年の瀬
新年までもう間もなくの師走、佐賀藩武雄温泉の湯舟に、松陰の姿があった。
外は肌を刺す冷気が漂っていたが、湯の中は極楽を思わせる。
「ふぅ。良いお湯ですねぇ。」
人知れず声が漏れた。
忙しく動いたこの一年を振り返る。
台湾から帰国してすぐに江戸に参り、あろうことか大奥へと入り込んだ。
江戸城の火事に巻き込まれ、次期将軍家定の正室任子に正体がばれながらも、無事に務めを終える事が出来た。
萩へと帰り、下関で越荷方を立ち上げ、佐賀へと移った。
ここでも働きづくめである。
蝋石は長崎の五島列島だけではなく、広島、岡山でも産出する事がわかり、取り寄せて煉瓦を焼いている最中だ。
数が揃えば、とうとう丸炉を作る事になる。
鉄鉱石、石炭の研究にも着手した。
ニトログリセリンは危険なので、慎重に事を進めている。
セメントの作り方も解明せねばならない。
よくもまあ、こんなに手を付けたモノだと内心で驚く。
自分一人ではとても不可能だろう。
信頼できる仲間のお陰だと、彼らの存在に感謝した。
そして今、もっとも感謝すべき相手がいる。
「本当にいいお湯でござんすねぇ。」
その相手、吉乃が口にした。
日の落ちた闇の中、湯舟の外で蝋燭の炎が揺らめいている。
微かな灯りに照らされて、湯に温められた吉乃の顔は色っぽい。
勢いで嫁になってもらったが、所帯を持って本当に良かったと思う。
それまでは、未だ出会えぬカレーにうなされる日々であったが、吉乃と共になってからは幾分和らぎ、心の平穏が訪れていた。
狂おしいまでのカレーへの執着は鳴りを潜め、静かな情熱が胸を満たしている。
邪魔する者は、たとえ幕府でも容赦はしないと思っていたが、次期将軍家定と縁を持った今、その思いに変化が生まれていた。
幕府の統治が、そんなに悪い物ではなかった事も関係していよう。
より良き明日へと向かって、絶え間ない改革に勤しむ正弘らの姿勢に、尊敬の念を覚えたのだ。
自分の知る維新の是非について、大いに疑問を感じていた。
それに、志ある者は幕府にも諸藩にも在野にもいる事がわかった。
あるのは考え方と立場の違いくらいでしかない。
誰もがこの国の将来を心配し、自分に出来る事をしようと考えているのだ。
それを知った今、殊更に幕府を解体する必要性は感じない。
寧ろ、統治に関するエキスパートとして、中央政治の中にいてもらった方が良いだろう。
そんな事に思いを巡らせる松陰に、吉乃が言った。
「わっちにこんな幸せが訪れるなど、思いもせんでござんした。昨年の年の瀬は吉原で迎えたのに……。全ては遠い過去の様……」
「私もですよ。家で吉乃さんが待っている今、日々の全てに充実感があります。残るはカレーだけなんだなと思うと、体の隅々にまで力が漲りますよ。」
松陰の言葉に吉乃はクスリと笑う。
「かれえと、夢でも口にしてござんすよ。余程好きなんすねぇ。」
「それはもう! カレーとはアルファでありオメガですからね! 世界はカレーに始まりカレーに終わるのでございますよ!」
待っていましたとばかりに口にした。
意味の分からない事を言う夫を、吉乃は朗らかに見守っている。
「わっちの分はありんすか?」
冗談めかせて問いかけた。
「吉乃さんには、私のとっておきを振舞いますから、お楽しみに!」
「ふふ」
顔を見合わせ、二人して笑った。
「なんつーか、見てるこっちが恥ずかしいんだけどよ……」
「はぁ……。うちの人とは大違いだわ……」
「母ちゃん、かれえって何?」
同じ湯舟に浸かる庄吉一家が話している。
年の瀬という事で、日頃の疲れを癒そうと皆で来ていたのだ。
「全く、背中が痒くなるぞ……」
「茂義様、石鹸で洗うと垢が良く落ちますよ?」
「いや、そういう意味ではない……」
種臣のアドバイスに微妙な表情で応える。
「しかし、この石鹸は素晴らしい。体ばかりか、衣服の汚れも良く落ちるというではないか。」
「それは確かに。牛の脂から作ったというのが、ちと気になるが……」
麟州と正睦が喋っていた。
「体を清潔にしておけば、皮膚病などを防げるそうです。」
帯刀が口を添える。
「ふむ。石鹸は麻の油でも作れるそうじゃな。麻は痩せた土地でも栽培出来るので、河川敷など今まで使えなかった土地が活きる。石鹸を作る職が生まれ、それを使う事によって人々が健康になる、か。まっこと、良く考えたものじゃ!」
小楠が酒をちびりちびりとやりながら言った。
それぞれがそれぞれの思いを語り、師走の夜が更けていく。
「蝦夷の海の幸を届けに来たぜぇ!」
新年を迎える準備に忙しくしていたある日、平吉達が手に抱えきれない程の荷物を携え、武雄に現れた。
「お久しぶりです、平吉さん! という事は船が完成したのですね?」
「ああ。試験航海に蝦夷まで行ってきたぜ。」
「具合はどうでしたか?」
「ま、扱い方は台湾で見てるしよ、そこまで苦労はしなかったな。」
台湾より帰国してすぐ、松陰は萩の船大工に頼み、西洋の船を作ってもらっていた。
エドワードから入手した図を下に、竜骨を備えた帆船である。
余り大きな船では目立つので、千石船よりも若干大きい程度だ。
いずれは巨大船建造の許可をもらい、改めて作り始めねばならない。
海軍の創設も待ってはいるが、今はまだ早い。
帆船の時代はもうすぐ終わり、蒸気船の登場は間もなくである。
急いで木製艦を作る必要性は薄いのだ。
蒸気船と帆船では、乗組員に必要な技量が全く異なるので、どうせなら蒸気船に絞って鍛えたい所である。
「航海は如何でしたか?」
「復元力だったか? 竜骨があると、揺れには強ぇみたいだぜ。ユラユラ揺れるが、揺れるだけでひっくり返る事はなかったしよ。そういう点じゃあ、千石船よりは安心出来たな!」
喫水線の浅い在来の船は、船体の底が平面に近い形となっている。
積載性などには優れるが、横風等には滅法弱い。
平時では安定性に優れるが、海が時化ると転覆の危険性が増す。
対して喫水線の深い船は、建造の費用や積載性に劣るが、船体の強度と揺れに対する抵抗性に勝るのだ。
沿岸を行き交う交易船には千石船で良いが、時に大波となる中を進まねばならない船には、在来の船では具合が悪い。
「蝦夷の食べ物は」
「ま、これでも見ろよ!」
松陰の言葉を遮り、平吉が樽より取り出したのは、中に詰められた塩漬けの鮭である。
「どうでえ、立派な鮭だろ?」
「こ、これは!?」
懐かしすぎて言葉に詰まる。
家計の苦しかった杉家の食卓に、おめでたい新年といえども鮭が並ぶ事などあり得なかった。
前世ではありふれた魚であったが、流通の整っていないこの時代、下級藩士の家には、おいそれと手が出る代物ではない。
そんな鮭が、それも見事な大きさの物が、その存在を見せつけるかの様に目の前に鎮座している。
松陰の胸に去来するのは、一体どんな感情であったか。
「何だ、知り合いか?」
騒ぎを聞きつけた茂義達が集まって来る。
そんな彼らも、平吉らの持って来た土産の品々に目を見開いた。
「これは見事な鮭だな!」
「江戸でも滅多にお目に掛かれんぞ!」
「これが鮭?! は、初めて見た……」
「新年は鮭の塩焼きを肴に一杯か……。これは縁起が良い!」
口々に感想を述べあう。
一方の松陰は、何か思う所があるのか黙り込んだ。
「なんでえ? 気になる事でもあるのかよ?」
「いえ、父上、母上にもと思いまして……」
平吉の問いに寂しげに答えた。
自分一人が申し訳ないと感じたのだ。
そんな松陰の背中をバシバシと叩き、励ます。
「心配すんなって! 萩にもしっかりと置いてきたからよ!」
「本当ですか?!」
「ああ。清風様には毎年持って行ってるから、ついでだ。だからオメェは気にする事ねぇんだよ!」
「ありがとうございます!」
平吉の言葉にホッと安堵した。
そうとなれば、俄然残りの品物が気になる。
「昆布も見事ですね!」
「おうよ! 利尻の昆布だから当然だな! それにこっちは干鮑、これは干海鼠だな。」
「干鮑? 干海鼠?」
前世ですら食べた事がないかもしれない、高級食材に驚く。
「これって凄く高価な物ではないですか?」
「だな。」
「どうして?」
試験航海なので荷物は積んでいなかった筈である。
たとえ荷物を積んでいた所で、この様な品物を買えるだけの商売が出来るとも思えない。
「まさか?!」
「どうした?」
「船が違うから、ばれないと思って海賊を?!」
「んな訳ねぇだろ!」
平吉は、松陰のボケにすかさずツッコミを入れた。
「知り合いの商人に、越荷方とオメェさんの事を話したのさ。奴さん、えれぇ興味津々で聞いていたぜ? でよ、挨拶代わりにってんで、これを持たされたって寸法だ。」
「成る程……」
御用の時にはどうぞ御贔屓に、という事だろう。
「信頼出来る方ですか?」
回りくどい言い方を嫌う平吉なので、単刀直入に疑問をぶつける。
ニヤッと笑い、答えた。
「蝦夷でアイヌを相手に商いをやってんだぜ? 聖人君子はいねぇよ。ただまぁ、あくどい事をやってる他の連中に比べれば、マシな方だろうな。」
「そう、ですか……」
文化も商習慣も違うアイヌを相手にした商いは、相当に酷かったらしい。
尤も、危険を冒して荒れやすい海を渡り、商いをしなければならない商人にも、言い分はあるのだろうが……。
「蝦夷といえば開拓ですね……」
ふと松陰が呟いた。
それは必ず成し遂げねばならない事業である。
なぜなら、
「玉ねぎ、人参、じゃが芋は、カレーの基本ですからね。」
特に、冷涼な気候を好む玉ねぎは、北海道での栽培が外せない。
「それに、牛の放牧もありますからね。」
斉昭に約束したチーズの為にも、乳牛の導入を図らねばなるまい。
「行くんだろ?」
平吉が尋ねた。
それは勿論そうなのだが、今ではない。
「準備が整いましたら、是非とも行きたいですね……」
手を付けた事に何の成果も出さず、この場を離れる事は出来ない。
「ま、その時は俺が連れて行ってやるさ。」
「ありがとうございます。宜しくお願いします。」
「その為にもこの船にしっかりと慣れておかねぇとな。」
「そのうち大型船も作りますよ?」
「慣れだな、慣れ!」
二の腕の力こぶを叩いて見せた。
「それはそれとして、この時期の蝦夷ですと、秋鮭とか鱈とか、タラバガニとか毛ガニとか北寄貝とか、美味しい物が一杯だったのではありませんか?」
「よ、良く知ってんな……」
「で、頂いたのですか?」
「そ、そりゃあ蝦夷に行ったんだぜ? 食うに決まってんだろ?」
「それは大変羨ましいですねぇ……」
にこやかに語りかける松陰であったが、平吉は恐ろしい修羅を感じたという。
タラバガニは明治頃から食べだしたそうですが・・・




