吉乃の想い
「松陰さん?!」
付き添いの肩を貸り、よろける様な足取りで帰って来た夫に吉乃は驚き、思わず駆け寄った。
倒れ込む様に吉乃にもたれかかる。
まるで体中の骨を無くしたのかと思う程、その身には力が入っていない。
「う、うぅぅ」
慌てて抱きかかえたのと同時に、松陰の口から呻き声が漏れる。
泣いている様であった。
見ればその手には、小さな袋がしっかりと握りしめられている。
「その袋は!」
吉乃は合点した。
松陰の状態を理解した。
何故ならその袋は吉乃が用意し、いざという時の為に帯刀に持たせた物であったからだ。
「松陰さん……」
心配していた事が現実のモノとなり、吉乃は夫の身を案じた。
一旦座らせ、自分は素早く布団の用意をする。
「ささ、布団の上で休みなんし。」
吉乃に促され、松陰は素直に布団にくるまった。
赤子の様に丸まり、袋の匂いを一心に嗅いでいる。
そんな夫の様子に衝撃を受けつつ、その意味する所に思いを馳せた。
スズの言っていた事が脳裏をよぎる。
心ここにあらずといった風情の夫を見つめる吉乃の顔には、深い悲しみが刻まれていた。
吉乃は身請けの際の取り決め通り、数年前から江戸に戻っていた。
脚気の治療薬である酵母の量産体制が整ったからであるが、その住まいは日本橋近く、四井家の敷地内にある。
広大な屋敷の一画に、こじんまりとした作りの離れを借り、松陰と夫婦二人で住んでいた。
松陰は佐賀と江戸とを往復せねばならず、佐賀で過ごした3年間と比べて夫婦で過ごす時間は少なかったが、吉乃に不満を言える筈も無い。
お国の為に懸命になっている夫であるし、自分には自由の身にしてもらった恩を返す義理がある。
身請けの代金は巨額であるから、まずは任された役目を必死で果たそうとした。
脚気治療薬の宣伝塔となり、その効果を広く周知する役目を担ったのだ。
花魁であった吉乃の知名度は依然として高く、その役割を立派にこなした。
吉乃は8年前、徳之進に身請けされたにも拘わらずに行方知れずとなった為、駆け落ちしただの大名に輿入れしただのと、人々の興味を掻き立てていた。
そんな吉乃が5年前にひょっこりと姿を見せたのだから、噂好きの町民が放っておく筈が無い。
加えて、吉乃が行方知れずになったのと同時期に、彼女としか思えない遊女を主人公とした悲しい恋の物語が刷られ、多くの女性達の関心を惹いていた事も影響していよう。
それは近頃世間の話題を集めていた、女による女の為の歌舞伎座、高良塚の劇作家が書いた物だった。
女による女の為の座とあり、その作家もまた女であった。
長州藩の出身で、杉千代と名乗る二十歳そこそこの娘である。
高良塚で上演される劇の台本だけでなく、普通の読み物も書く作家であり、既にいくつかの本を出版していたが、奇抜な発想から紡がれる物語に人々は魅了されていた。
そんな理由も重なり、脚気の治療薬は瞬く間に人々の間に広まっていったのだった。
吉乃は同時に、吉原の遊女の為の事業にも携わっていた。
遊女は服も飾りも自前で用意せねばならず、その費用が馬鹿にならない。
その為、必死で稼いだ所で出ていくモノが多く、中々自由の身にはなれなかったのだ。
そんな遊女を少しでも助ける為、衣装と飾りを貸すお店を設立したのである。
反対する意見は幕府に動いてもらい、対処した。
経営経験の無い吉乃なので、徳之進の嫁となっていたお雪が番頭を担当した。
吉乃はデザイン、宣伝、営業などを担い、庶民向けの廉価版を製作販売し、業務の多角化を図っていく。
目が回る忙しさであった。
脚気に苦しむ者が減り、遊女の暮らしに貢献出来ているという喜びはあったが、一方で吉乃には堪らなく寂しい思いがあった。
何年経っても松陰との間には、子宝に恵まれなかったからだ。
何度か妊娠はしたのだが、喜びもつかの間、流産してしまっていた。
その度に松陰は吉乃を労わったが、彼女の悲しみが癒える事は無い。
その理由を知った後では、より一層の深い嘆きに包まれた。
元堅、元琰父子の調査によって分かってきたのだが、白粉の使用が妊娠に悪影響を及ぼすらしい。
遊女といった白粉を日常的に使用する者を多数調査した結果、吉乃と同じ様に妊娠しても流産する率が高い事実が判明した。
しかも、無事に出産しても成長途中で夭逝してしまう場合が多いという、恐ろしい結果である。
吉乃は己の身の上を呪った。
遊女の時には張り切って白粉を塗ったものだが、今頃になってそんな過去を悔いた。
どうしてと、何度も自問自答を繰り返した。
そして、その調査結果に幕府は慌てる事となる。
大奥でも白粉を使う者は多かったからだ。
将軍の跡継ぎを生むのが大奥の務めであるので、その存在意義を抹殺しかねない重大な問題であった。
また、家慶の子供達が家定を除き夭折しているのも、乳母達が白粉を使っていたからではないかと推測された。
知らずに使っていたのであるから彼女達に罪は無いとは言え、由々しき事態であった。
幕府は大奥においての白粉の即時禁止を決める。
幸い、使用を止めれば時間の経過と共に回復するらしい。
禁止令が出されてから早数年。
その効果は未だ分からないが、体調が良くなったと感じる者ばかりで、幕府の決定を賞賛する女性達も多かった。
吉乃は寝入っている夫を静かに見つめる。
胸に去来するのは悲しみばかりである。
吉原を出てからは幸せな日々が続いた為に、それを失うのは酷く恐ろしく、耐え難い苦痛に思われた。
けれども、このままではそれ以上の辛苦が待っている様に思われ、どうすべきなのか決断出来ずにいた。
「松陰さんの心の中には、ずっと別の思い人がありんしたね……」
思わず言葉が漏れる。
それは初めから分かっていた事だった。
出会った頃より本人がそう口にしていたし、スズや千代といった、松陰を昔から知る者も同じ様に証言したからである。
「そう、わっちはそれを承知で松陰さんを……」
遊女の恋は悲劇で終わるのがお似合いなのかもしれない。
客の多くには妻がおり、束の間の休息を求めて遊郭に来るに過ぎないからだ。
遊びはどこまでいっても遊びで、本気になった遊女が馬鹿を見るだけなのかもしれなかった。
中には両想いになる男女もいたが、その多くが悲しい最期を迎えている。
逞しく生きる元遊女も知ってはいたが、その方が珍しい事なのかもしれない。
身寄りの無い身で誰にも頼れず貧困の底で喘ぐ者、梅毒に侵されて苦しむ者、歳を重ねた顔を隠し、尚も客を取らざるをえない者など、吉乃の知っている遊女達の少なからぬ数が、明日をも知れぬ生活を送っていた。
長英が梅毒に対する薬を研究しており、効果があるとの結果が得られた事も知っていたが、それは端緒に付いたばかりだ。
すぐに成果を上げるモノではあるまい。
それを思えば、自分の人生の何と幸運な事だろう。
身請けされ、惚れた相手と夫婦にもなれ、幸せに包まれた生活を送れた。
生憎子宝には恵まれなかったが、今は遊女を少しでも助ける事が出来ている。
これ以上の幸福を望むなど、罰が当たるだろう。
松陰には思い人がいるのは知っていたが、それは手の届かぬ異国にいる事も承知していた。
その思い人に出会う為、日本の開国を進めている事も理解していた。
初めは信じられなかったが、暫くすればその本気具合を納得せざるを得なかった。
そんな彼である。
アメリカからの使者が来たという事は、それは即ち彼の積年の願いが実現する事を意味する。
抑えられぬ興奮に打ち震える夫の様子に、それ程までに思う人なのかと強い嫉妬を覚えた。
しかし同時に、言い知れぬ不安にも苛まれる。
大切な交渉の場で取り返しのつかぬ失態を犯すのではないかと、努めて平静を装っている風に見える夫の身を案じた。
その時思い出したのがスズの言っていた夫松陰への特効薬で、漢方薬のお店から高値で仕入れた物を、そっと帯刀に渡しておいたのだ。
その心配は現実のモノとなった。
幸い切腹する様な事態には至っていないらしかったが、目の前の夫を見れば深刻さは理解出来る。
ここまで夫を狂わす存在に、吉乃は半ば諦めに似た感情を抱いた。
勝てる訳がないと悟る。
子のいないまま妻の座にいて、その様な存在を目の前に連れて来られるよりも、いっそ大人しく引き下がった方が良いのではないか、そう思う自分がいた。
妾で構わないと公言するスズを思うが、自分には到底無理だと感じる。
惨めな思いをするのは確実で、それでも尚松陰を思い続ける事は出来そうに無い。
そんな複雑な心情を抱え、夜は更けていく。
翌朝、帯刀が心配げな面持ちで訪ねてきた。
「先生、閣下のお見送りはどうなさいますか?」
ペリーが帰国するのは今日のお昼前である。
松陰が来ない事には締まらないが、訪ねて来ても布団の中から出てこない様子に、無駄と知りつつ尋ねた。
「今からインドに向かう人を見送るなんて、私にはとても出来ません……」
予想通りの返事が、力の籠っていないくぐもった声で布団の中から返ってきた。
これは想像以上に深刻らしい。
「分かりました。麟州様には私から言っておきます。つきましては、他の事も全て予定通りに進めて構いませんか?」
「……はい。」
松陰の了承を取付け、帯刀は去って行った。
ごゆっくりお休み下さいとの言葉を残して。
そしてペリーの艦隊が港を発ち、渡米使節の随行員を決める選考会の開催が全国へ発せられた。
その報せは瞬く間に諸国を駆け抜ける。
前々からその噂は立っており、遂にその時がやって来たのだと、喜び勇む者は多かった。
まだ見ぬ遠い異国を夢見る者、退屈な日常の終わりに歓喜する者、野望の足がかりにほくそ笑む者、国の為に身を捧げようと意気込む者など、その理由は様々であったが、一路江戸を目指し故郷を旅立つ事を決意させた。
長州。
「面白き、事も無き世に面白く、といった所か。精々、楽しませてもらうとするぜ。」
武蔵野。
「聞いたか、歳!」
「ああ! とうとう俺達の出番がやって来たんだな!」
「あのぅ、僕じゃあ早過ぎますか?」
「何言ってんだ、総司! お前も出るに決まってんだろ!」
「やったぁ!」
土佐。
「行くんか、龍馬?」
「うん、乙女(とめ)姉。武市さんもはりきっちょうぜよ。」
「男はえぇのぅ。羨ましいぜよ……」
「乙女姉! 男とか女とか、関係ないじゃか。老いも若きも、男も女も国を思う心に変わりは無い。松陰先生が言うちょったぜよ!」
「け、けんど……」
「男じゃ女じゃ一番拘っちうのは乙女姉ちや!」
そして江戸でも。
「兄上は参加されますか?」
「鉄舟か。勝負事に興味は無いが……」
「我が国の品格に関わる問題ですから、相応しくない者を篩に掛ける役目も必要なのではありませんか?」
「物は言い様だな。それに乗せられ参加し、もしもお前と相対すれば、本気で勝負出来ると思っておるのだろう?」
「いやぁ、ばれてますか! あっはっは!」
「全く、お前という奴は……」
「でも、折角の晴れ舞台ですから、どんな強い奴が集まるのか楽しみではありませんか?」
「それは否定せぬ……」
全国の強者共が己の野望を胸に、続々と江戸に集結していく。
諸国から江戸までは日数が必要である。
選考会が始まるまで今暫くの猶予があった。
一方の松陰は、未だ微睡の中にいた。
現実から逃避し、夢の世界に沈んでいた。
数日をそのままで過ごし、徐々に回復していく事となる。
ようやく松陰がその本調子を取り戻した頃、ロシアのプチャーチンが長崎に来航したとの報告が入った。
ペリーと同じで、江戸へ向かう様伝えられる。
数日後、横浜の沖にロシアの帆船団が現れた。
プチャーチンとは友人関係にあるシーボルトが出迎える。
アメリカ使節団と同じ様に江戸城で歓迎の式典が開かれ、ペリーに求めたのと同様の事がプチャーチンにも伝えられた。
そして再び、松陰はプチャーチンとの会談の場に臨んだ。
物語の展開上、史実を色々と無視しております。
ご容赦下さい。