ペリーの長崎入り
『クソッ! 忌々しい!』
ペリーが呟いた。
見つめる先には一艘の船がある。
つかず離れず、一定の距離を保っている。
まるで、我が子が付いて来ているのか心配し、何度も振り返る母親の如く、こちらの様子を伺っている風に感じられた。
『江戸へ向かうのを止められただけでも腹立たしいと言うのに!』
当初の計画では江戸湾に直接乗りつけ、軍艦の圧力で開国を迫るという物であった。
それが事前に阻止され、仕方なく長崎を目指している。
ただでさえイライラしているペリーにとっては、監視されている様で耐えがたく感じた。
『しかし司令、宜しかったのですか? 確か日本の慣習では、責任者に面会するだけでも果てしない時間がかかると聞いておりますが……』
部下が問うた。
シーボルトが紹介する日本の情報に、その事は覚悟しなければならないと書いてある。
事前に日本の事情を調査していたペリーは、その事もあって江戸に乗り込む計画を立てたのだ。
武力を背景に強気で臨めば、日本人はすぐに引くと踏んだ。
日本の礼儀に沿った振る舞いをしていては、開国を求める前に力尽きてしまうだろう。
過去、日本との交易を求めるロシアは、慣習に従い長崎にやって来た。
外交文書を渡すだけで時間がかかり、その返事を待つのに我慢の限界を迎えたとある。
長崎から江戸に使いを出し、その返事を待って次のやり取りとなるので、時間がかかって仕方なかったと言う。
そして、それこそが日本の外交交渉におけるやり方である。
鎖国を続けたい日本はのらりくらりとした対応をし、我慢の限界を超えた相手は外交交渉を投げ出し、怒って帰るという訳だ。
日本的には、こちらはきちんと取り組んでいるのに、相手が勝手に怒ってしまったと言いたいのかもしれない。
そんな事を許さない為、首都である江戸に乗りつけ幕府に直接親書を渡し、確実に返答を求める事を決めたのだった。
それが出来なくなった今、日本の時間稼ぎに付き合わねばならないのか?
部下が心配するのも無理はない。
異国の地で、いつになるとも分からない返事を待つなど、苦痛以外の何物でも無いのだから。
心配げな部下に、ペリーはニヤッと笑いかけて答える。
『心配するな。そうなりそうな時には帰国する。』
『え?! 宜しいのですか?!』
意外な答えに部下は驚いた。
『まあ、最後まで聞け。大人しく帰国する振りをして江戸に向かうのだ!』
『成る程!』
ペリーは先を行く日本の船に憎々し気な視線を向けつつも、不敵に言い放った。
『成る程、美しい……』
ペリーは溜息をついた。
眼前には長崎の町が映っている。
長崎は狭い湾の付け根に位置し、迫る山々に囲まれた町であった。
山の緑は深く、目に鮮やかな色である。
湾には漁師の小舟が浮かび、網を引き揚げ魚を獲っている。
港に至るまでの長い海岸線には所々に白い砂浜があり、その浜には青い松が生え、そのコントラストが美しい。
香港や広東、台湾、上海とも若干違う、異国情緒に溢れた風景が広がっていた。
シーボルトだけでなく、長崎を訪れた西洋人は一様に、日本の自然風景を褒めている。
その言葉に嘘はなかったなとペリーは実感した。
船員達もそれは同じ様である。
言葉を忘れて立ち尽くす彼らに、先導役の例の船がいつの間にやら近づいており、声を掛けてきた。
『後は長崎港の係の者が誘導しますので、その指示に従って下さい。それでは我らはこれで失礼します。日本にようこそ!』
そう言い残して沖へと去って行く。
ペリーは呆然とそれを見送った。
てっきり上陸まで付いてくると思っていたのだ。
鬱陶しいくらいに監視されるのだろうと覚悟していた分、肩透かしを食った気分であった。
『日本にようこそ、だと? その気も無いのに、まるで歓迎している様だな!』
社交辞令にしか感じられず、ペリーは毒づいた。
『うーむ、システマチックだな……』
『我が国と余り変わりませんね……』
入港に際し、ペリーらの大型船は直接接岸出来ない。
ある程度深さのある場所に投錨し、小舟に乗り換えて上陸するのだが、投錨する位置までは小舟に曳航される。
好き勝手な所に錨を降ろされても困るからだ。
大型帆船は小回りが利かないので、どうしてもそうなってしまう。
それは大型の桟橋がなければどの国でも同じである。
しかし、そのやり方は国によって違う。
きびきびとした曳航をする港もあれば、お国柄かのんびりとした場所もあった。
世界を回って来たペリーらにとって、長崎港の者達の手際は、トップクラスに素晴らしく、かつ気持ちの良いモノであった。
『オランダに指導されたのだろうな。』
『そうなのでしょうね。』
面会するだけで驚く程に時間のかかる様な国が、効率的な仕事をするとは考えられない。
芸術では素晴らしい作品作りをしていても、そこに効率の追求があるとは思えなかった。
そうであれば、他の者が教えたのだと推測するのは自然である。
『シーボルトは良い仕事をしているな。』
『そうですね。』
会った事も無いシーボルトを褒めた。
『うーむ、次々に進んでいくのだが、これが本当にあの日本なのか?』
『瞬く間にここまで来てしまいましたね……』
ペリーらは困惑気味に呟いた。
既に長崎港に上陸し、出迎えた長崎奉行の者に率いられ、奉行所に来ている。
シーボルトの話では上陸にも許可が必要で、それが出るまで船の上で待機する事もあるとあったので、余りの違いに驚いていた。
オランダ以外の訪問を認めていない日本の役人にしてみれば、ペリーらの来航は迷惑以外の何物でも無い筈なのだが、まるでそれを感じさせない。
寧ろ、
『何だか嬉々としている気がしないか?』
『待ち構えていた様にも見えますね……』
役人達の態度に不思議がる。
そして、
『……よって、早期の開国を求める次第である。』
どういう事なのだと思いながらも、ペリーは来航の目的とアメリカ大統領の親書の内容を告げた。
奉行所の通詞がそれを訳す。
英語が通じる事は聞いていたので、驚く事はない。
「貴国の要求は理解した。しかしながら、我が国には我が国の事情がある。貴殿の来航とその目的は速やかに御公儀に伝えよう。御公儀の返答は阿蘭陀館にて待って欲しい。」
阿蘭陀館は、学問を教えに長崎に滞在しているオランダ人が居住している館である。
幕府は開国へ向けて外国人の専門家らを招いていたが、彼らが日本を好きに回る事は許可しなかった。
長崎に彼らを留め置き、学びたい日本の者が学問所を訪れる形を取っている。
唯一、シーボルトのみが長崎以外にも足を伸ばす事を認めていた。
それとても、事前の許可を必要とするらしい。
『具体的にはどの位の時間なのか?』
ペリーは尋ねる。
半年と答えられても仕方ない。
「確かな事は言えぬが、早くて明日には出よう。」
『は? 明日?』
「そうだが?」
ペリーは絶句した。
長崎と江戸の距離は理解している。
祖国の東海岸と西海岸程には離れていないが、それでも一日で返事が来るとは思えなかった。
馬を走らせた所で無理であるし、船もそこまで早くは無い。
『一体どうやって?』
思わず聞いてしまう。
しかし役人はそれには答えず、曖昧に笑うのみ。
ただ、
「明日になれば分かる事だ。」
とだけ言った。
「まあ、そう言う訳であるから、明日まで待って欲しい。」
『……分かった……』
自信満々な役人の態度に反論する気が湧かず、ペリーは力無く頷いた。
『一体どういう事なのだ?』
阿蘭陀館でペリーが吼える。
『何がどうなっている?』
訳が分からず、イライラを誰かにぶつけずにはいられない。
事は順調に進んでいるので喜ぶべきなのだが、拭えぬ不安が湧き上がる。
自分は何か重大な思い違いをしていたのではないかと、何とも言えない恐怖心があった。
『どうされたのですか?』
そんなペリーを心配したのか、同館に滞在していたオランダ人の一人が声を掛けてきた。
商人らしく、英語はお手の物らしい。
『どうしたもこうしたも、聞いていた話と全く違うではないか!』
ペリーは早速噛みついた。
シーボルトの報告記には蒸気船を実用化しているとも、こうも早く物事が進むとも書かれてはいなかった。
その報告記から感じた日本人の印象は、手先が器用で美的なセンスがあり、好奇心に溢れて向学心があるとは感じていた。
しかし、変な髪形をして刃物を腰に帯び、責任を取ると言って己で己の腹を切るなどという、遅れた国の野蛮人としか思っていなかった。
それがいざ到着してみれば、随分と紳士的な態度で対応されたのである。
しかも、文明国の自分達でも感心するくらいに、効率良く考えられた方法を各所で採用していた。
これでは自分が、印象だけで判断していた愚か者に思えてしまう。
話が違うではないかと、ペリーが憤るのも無理はないのかもしれない。
『閣下は開国を求める為にいらっしゃったのですよね?』
『そうだ!』
『十年まではまだ時間がありますが?』
『我が国には我が国の都合がある! それに、我が国はそれを待つとは約束しておらん!』
『成る程。』
ペリーの答えは尤もに思える。
『開国を求める親書は、江戸の大君(将軍の事)にお渡ししたいのですよね? 奉行所の返事は何と?』
さらに商人は尋ねた。
しかしペリーは答え辛そうにする。
ようやく絞り出す様に、
『明日まで待て、だ……』
『やっぱりそうですか!』
『やっぱり、だと?』
予想もしない言葉にペリーは眉を顰める。
『シーボルトさんとは何度も話したのですが、何やら色々と隠している風に感じたのです。』
『隠している?』
『そうです。彼は我々の中で唯一、長崎から出るのを許されている人物です。この日本の事で、口に出来ない秘密をお持ちなのでしょう。』
『それは分かるが……』
シーボルトは幕府より名指しで指名された人物である。
何かと幕府の相談に乗り、機密情報も得ている事だろう。
外部に漏らさぬ様、口留めされている可能性は高い。
『だとしたら、その報告記も検閲されている?』
『いえ、彼はこの町に普通に住んでいますから、そこまでの事では無いでしょう。ただ……』
『ただ?』
商人は口ごもった。
ペリーは先を促す。
『彼の日頃の口ぶりから察すると、幕府は閣下を待っていた様な気がするのです。』
『何?』
『江戸からの返事が一日で来るなんて、普通はあり得ませんよ!』
『そもそもどうやって連絡するのだ?』
『それは分かりませんが……』
『まさか電信機なのか?!』
ペリーは己の思い付きにギョッとした。
アメリカの先進性、技術力を幕府に見せつける為、彼はお土産として蒸気機関車の模型と電信機を持ってきていた。
電信機があれば長崎と江戸間の通信も即時に出来るだろう。
しかし、祖国でも電信機を使った通信網は余り敷設出来てはいない。
ましてや遅れた野蛮人が、その様な高度な技術など持っている筈が無いではないか。
ペリーは己の思い付きを慌てて否定する。
そんな彼の心中を察したのかは分からないが、商人は続けた。
『兎に角、これが異例の事には違いありません。幕府の目的は恐らく……』
『恐らく?』
『ここで国を開く、でしょうね。』
『何?!』
またも面食らう言葉である。
開国する事を求めに来たのだが、それが直ぐ叶うとは思っていなかった。
大砲の威力を背景に、外交交渉を有利に進めようと思っていただけなのだ。
しかし、商人は違うと言う。
本来喜ぶべき事なのに、目の前の商人の暗い顔がそれをさせない。
『どうしたと言うのだ?』
堪らずペリーは真意を聞く。
『日本の諺に、飛んで火にいる夏の虫、という物があります。閣下はまさにその夏の虫ではないかと思うのです……』
『夏の虫……』
言葉の意味は良く分からないが、何やら凄く不吉な気がした。
前話ですが、手旗での通信は江戸中期に米相場を伝える為に使われていた様です。
条件が良ければ、時速700kmくらいで情報を伝えられたとか。
今回の返事が早いのはまた別の理由です。
長崎の町がペリーの目に普通の異国に映っているのは、江戸とのギャップを意識しております。
次話で江戸に向かいますので、それまでお待ち下さい。