表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
153/239

年の瀬

 新年までもう間もなくの師走、佐賀藩武雄温泉の湯舟に、松陰の姿があった。

 外は肌を刺す冷気が漂っていたが、湯の中は極楽を思わせる。


 「ふぅ。良いお湯ですねぇ。」


 人知れず声が漏れた。

 忙しく動いたこの一年を振り返る。

 台湾から帰国してすぐに江戸に参り、あろうことか大奥へと入り込んだ。

 江戸城の火事に巻き込まれ、次期将軍家定の正室任子に正体がばれながらも、無事に務めを終える事が出来た。

 萩へと帰り、下関で越荷方を立ち上げ、佐賀へと移った。

 

 ここでも働きづくめである。

 蝋石は長崎の五島列島だけではなく、広島、岡山でも産出する事がわかり、取り寄せて煉瓦を焼いている最中だ。

 数が揃えば、とうとう丸炉を作る事になる。

 鉄鉱石、石炭の研究にも着手した。

 ニトログリセリンは危険なので、慎重に事を進めている。

 セメントの作り方も解明せねばならない。 


 よくもまあ、こんなに手を付けたモノだと内心で驚く。

 自分一人ではとても不可能だろう。

 信頼できる仲間のお陰だと、彼らの存在に感謝した。

 そして今、もっとも感謝すべき相手がいる。


 「本当にいいお湯でござんすねぇ。」


 その相手、吉乃が口にした。

 日の落ちた闇の中、湯舟の外で蝋燭の炎が揺らめいている。

 微かな灯りに照らされて、湯に温められた吉乃の顔は色っぽい。

 勢いで嫁になってもらったが、所帯を持って本当に良かったと思う。

 それまでは、未だ出会えぬカレーにうなされる日々であったが、吉乃と共になってからは幾分和らぎ、心の平穏が訪れていた。

 狂おしいまでのカレーへの執着は鳴りを潜め、静かな情熱が胸を満たしている。


 邪魔する者は、たとえ幕府でも容赦はしないと思っていたが、次期将軍家定と縁を持った今、その思いに変化が生まれていた。

 幕府の統治が、そんなに悪い物ではなかった事も関係していよう。

 より良き明日へと向かって、絶え間ない改革に勤しむ正弘らの姿勢に、尊敬の念を覚えたのだ。

 自分の知る維新の是非について、大いに疑問を感じていた。


 それに、志ある者は幕府にも諸藩にも在野にもいる事がわかった。

 あるのは考え方と立場の違いくらいでしかない。 

 誰もがこの国の将来を心配し、自分に出来る事をしようと考えているのだ。

 それを知った今、殊更に幕府を解体する必要性は感じない。

 寧ろ、統治に関するエキスパートとして、中央政治の中にいてもらった方が良いだろう。

 そんな事に思いを巡らせる松陰に、吉乃が言った。


 「わっちにこんな幸せが訪れるなど、思いもせんでござんした。昨年の年の瀬は吉原で迎えたのに……。全ては遠い過去の様……」

 「私もですよ。家で吉乃さんが待っている今、日々の全てに充実感があります。残るはカレーだけなんだなと思うと、体の隅々にまで力が漲りますよ。」


 松陰の言葉に吉乃はクスリと笑う。


 「かれえと、夢でも口にしてござんすよ。余程好きなんすねぇ。」

 「それはもう! カレーとはアルファでありオメガですからね! 世界はカレーに始まりカレーに終わるのでございますよ!」


 待っていましたとばかりに口にした。

 意味の分からない事を言う夫を、吉乃は朗らかに見守っている。


 「わっちの分はありんすか?」


 冗談めかせて問いかけた。


 「吉乃さんには、私のとっておきを振舞いますから、お楽しみに!」

 「ふふ」


 顔を見合わせ、二人して笑った。


 「なんつーか、見てるこっちが恥ずかしいんだけどよ……」

 「はぁ……。うちの人とは大違いだわ……」

 「母ちゃん、かれえって何?」


 同じ湯舟に浸かる庄吉一家が話している。

 年の瀬という事で、日頃の疲れを癒そうと皆で来ていたのだ。

 

 「全く、背中が痒くなるぞ……」

 「茂義様、石鹸で洗うと垢が良く落ちますよ?」

 「いや、そういう意味ではない……」


 種臣のアドバイスに微妙な表情で応える。

 

 「しかし、この石鹸は素晴らしい。体ばかりか、衣服の汚れも良く落ちるというではないか。」

 「それは確かに。牛の脂から作ったというのが、ちと気になるが……」


 麟州と正睦が喋っていた。

 

 「体を清潔にしておけば、皮膚病などを防げるそうです。」


 帯刀が口を添える。


 「ふむ。石鹸は麻の油でも作れるそうじゃな。麻は痩せた土地でも栽培出来るので、河川敷など今まで使えなかった土地が活きる。石鹸を作る職が生まれ、それを使う事によって人々が健康になる、か。まっこと、良く考えたものじゃ!」


 小楠が酒をちびりちびりとやりながら言った。

 それぞれがそれぞれの思いを語り、師走の夜が更けていく。

 



 「蝦夷の海の幸を届けに来たぜぇ!」


 新年を迎える準備に忙しくしていたある日、平吉達が手に抱えきれない程の荷物を携え、武雄に現れた。

 

 「お久しぶりです、平吉さん! という事は船が完成したのですね?」

 「ああ。試験航海に蝦夷まで行ってきたぜ。」

 「具合はどうでしたか?」

 「ま、扱い方は台湾で見てるしよ、そこまで苦労はしなかったな。」


 台湾より帰国してすぐ、松陰は萩の船大工に頼み、西洋の船を作ってもらっていた。

 エドワードから入手した図を下に、竜骨を備えた帆船である。

 余り大きな船では目立つので、千石船よりも若干大きい程度だ。

 いずれは巨大船建造の許可をもらい、改めて作り始めねばならない。

 

 海軍の創設も待ってはいるが、今はまだ早い。

 帆船の時代はもうすぐ終わり、蒸気船の登場は間もなくである。

 急いで木製艦を作る必要性は薄いのだ。

 蒸気船と帆船では、乗組員に必要な技量が全く異なるので、どうせなら蒸気船に絞って鍛えたい所である。

 

 「航海は如何でしたか?」

 「復元力だったか? 竜骨があると、揺れには強ぇみたいだぜ。ユラユラ揺れるが、揺れるだけでひっくり返る事はなかったしよ。そういう点じゃあ、千石船よりは安心出来たな!」


 喫水線の浅い在来の船は、船体の底が平面に近い形となっている。

 積載性などには優れるが、横風等には滅法弱い。

 平時では安定性に優れるが、海が時化ると転覆の危険性が増す。

 対して喫水線の深い船は、建造の費用や積載性に劣るが、船体の強度と揺れに対する抵抗性に勝るのだ。

 沿岸を行き交う交易船には千石船で良いが、時に大波となる中を進まねばならない船には、在来の船では具合が悪い。 


 「蝦夷の食べ物は」

 「ま、これでも見ろよ!」


 松陰の言葉を遮り、平吉が樽より取り出したのは、中に詰められた塩漬けの鮭である。


 「どうでえ、立派な鮭だろ?」

 「こ、これは!?」


 懐かしすぎて言葉に詰まる。

 家計の苦しかった杉家の食卓に、おめでたい新年といえども鮭が並ぶ事などあり得なかった。

 前世ではありふれた魚であったが、流通の整っていないこの時代、下級藩士の家には、おいそれと手が出る代物ではない。

 そんな鮭が、それも見事な大きさの物が、その存在を見せつけるかの様に目の前に鎮座している。

 松陰の胸に去来するのは、一体どんな感情であったか。


 「何だ、知り合いか?」


 騒ぎを聞きつけた茂義達が集まって来る。

 そんな彼らも、平吉らの持って来た土産の品々に目を見開いた。


 「これは見事な鮭だな!」

 「江戸でも滅多にお目に掛かれんぞ!」

 「これが鮭?! は、初めて見た……」

 「新年は鮭の塩焼きを肴に一杯か……。これは縁起が良い!」


 口々に感想を述べあう。

 一方の松陰は、何か思う所があるのか黙り込んだ。


 「なんでえ? 気になる事でもあるのかよ?」

 「いえ、父上、母上にもと思いまして……」


 平吉の問いに寂しげに答えた。

 自分一人が申し訳ないと感じたのだ。

 そんな松陰の背中をバシバシと叩き、励ます。 


 「心配すんなって! 萩にもしっかりと置いてきたからよ!」

 「本当ですか?!」

 「ああ。清風様には毎年持って行ってるから、ついでだ。だからオメェは気にする事ねぇんだよ!」

 「ありがとうございます!」


 平吉の言葉にホッと安堵した。

 そうとなれば、俄然残りの品物が気になる。


 「昆布も見事ですね!」

 「おうよ! 利尻の昆布だから当然だな! それにこっちは干あわび、これは干海鼠なまこだな。」

 「干鮑? 干海鼠?」


 前世ですら食べた事がないかもしれない、高級食材に驚く。


 「これって凄く高価な物ではないですか?」

 「だな。」

 「どうして?」


 試験航海なので荷物は積んでいなかった筈である。

 たとえ荷物を積んでいた所で、この様な品物を買えるだけの商売が出来るとも思えない。


 「まさか?!」

 「どうした?」

 「船が違うから、ばれないと思って海賊を?!」

 「んな訳ねぇだろ!」


 平吉は、松陰のボケにすかさずツッコミを入れた。


 「知り合いの商人に、越荷方とオメェさんの事を話したのさ。やっこさん、えれぇ興味津々で聞いていたぜ? でよ、挨拶代わりにってんで、これを持たされたって寸法だ。」

 「成る程……」


 御用の時にはどうぞ御贔屓に、という事だろう。

 

 「信頼出来る方ですか?」


 回りくどい言い方を嫌う平吉なので、単刀直入に疑問をぶつける。

 ニヤッと笑い、答えた。


 「蝦夷でアイヌを相手に商いをやってんだぜ? 聖人君子はいねぇよ。ただまぁ、あくどい事をやってる他の連中に比べれば、マシな方だろうな。」

 「そう、ですか……」


 文化も商習慣も違うアイヌを相手にした商いは、相当に酷かったらしい。

 尤も、危険を冒して荒れやすい海を渡り、商いをしなければならない商人にも、言い分はあるのだろうが……。


 「蝦夷といえば開拓ですね……」


 ふと松陰が呟いた。

 それは必ず成し遂げねばならない事業である。

 なぜなら、

 

 「玉ねぎ、人参、じゃが芋は、カレーの基本ですからね。」

 

 特に、冷涼な気候を好む玉ねぎは、北海道での栽培が外せない。


 「それに、牛の放牧もありますからね。」


 斉昭に約束したチーズの為にも、乳牛の導入を図らねばなるまい。


 「行くんだろ?」


 平吉が尋ねた。

 それは勿論そうなのだが、今ではない。


 「準備が整いましたら、是非とも行きたいですね……」


 手を付けた事に何の成果も出さず、この場を離れる事は出来ない。


 「ま、その時は俺が連れて行ってやるさ。」

 「ありがとうございます。宜しくお願いします。」

 「その為にもこの船にしっかりと慣れておかねぇとな。」

 「そのうち大型船も作りますよ?」

 「慣れだな、慣れ!」


 二の腕の力こぶを叩いて見せた。


 「それはそれとして、この時期の蝦夷ですと、秋鮭とかたらとか、タラバガニとか毛ガニとか北寄貝とか、美味しい物が一杯だったのではありませんか?」

 「よ、良く知ってんな……」

 「で、頂いたのですか?」

 「そ、そりゃあ蝦夷に行ったんだぜ? 食うに決まってんだろ?」

 「それは大変羨ましいですねぇ……」


 にこやかに語りかける松陰であったが、平吉は恐ろしい修羅を感じたという。

タラバガニは明治頃から食べだしたそうですが・・・


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ