武雄の豪傑鍋島茂義
未成年に酒を強要する描写があります。
この日、佐賀城はただならぬ緊迫感に包まれていた。
薩摩、長州の家老が一堂に会し、三藩合同で佐賀に学問所を作るという、これまで聞いた事のない事業計画が話し合われるからである。
江戸に滞在中の藩主直正の強い期待もあり、失敗は許されない。
客人を迎える佐賀藩家臣らは、緊張してその日を迎えた。
懸念があるとすれば、武雄の前領主茂義が呼ばれている事であろうか。
藩内ではその豪傑ぶりから人気が高かったが、他藩の家老らにそれを発揮されては敵わない。
本人がこの計画にひどく乗り気で、首謀者という吉田松陰を待ちかねているらしい様子が不安を煽る。
家臣達は、何も起こらず無事に終わる事を心から願った。
「何だ?! 歳若いとは聞いておったが、小僧ではないか!」
「先生に向かって失礼ですよ!」
「今度は小童?!」
居並ぶ佐賀の家臣達は、いきなりの茂義に頭を抱えた。
清風によって紹介された松陰の姿に驚き、それに声を上げた小松帯刀に更に驚愕した様だ。
この場にいるのが不思議なほどの若者達であり、茂義の気持ちは痛いくらいに理解出来たが、なんせ相手は他藩の者達である。
いくら茂義が領主の身分であったとはいえ、無礼であろう。
どうなるのかとハラハラしながら、家臣達は事の推移を見守った。
対してその茂義である。
報告から、吉田松陰なる者が若いとは知っていたのだが、まさかここまでとは思いもしない。
こんな歳で大胆にも清国に渡り、その経験を本に著した人物とは、にわかには信じられなかった。
松陰の書いた本を何度も読み返し、山ほどの尋ねたい事があった茂義である。
今日という日を楽しみにしていた身としては、些か腑に落ちない気分であった。
余りに若すぎると感じたのだ。
「不躾だが、貴公は本当にこれらを書かれた吉田松陰その人なのか?」
そう言って茂義は、懐より本を取り出した。
『蒸気機関の概要』『西洋の大砲について』『これからの鉄砲』等、松陰の書いた物である。
繰り返し読んだ様子が伺えるくたびれ具合であった。
「はい、確かにそれらは私が書いた物にございます。」
「いくつか尋ねても良いか?」
「勿論でございます。」
茂義は家臣に命じ、ある品を持ってこさせた。
「これを見て欲しい。」
そう言って松陰に手渡す。
「鉄砲ですね。」
火縄銃であった。
「何か気づく事はあるか?」
茂義に言われ、松陰は鉄砲を観察する。
見た所は何の変哲も無い、普通の火縄銃である。
念入りに見ていき、銃口へと視線を移し、それに気づいた。
「これは螺旋?! 銃身内に螺旋が切ってあるのですか?!」
「ほう?」
茂義が眉を動かす。
見れば銃身の内部に溝が切られており、螺旋を描いていた。
「では、この鉄砲の弾はどうなっているのですか?」
「これだ。」
今度は弾丸を渡す。
「椎の実型なのですね! 凄いです!」
「む?」
「それに紙で火薬を包み、蝋を塗って薬莢としておりますね!」
「なる程。」
椎の実型の弾丸が、蝋で固めた紙と一体となっていた。
松陰の書いた本を参考に、茂義が作らせた物である。
一目でそうと分かると言う事は、本の内容を理解していると言う事だろう。
「それで発射は試されたのですか?」
「勿論だ。これまでの火縄銃とは比べ物にならぬ飛距離と命中率だぞ!」
鼻息荒く言い切る。
松陰は憧憬を込めて茂義を眺めた。
「絵で説明したとはいえ、こんなにも早く再現されるとは……。茂義様は、直正様のお言葉通りの方ですね……」
「ほう? 義弟殿は儂の事を何と説明したのだ?」
「性は豪快なれどもその技や繊細。此度の事業を成功させるには、うってつけの人物であるとの事でした。」
「がっはっは! その様に言われては照れるではないか!」
途端に破顔に、バンバンと乱暴に松陰の背中を叩く。
「どうやら本物らしい! 疑って悪かった! 小僧という言葉は取り消そう!」
「いえいえ、小僧であるのは事実ですから、何も問題はございません。」
「くくく、言うではないか。先ほどの小童も取り消す。すまん!」
「い、いえ!」
茂義に謝られた帯刀が慌てて応えた。
「そうと分かれば善は急げだ! なんせ聞きたい事は山ほどあるのだぞ? おっとその前に、これの試射でもしてみるか!」
「え?」
言うなり茂義は銃を抱えたまま、松陰を引きずり始めた。
始まった会合はまだ挨拶しか済んでいない。
それなのに茂義は既に興味を失った様で、家臣達に後は任せたとだけ述べて、松陰を連れて部屋を出て行こうとする。
余りに自由な茂義に松陰の思考も追いつかない。
当然周りも呆気に取られ、何も言う事が出来ないままだ。
「茂義様?! 会合は宜しいのですか?」
ようやく我に返り、松陰が叫ぶ。
「構うものか! 奴らは優秀だ、任せておけば間違いない!」
「まあ、麟洲様もおりますから、それはその通りかもしれませんが……」
「だろう? だったら儂らは、一刻も早く技術を物にすれば良いのだ!」
「それは御尤もです……」
「おっと、久しいのう、秋帆! そちも良く来てくれた! ほれ、共に参るぞ!」
茂義が秋帆の顔を見つけ、声を掛けた。
秋帆は苦笑する。
「相変わらず、茂義候は茂義候ですね。」
「がはは! 面白くなってきたではないか! 早く大砲を飛ばしてみたいものだ! ほれ、さっきの! 名は?」
「こ、小松帯刀と申します!」
「そうか! そちも参れ! ほれ、さっさと行くぞ!」
「は、はい!」
帯刀、秋帆を引き連れ、松陰を抱えたまま茂義は歩き出す。
後には、慌てて頭を下げる佐賀藩の家臣と、それを気の毒そうに見つめる者達がいた。
「儂の酒が飲めぬと申すか!」
「も、もう、限界です……」
「これしきの酒で限界などとは情けないぞ!」
「九州男児と一緒にしないで下さい!」
その夜、一行をもてなす酒宴が開かれた。
茂義はあれから散々松陰を質問攻めにし、ひとまず満足したのかようやく解放してくれた。
解放してくれたと思った先には、次々に注がれる酒が待っていた。
酒豪の多い九州にあり、茂義もやはり底無しの呑兵衛だ。
少ししか飲もうとしない松陰に、しつこく酒を注いできた。
「いい歳をした大人でもあるまいに、何を小さくまとまっておる!」
「いえ、飲み過ぎると辛い思い出が蘇るので……」
「小僧のくせに、何をぬかすか!」
物分かりが良すぎる松陰に不満があったのか、茂義は尚も酒を注いだ。
如才ないと言えばそうなのかもしれないが、得体が知れないとも言える。
酔わせてみれば、隠した胸の内を知る事も出来よう。
気に入った相手であるが故に、その本性を把握しておきたいと思ったのかもしれない。
断りきれず、松陰は酒を飲み干していく。
気づけば、したたかに酔っていた。
それを見計らい、茂義は気になっていた事を尋ねる。
「お前の目的は何だ? 何故我らを巻き込む? 何故萩藩だけでやらぬ?」
酔った松陰には分からなかったが、その目は鋭く、獲物を狙う猛禽類を思わせた。
他藩が資金を提供し、佐賀に学問所を作るなど理解が出来ない。
何か恐ろしい裏でもあるのではないかと、茂義が勘繰るのも無理はないだろう。
「わ、私の目的?」
視点の定まらない松陰が言った。
「そう、お前の目的だ。」
「私の、目的……。そう、それは、この国をカレーで染め上げる事!」
「何? かれえ?」
「かれえでありません! カレーです!」
「それは何だ?」
初めて耳にする単語に、茂義は重ねて尋ねた。
「よくぞ聞いてくれました! カレーとは、私がこの世界に生を受けた理由にして、未練と試練を司るモノ。丹念に煮込まれたその味と香りは、私の心を完全に捉えて離しません!」
「煮込む? 味と香り? 何かの料理なのか?」
「その通りにございます! カレーとは、神がこの世にその奇跡の御業を示された、証の品にございます!」
「何を言っているのだ?」
松陰に茂義の言葉は届いていない。
「そう、私の生きる目的。それはカレーに再び巡り合う事! そして全国津々浦々に至るまで、カレーを行き渡らせる事!」
力強く宣言した。
「母ちゃん、今日の晩御飯は?」「カレーよ。」「やったぁ!」「早く手を洗ってきなさい。」「はーい!」
「全国の家庭で、そんな会話を聞きたいのです!」
寸劇まで披露し、その所信を述べた。
「生活に喜びを! 家庭に笑顔を! 食卓にはカレーを出そう!」
何かのスローガンの様に、高らかに言う。
「嗚呼、香霊様! ようやくここまで辿り着きました! もうすぐ、もうすぐでございます! 後十年もすればこの国を開国し、御許に参る事が叶うのです!」
それは、この時代に生れ落ちてからの悲願であり、何としても成し遂げねばならない宿願でもあった。
「今暫くお待ち下さい! この松陰、必ずや貴方様の下へ辿り着いてみせます!」
天を仰ぎ大きく誓う。
「私はカレーをこの手に掴む! いや、掴むのはナンだ!」
「何だと?」
「ナンですよ!」
「意味が分からん……」
茂義との会話は噛み合っていない。
そんな茂義は、はたと気づいた。
「まさかこやつは、馬鹿、ではないのか?」
愕然とした顔で叫ぶ。
「今更でござる。」
「そう、今更じゃな。」
二人の様子を傍から見ていた者達が、口々にその意見を述べる。
亦介の言葉に清風が頷いた。
他の者もコクコクと、盛んに首を縦に振る。
「先生は純粋なだけですよ!」
松陰を尊敬する帯刀が擁護した。
「カレーを食べる為に国を開く? 純粋な馬鹿でなければあり得んぞ!」
台湾での事を念頭に、弥九郎がその心中を語る。
「江戸での事もそうだな。肉の味に人目を憚らず涙するなど、大馬鹿者と断ずるに躊躇いはせぬ。」
麟州が口にした。
「確かに天下御免の大馬鹿者だが、そうでなければ我らが一堂に集まってはいまい?」
才太が静かにそう結ぶ。
それには皆も反論はない様で、互いの顔を見合わせ、笑った。
「言われてみればそうだな! ならば良し! 儂にもそのカレーとやらを、必ず食わせるのだぞ?」
「任せて下さい!」
茂義の言葉に、松陰は即座に返事した。
こうして、佐賀における集成館事業が始まりを告げた。




