パレンバン号、江戸へ
バスガイドさんを頭に浮かべ、お読み下さい。
「皆様、左手を御覧下さい。あれこそ、我が国が誇る霊峰富士でございます。その優美な山稜の美しさは古来より民の信仰を集め、今も浅間信仰として息づいております。富士山は典型的な成層火山であり、幾度かの噴火を経て現在の形となりました。独立峰として屹立するその姿は、我が国を象徴する風景として最も相応しい物でしょう。」
『おぉ、これは見事だ!』
『美しい……』
松陰の説明を受け、コープらは溜息をつく。
山頂に雪の残る富士山の姿は、遠く海の上から眺めても素晴らしかった。
「一体何をしているのだ?」
正睦が不思議そうに尋ねる。
パレンバン号の舳先にコープらを並べて座らせ、講義宜しく何やら述べている松陰を訝しんだ。
「いえ、コープ船長らへの観光案内ですよ。」
「何だそれは?」
「我が国の景色は、諸外国に比べて変化に富んでおります。南は琉球から北は蝦夷まで、ここまで南北に長く伸びた国家は意外と少ないのです。」
「ほう?」
「とりあえず、オランダを始めヨーロッパには皆無ですね。あるとすればアメリカ、清国、南米の国くらいですから、西洋の方には珍しいでしょう。ですので、我が国の誇る風景を紹介してあげているのです。」
「親切な事だな。」
「それが我が国への評価に繋がりますからね!」
松陰が笑顔で答えた。
オランダの軍艦パレンバン号で、江戸へと向かう途上の事である。
松陰達は長崎を出港し、太平洋上を渡って駿河湾沖まで来ていた。
3本マストの西洋の船は風を捉える能力に優れ、速度が出る。
逆風でもある程度は進め、日本の船では難しい日数での航海を実現している。
「しかし、こんなに早いと早馬が間に合うのか?」
正睦が心配げに言う。
コープらを歓待する席で、酒の勢いだろう、パレンバン号で江戸に向かう事になった。
翌日、酔いから醒めた正睦は青い顔をしたが、武士に二言は無いのではと松陰に押し切られた。
西洋の船が江戸に直接向かう事など許される筈が無い。
出島のオランダ商人が江戸に挨拶に向かう際には、陸路が普通である。
それは幕府の権威を守る為の方策であった。
しかし今、こうして西洋の船に乗り込み、江戸へ向かっている。
事情を説明する早馬を出してはいたが、船がこうも早いと間に合うのか分からない。
もしも間に合わずに江戸湾に入った場合、江戸は大騒ぎとなるだろう。
そうなった場合、世間を騒がせた罪で切腹もあり得る。
何と言っても、老中である自分が乗り込んでいるからだ。
当然、全ての責任は自分にのしかかる。
そうならない様、報せを受けたら合図の旗を掲げる様にお願いしてある。
正睦はどうか旗がありますようにと、心から願っていた。
そんな正睦の思いとは裏腹に、松陰の顔は明るい。
「大丈夫ですよ! 旗が無ければ沖で待機すれば良いだけです。それに、阿部様や土井様が堀田様を無碍に扱う訳が無いではありませんか!」
「そうであるか?」
あっけらかんとした松陰に、正睦の心配も軽減する。
「集成館の成果も持ってきております。その成果は、堀田様のご尽力無くしては成り立たなかったのですから、何か問題が起きても余裕でやり過ごせますよ! 集成館は、もはや堀田様無くしてはあり得ませんと、私が責任を持って説明致します故!」
「いやいや、そんな訳もあるまい?」
正睦は茂義、麟州らの顔を思い出し、松陰の言葉を否定した。
彼らの知識を思えば、自分などは足元にも及ばないと思う。
そんな正睦の謙遜に、松陰は声を上げる。
「何を言うのですか! ガス灯の光を強くする方法は、堀田様の思い付きではありませんか! 堀田様の思い付きがなければ、ガス灯は実用に耐えなかったのですよ?」
「そ、そうであるか?」
「そうでございます!」
松陰の力説ぶりに正睦は相好を崩す。
実際、正睦の蘭学の知識は豊富であり、研究には大いに役立っていた。
正睦がいなければ、ここまでの成果を出すのにはもっと時間がかかっていただろう。
「ですので何の心配も要りません! それに、これは絶好の機会です!」
「絶好の機会とな?」
「はい! 開国を内外に宣言するには、またとない好機です!」
「う、うむ。」
家慶、家定は既に開国を了承している。
前例を踏襲する事に腐心しがちな幕府であったが、仕える将軍がその方針を明確にしていれば、それに従うのもまた侍であろう。
将軍が開国を宣言すれば、それは国全体の意思となる。
幕府の権威が崩れていない今だから出来る荒業と言えた。
史実では、朝廷に開国の是非を確認した時点で、幕府の統治能力への疑問が各藩に生じてしまった。
「あれは三浦半島でございますね! ついに江戸ですよ!」
「海から眺める江戸とは、初めての経験だな……」
帆は風を孕み、船は波を掻き分け進む。
漁で沖合に出ている漁師達は、その船の雄姿に呆気に取られ、後ろ姿を見送った。
荷物を積んだ千石船を次々に抜き去り、江戸へ向かう。
その船の江戸到着は鎖国の日本に激震を走らせる事になるのだが、海の上で見送る者達には知る由もない。
「他に方法は無かったのですか?」
平素と変わらぬ表情で正弘は正睦に相対した。
「ぶ、武士に二言は無い!」
正睦が悲壮な決意をした表情で答える。
「民の混乱は考えなかったのか?」
老中首座の利位が厳しい顔つきで問うた。
「全ては演出でございますれば……」
「演出?」
「はい。西洋の船がいきなりドドーンと現れる。民は大騒ぎです。幕府はどう対応するのかと、固唾を呑んで見守ります。そして分かる、来航の意図。我が国の開国を勧める為だったのです。そして発表される、十年後の開国。民はもとより、各藩への広報として、これ以上ない絶好の舞台でございましょう!」
「これ! 歌舞伎では無いのだぞ!」
「堀田様はすっかりあの者に染まってしまいましたね……」
正睦の説明に利位は唸り、正弘はやれやれとばかりに肩を竦めた。
江戸城での一コマである。
時間は少し戻り、パレンバン号の江戸到着の模様を描写しよう。
長崎からの早馬は既に着いていた様で、合図である旗を望遠鏡で確認し、船は岸へと近づいた。
江戸の民は突然現れた西洋の船に驚愕しつつも、噂を聞きつけた大勢が、船の見える場所へと集まってきていた。
野次馬根性の強い者達がパレンバン号をその目で見ようと、小舟に乗り込み沖へと集まってくる。
好奇心の強い者らは果敢にも船に近づき、おーい、などと声を掛けた。
船上では大勢の西洋人が忙しそうに立ち動いている。
外見の違う人々の様子に、見物人は興味津々な表情でその様子を眺めた。
やがて、役人を乗せた船がパレンバン号に近づいて来る。
野次馬を乗せた小舟は、一旦は蜘蛛の子を散らす様に離れ、やり過ごしたら即座にまた集まった。
役人と西洋人がどんなやり取りをするのかと、固唾を呑んで見守る。
岸に戻れば、皆に話して回らねばならない。
ある種の使命感を持ち、役人と西洋人の一挙手一投足に注目した。
しかし、そこで誰もが想像もしない展開が始まる。
役人の第一声が、「堀田様はおられるか!」であったのだ。
聞いていた者らは耳を疑った。
西洋の船であるのに、特定の名前を持ち出して、いるかどうかなど意味が分からない。
そして、その返事に度肝を抜かれる。
「出迎えご苦労様です!」と、これも我が国の言葉で返ってきたのだ。
更に、「あれ? 忠震様ではございませんか! お久しぶりです!」と、身を乗り出したのは若い侍である。
それに応える役人は、「全く、人を驚かせるのが好きな困った奴だ!」と、呆れた様な口調で話し、二人はどうやら知り合いらしい事が分かった。
白昼夢を見ているのだろうかと、野次馬は己の頬をつねったという。
「それで、これほどの騒ぎを起こし、その責任はどうつけるのじゃ?」
相手を射殺す程の視線でその者は口にした。
眉間には深い皺が刻まれ、その者の本気度が見て取れる。
中途半端な言い訳では、即座に斬られてしまう事さえも覚悟しなければならない様な、張り詰めた空気が漂った。
江戸の市中を騒乱の渦に突き落とした張本人を前に、その責任を厳しく問うのは当然である。
江戸は今、沖に停泊中のオランダ船の噂でもちきりであった。
やれ我が国を侵略に来たのだの、実はオランダ船を拿捕して捕虜にしたのだの、遭難者を届けに来たのと、様々な噂が飛び交っている。
町民達は口々に噂し合った。
騒いでいるのは町民だけではない。
旗本は元より、江戸詰めしている各大名達もまた、浮足立っていた。
それは流言を信じたからとは違う。
江戸の沖に現れたオランダ船は、我が国に開国を勧告に来たらしいという情報が幕府の中から漏れ出たからだ。
昨年から巷では、十年後に開国するという漠然とした噂が流れていた。
馬鹿らしいとは思いつつも、何となく心に残っていた、開国という言葉。
それを今、強烈に意識する事態が起こり、にわかに慌てたのだ。
狼狽える家臣達の中にあって、藩主達もまた混乱していた。
「この騒ぎは必要な事でございます。」
殺気さえも感じる視線に怯みもせず、松陰は答えた。
「必要な事じゃと?」
松陰の答えを聞き、その者はギロリと睨む。
「はい。この騒ぎは民だけに留まらず、各藩の者らが、この国の将来を考えるまたとない機会なのでございます。」
「その様な事は聞いておらぬ! 儂が聞きたいのは、この様な騒ぎを起こし、もしもその方が罰せられたら、儂の地位図はどうなるのかと言う事じゃ!」
斉昭が悲痛な叫び声を上げた。
水戸藩江戸藩邸、斉昭の居室の事である。
「ですから、斉昭様には存分に働いてもらわねばなりませんね。」
松陰が冗談めかせて口にした。
「分かっておる! これは儂の戦いでもあるのでな。その方の働きを邪魔する輩は、儂の力で排除してやる!」
「ありがとうございます。それにつきましては、この度彦根藩主になられました、直弼様と是非とも連携して下さいね!」
「おぉぉ! 井伊殿か! 就任の挨拶として反本丸を頂いたぞ! 若いのに随分と気の回る方じゃのぅ! 結構結構!」
うっとりとした顔で言った。
それに追加して松陰が告げる。
「長崎から江戸に向かう途中で薩摩に寄りましたので、斉昭様の為に黒豚を持って来ましたよ。」
「何ぃ?!」
「今回は、生姜焼きを御馳走いたします!」
「しょ、生姜焼きとな?!」
「はい! これも美味しいですよ!」
「その方が言う料理に間違いはないからのぅ! 楽しみじゃ!」
晴れやかな表情を見せ、斉昭は高らかに笑った。
「聞いたっぺよ。」
斉昭との会見を終えた松陰を待っていたのは、これまた深刻そうな表情の東湖であった。
あの事だろうなと思い、松陰はまず報告する。
「この度、吉乃さんと所帯を持ちました。」
「スズはどうするっぺ?」
案の定の質問である。
スズに熱心に稽古をつけ、実の娘の様に可愛がっていた東湖であるだけに、松陰が吉乃と結婚したとの報せに裏切られた思いがあった。
「スズは、私には勿体無い程の女の子です。彼女自身の幸せを見つけて欲しいと思っております。」
「そうだっぺか……」
東湖は呟いた。
当時日本を訪れた西洋人は、その風景を絶賛しております。
今と余り変わらない気もしないでもないですね・・・
叶わぬ夢ですが、見てみたいです。




