石炭化学
「さて、ここに石炭がありますが、木炭の代わりにたたらに使えますか?」
「冗談じゃねぇ! 使える訳がねぇ!」
手に入れた石炭を前に、松陰が庄吉に話を振ると、即座に強く否定した。
「それは何故でございますか?」
「火の勢いが違ぇし、何より鉄に良くねぇんだよ!」
「それは確かな事でございますか?」
「俺っちが前にやっての事でぇ!」
「成る程。そういう予感はしておりましたが、試してみたのならば確かでしょうね。」
石炭は木炭に比べ火力が劣る。
そして石炭に含まれる不純物、特に硫黄は、鉄の質を大きく損なう物質であった。
「けれども、石炭を使わずして西洋に負けない鉄の生産量は望めません! 木炭が良いのでしょうが、それでは山の木がいくらあっても足りなくなるでしょう!」
「そんな訳ねぇだろ?」
庄吉が笑う。
たたらでは、一度の操業で木炭を大量に消費する。
木炭の原料木は周りの山々から調達するが、これまで山が禿げ上がった事などは無い。
区画を決め、順繰りに伐採地を移動していく事はしていたが、一巡する頃には元の状態に戻っていた。
それをきちんと守っていれば、いくら鉄の生産量を増やした所で山の木が絶える事は考えられない。
「たたらは一年中操業するのでしたっけ?」
笑う庄吉に松陰が尋ねた。
「冬の間だけだな。」
「冬の間、焼き続ける訳ではありませんよね?」
「まあな。一代が三日で、その後は鋼の選別もあるし、壊した炉を作り直さねぇといけねぇし……」
言いつつ庄吉の顔が曇る。
今、自分がやっている事を思い出した。
炉を壊さず、連続して鉄を作り続ける方法を探っている最中なのだ。
もしもそれが成功したならば、一年中鉄を焼き続ける事が出来る。
そうなれば、それに見あった木炭が必要ということであり、原料木の伐採量も飛躍的に増えるだろう。
それはつまり、
「山が耐えられねぇって事か……」
暗い表情で呟く。
付け足す様に松陰が口を開いた。
「我が国は雨に恵まれ、木々の回復は西洋よりも早いです。それでも、これから増える一方の鉄の生産量を賄える程、木々がある訳ではありません。」
イギリスは森の木を伐りつくし、それで石炭を使う様になったらしい。
けれども、一度乱れた植生は容易には回復しなかった様だ。
それは他のヨーロッパ諸国も同様である。
その為、西洋各国の森林は極めて多様性の薄い、貧弱な生物種となってしまっている。
そしてそれは他人事ではない。
いくら雨が多くて湿潤な気候であったとしても、植生の回復速度を超える速さで木々を伐採していけば、待っているのは禿山しかないのだ。
しかも、鉄の需要は今後、飛躍して伸びていくだろう。
鉄で船を作り、線路を引いて蒸気機関車を走らせねばならない。
大砲、鉄砲の生産も急務である。
軸受等、日常生活で使う鉄製品も当然増えていく。
その鉄需要を木炭だけで賄うのは、到底無理な話なのだ。
「山の木々を守る為にも、石炭の活用は必須なのです!」
「あ、あぁ。分かったぜ。」
庄吉も納得した。
そして松陰は他の面々に向き合う。
「そんな訳で高任さん、次貫斎様、石炭の研究を宜しくお願いします!」
名を言われた二人は顔を見合わせた。
宜しくされても意味が分からない。
「それは良いのですが、具体的には何をするのです?」
「燃やすだけでは駄目なのか?」
二人の疑問を受け、松陰は考え込んだ。
製鉄に使うのはコークスだと知っていたが、それが石炭とどう違うのかまでは理解していない。
石炭をそのまま使うのは問題があるのだとすれば、その答えは……。
「多分、石炭は様々な物質を含んでいるのだと思います。」
「様々な、とは何であるか?」
次貫斎が尋ねた。
「確か、石炭を乾留した時に出て来るのがコールタール、一酸化炭素、硫黄だった様な……」
「全く分からんぞ?」
「ガス灯の燃料は石炭から出るガスを使っていた筈……」
明治新政府主導の下、横浜の煉瓦作りの街にはガス灯が灯っていた事を思い出す。
「ちょっと実験してみましょう!」
「よかろう。」
松陰達は準備を始めた。
「空気の流入を抑えた状況で熱を加えると、木から余分な物質が抜け、木炭が出来ます。この操作を乾留と呼びます。薪から木炭を作る際、可燃性のガスと木酢液が採れます。同じように石炭を乾留すると……」
儀右衛門らに手伝ってもらい、実験装置を作り上げる。
鉄製の鍋に石炭を詰め、固く蓋をした。
蓋には銅で作った管が刺さっており、中の蒸気を外へと導く道となっている。
管は隣に用意した、水の入ったガラス製の容器に刺さっている。
容器は密閉されており、管は水の中で途切れていた。
そしてそのガラス容器からも銅の管が伸びている。
準備が整い、鍋を火にかけた。
「皆さん良くご存知の水でございますが、冷たければ氷となり、溶けて水に変わり、熱すれば蒸気となってしまう事はご承知の事と思います。」
そう言って水滴を鍋の上に落とした。
ジュっという音を出し、水滴はたちまちのうちに消えてしまう。
「実は大抵の物が、固体、液体、気体になるのです。固い鉄も、熱を加えれば溶けてしまいますよね? 更に熱を加え続けていけば、やがては蒸発を始めます。」
「何?! 本当かよ?!」
庄吉が驚きの声を上げる。
あの固い鉄が水の様に蒸発するなど、普通は想像も出来まい。
鉄の沸点は約2千8百度なので、この時代では容易に立証出来ないが。
「まあ、そんな事は今は良いのです。それよりも石炭です。ほら、蒸気が出てきましたよ。」
松陰がガラス容器の中を指さした。
見れば管の先からは、ポコポコと盛んに泡が出てきている。
「蒸気は大変熱いです。それが水に冷やされると、気体であった物が液体に変わります。海水を沸かして出来た蒸気を冷やすと真水が出来ますね? 塩の蒸発する温度が高いから分離出来るのですが、これを蒸留と呼びます。」
「むむ、よく見れば確かに何やら出てきておるぞ!」
茂義が何かを見つけたのか、大声を上げた。
石炭についていたゴミなどが、飛んで来る事もあるのだが……。
「この時、水に溶ける物質、例えばアンモニアなどは水に溶けてしまいます。そして水に溶けない物、例えば油ですね、油は水より軽いので水面に浮かび、水より重い物は下に沈みます。そして水に溶けない気体は、更に次の管から出てきます。」
そう言ってガラス容器から出ている管を、水の入ったお碗につけた。
同じ様にプクプクと、泡が出ている。
「私の記憶では、この気体が一酸化炭素だったと思うのですが……」
そう言って管をお椀から出し、その先に火種を近づける。
ポッと小さな音を出し、管の先に火が灯った。
「おおぉ! 火がついておる!」
「すげぇ!」
見守っていた面々は感嘆した。
「出てきた気体は一酸化炭素と、水素もあったかな? そして水に溶けているのは硫黄の筈です。熱を加える事によって硫酸も出来ているかもしれません。そして、水に溶けない物質が、コールタールと呼ばれる物質となります。因みに、体には良くないので吸い込まない様にして下さいね。」
大まかなに言ってそういう所であろうか。
「コールタールは木材の防腐剤に使えます。杭に塗れば長持ちしますし、船の表面に塗っても良い筈です。」
「その様な物が採れるのか……」
茂義が驚く。
船体の劣化は漁師だけに留まらず、荷を運ぶ者にとっても頭の痛い問題であった。
それが防げるとなれば、それぞれの負担は軽減されよう。
有名な黒船は、船体にコールタールを塗っていたのだ。
「コールタールとくれば、石油由来のアルファルトですね。あれば舗装道路を作れるのかな? 新潟には石油が出る筈だし……」
松陰が独り言を呟いた。
道路の整備も必要な事である。
考え事をしている松陰に茂義が声をかける。
「りゅうさんとは何だ?」
「硫酸ですね。化学式ではH2SO4です。」
我に返り、書いて説明する。
「水素が二つ、硫黄、酸素が四つ、か。」
「そういう事です。硫酸は強い酸にございます。ミョウバンや石膏は、硫酸と金属などがくっついた物ですね。」
「成る程……」
茂義が頷いた。
そして松陰は、途中であった話を再開する。
「これらが十分出きった石炭は今までよりも火力が増し、鉄を損なう物質が少ない筈です。」
暫く気体の噴出が続いたが、出方が少なくなってきた段階で鍋を火から下ろした。
鍋が冷えるのを待ち、蓋を取り、中の石炭を取り出す。
黒々と輝いていた石炭は若干色褪せ、外観も違っていた。
隣に置いた、鍋に入れていない石炭と比較するとよく分かる。
スベスベとした肌触りから、ザラザラとした触感にも変わっていた。
「松陰先生! 入れる前に比べて、三割くらい軽くなっています!」
新平と共に重さを測った帯刀が言い、その数値を小五郎が素早く筆記する。
実験の前後には入念な調査をする様、指導してある。
言わなくても確実に実行するのは、流石であると言うべきだろう。
「では、この石炭に火を着けてみましょう。」
「よっしゃ!」
比較の為、何もしていない石炭と並べて火にくべた。
鞴を動かし、風を送る。
やがて着火したので、火から下ろして比較する。
「おおぉ! 確かに火力がつえぇな!」
庄吉が目を見張る。
何もしていない石炭に比べ、火の勢いが違う。
「より純粋な炭素の塊になってますからね!」
「炭素ってぇと……」
「“ぼくのふね”の“く”、でございますね!」
「正解です、小五郎!」
「やりました!」
「やりましたね!」
正解した小五郎が、新平、帯刀と喜びを分かち合う。
年の近い彼らは、今ではすっかりと打ち解けていた。
そんな彼らを微笑ましい顔で見つめるのは、松陰だけではない。
「そうであった!」
ふと、茂義が何を思ったか叫び、慌てて部屋を飛び出した。
ドタドタと足音を響かせ、遠ざかっていく。
暫くし、再び足音を響かせ、息せき切って戻って来た。
「小僧! これだ!」
そう言って数冊の本を松陰に手渡した。
松陰はその中の一冊を手に取り、眺めてみる。
「こ、これは?!」
「分かるか?」
期待に満ちた表情で松陰を見た。
「いえ、さっぱりです! オランダ語ですか?」
「小僧、貴様という奴は……」
期待した分だけガックリときてしまう。
思わず握り拳を固めた茂義であったが、松陰の頭に落とす事はせずに、暫く空中を漂わせた挙句、力なく下ろした。
考えてみれば、この歳でイギリスの言葉を知っているだけでも驚きなのだ。
オランダの言葉を知らなくても当然だろう。
勝手に期待したのは自分であり、それが裏切られたからとて責める筋ではなかろう。
そんな茂義の心中も知らず、松陰はパラパラと本をめくった。
「オランダ語はさっぱりですね……」
「そんなに違うのか?」
「そうですね、まるで違います。あ、でも、これは多分化学の本ですね。」
「かがく?」
「そうです。これを見て下さい。」
松陰はあるページを開き、茂義に見せた。
「ほら、これです。これって硫酸です。」
「そうなのだ! 貴様が書いたのと同じなのを思い出したのだ!」
先ほど松陰が説明した硫酸、H2SO4が書かれていた。
「それにHNO3と言えば硝酸です。ここでは硫酸から硝酸を作る方法が書かれている様ですね。」
「それならここにあるぞ?」
「そうなのですか?」
「阿蘭陀商人から買ったのだ。」
茂義は書籍のみにとどまらず、様々な製品、薬品も購入していた。
「硫酸、硝酸があれば、グリセリンは油を加水分解して得られるから、多分ニトログリセリンが作れますよ!」
「にとろぐりせりん?」
「はい! 珪藻土に染み込ませれば、ダイナマイトの完成です!」
「だいなまいと?」
「そうです! 火薬よりも強力な爆薬です! ダイナマイトがあれば、岩盤を吹き飛ばすのが楽になりますから、山をくりぬいて道を作るのが簡単になりますよ!」
「何だと?!」
アルフレッド・ノーベルがダイナマイトを発明する、凡そ二十年前の事であった。
ニトログリセリンはご愛嬌です。
苦労の末に成功したという事にして、詳しくは触れません。
石炭の乾留ですが、雰囲気ですので、あの程度でご容赦下さい。