁ、カレーパン! 我が懐かしき心の友よ! 君と出会えなくなって早数十年だよ! 早く会いたいものだ!!』

 『駄目だ、理解出来ない……』


 何を言っているのか考えるのを諦めた。

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