長州藩の経済的な力
説明回です。
村田清風が登場したついでに、長州藩が幕末において維新を牽引できた理由を、経済的な面から確認しておきたい。
まず、江戸時代に日本全国を襲った冷害、虫害で飢饉が発生したのだが、西日本はその程度が低かった事がある。
東日本は人口が減少し、西日本は逆に増加していたのだ。
維新を担う人数の問題。
これが一つである。
次に、長州藩の地理的な位置関係である。
長州藩の周防と長門は本州の西の端に位置し、瀬戸内海と日本海に面している。
瀬戸内海は内海であるので波が穏やかであり、古くから海上交通が盛んで、多くの船が行き来していた。
日本海もまた多くの船が行き交う海の道であり、二つの海が交わる赤間関(現在の下関市)は多くの荷物が集まっていた。
また赤間関は九州との玄関口でもあり、九州産の物品もまた集まる地であった。
従って長州藩はこの地の発展に力を注ぎ、船宿の整備、蔵の拡充、積荷を売捌きたい者には蔵を貸し、商談が成立するまで保管料を徴収して商売の振興を支援した。
その甲斐もあって赤間関は発展し、藩の財政を支えたのだ。
そして、撫育方と呼ばれる投資資銀を確保した事である。
検地を断行し、新たに増えた藩直轄地5万石を別途に管理運営する事とし、撫育方を設置した。
撫育方の収入には基本的に手を付けず、未来への投資として貯蓄し続けた。
そこから塩田・石炭の開発、港の整備に資銀を投入したのだ。
幕末時、この撫育方の資銀は相当な額であったとされている。
三番目として産物の育成である。
米、紙、塩は長州藩にとって重要な産品で、全て白い事から「防長三白」と呼ばれた。
それに蝋燭の原料となるハゼの木を大量に栽培し、その実を絞った蝋を合わせ「防長四白」という。
これらは大阪市場でも高値で取引され、長州藩の財政を潤した。
これらの事と、清風とその後の者達の改革のおかげで経済的に余裕ができ、西洋の武器、教育にも資金を回せたのだ。




