麟州の国入り
「斉彬様、本当に宜しかったのですか?」
薩摩への途上、船の上の麟洲に、お供の一人である大山柾克が口にした。
「その名は捨てたが……。まあ、良い。何がだ?」
予想はついたが、ここはとぼける。
「世子の座をお捨てになられた事にございます。」
思った通りであった。
「今更であるな。」
「しかし!」
「まあ聞け。余の襲封を願うお前達の思いは理解しておる。才能ある者は、身分に関わらず登用する事を明言しておったからな。余がこうなってしまって、落胆した者もいよう。」
「その通りにございます!」
英明との誉れ高かった麟洲である。
彼の薩摩藩主就任に、一縷の望みを賭けていた下級藩士は多かった。
「しかしな、それは早計なのだ。」
「どういう事にございますか?」
麟洲の言葉が理解出来ず、柾克が問う。
しかし、麟洲はそれには答えず、逆に質問した。
「余が担う集成館事業の目的は、道中で散々聞いたであろうから、その方らも分かっておろうな?」
「え?! そ、それは……。お前は分かるか?」
「ぬ?」
「はぁ、全く、お前達ときたら……」
武を重んじるのが薩摩隼人とはいえ、流石にこれはどうかと思い、麟洲は深く溜息をついた。
「良く聞いておけ。集成館とは、次の時代への布石であるぞ。」
「次の時代、でございますか?」
「そうだ。」
「それは一体、どの様な物でございますか?」
「端的に言えば、国を開いた後の事だ。」
「な、なる程!」
西洋の来航に伴い、開国する事くらいは柾克も理解していた。
門前の小僧でも、習わぬ経くらい読める様になるものだ。
「その集成館で、何を興すのかは分かっておるか?」
「て、鉄を……」
「そうだ。西洋の来航に備え、武器や船を作らねばならない。その為には鉄が大量に必要となるので、製鉄技術を向上させねばならぬ。武器や船を作るだけでは意味が無い。それらを自在に操る人材の育成もせねばならぬ。」
「は、はぁ……」
頼りなげに頷く。
「それだけではないぞ? 動力としての水車を活用し、蒸気機関も研究せねばならぬ。石炭の使用も試みなければならないし、化学という学問も始めねばならぬ。武器だけあっても、民の生活が苦しければそれは強い国とは言えぬ。生活を楽にする数々の道具、技術を高めねばならないのだ。」
「た、沢山ございますな!」
柾克の顔が引き攣っている。
半分くらいは理解出来ていない。
「……お前達が落胆する必要の無い事を、一つ例を挙げて説明しよう。先ほど挙げた中の船であるが、具体的にはどの様な船なのか分かるか?」
「え?」
「この様な近海を行き来するのではなく、遠く異国に渡る為の船だ。」
「異国、でございますか……」
とはいえ、あまりピンとはこない。
「左様。一月程も船で東に走れば、アメリカに行けるそうだぞ。」
「一月ですか? あめりか……」
「おっと、すまんな。それは今は直接関係無い。要するに、水軍を作ると言う話だ。」
「水軍?!」
戦国の時代であれば、毛利水軍などが有名であろうか。
国内で戦が無くなると水軍は無用の長物と化し、今となってはどの藩も保有していない。
「水軍というのも些か古めかしいので、海軍、であるな。」
「か、海軍……」
何やら心をときめかせる響きであった。
「長崎に作る予定の造船所は、つまり日の本における海軍の雛形という訳だ。」
「日の本の、でございますか?」
「左様。あの吉田松陰の考える未来に幕府は無い。あるのは、日の本という国の下に藩を纏め、政も軍もその下で動く国の姿であるぞ。」
「は、はぁ……」
さっぱり要領を得ない。
「……分かりやすく説明すると、その方がその働き如何で、幕閣になれるやもしれぬ、という事だ。」
「え?!」
これには柾克も驚いた。
幕府が無くなるのであるから幕閣になれる筈はないが、理解しやすい様に話すにはこれくらいしかないだろう。
「少なくとも、余がこの話を受けたのは、新しい日の本を作る為である。その日の本では、生まれた身分によって出世が決まるなど認めぬ。能力も実績も無いのに、人の上に立つ事は叶わぬ。その家に生まれただけで絶大な権力を握るなど、あり得ぬ事と知れ。」
「そ、その様なお考えでしたか!」
柾克は感激した。
やはり、自分の見込んだ通りのお人だと思った。
対する麟洲は、薩摩藩の世子であった者の言葉ではないがな、と自嘲していたが……。
気分を変える為、柾克の好みそうな話題を振る。
「日の本は国を開き、西洋諸国と交流を持つ。世界は弱肉強食の時代らしいぞ。船同士が大砲を打ち合い、派手な会戦が繰り広げられているそうだ。」
「そ、それは!」
案の定、柾克らは目の色を変えて麟洲の話に食いついた。
「我が国も、時として西洋の国と戦をするやもしれぬ。その時に活躍するのが、これから作る海軍であるな。」
「な、なる程!」
「では、その船の船長は誰がやる?」
「え? それは……誰でしょう?」
「今はおらんな。であるから、今から育てるのだ。」
「そ、そういう事でございますか!」
柾克も合点がいった。
「お前達に今から学問を修めよとは言わぬ。出来の良さそうな弟達に、練成館に来させれば良かろう。今のうちに練成館に来ておれば、先で開設する海軍で重きを成せよう。薩摩におっては果たせぬ、立身出世も望めよう。いや、余がその道を整えるのだ。その為に、藩主の座を諦めたのだから。」
「斉彬様!」
感動の余り、柾克らは涙ぐむ。
このお方の為に、己の命など投げ出そうと心に誓った。
一方の麟洲は、やや冷めていた。
それは一見すると喜ばしい事に思えるが、そう単純ではないぞ。
身分で出世が妨げられないという事は、武士である事も意味を成さぬと言う事。
民百姓でも、学問や実績次第では、武士達の上に立つという事だ。
うかうかしておったら、それこそ今の地位さえ失うぞ。
高揚している元家臣達を前に、麟洲は一人、彼らの行く末を思った。
口にした言葉に偽りは無いが、それは何の代償も払わずに得られる果実ではない。
努力の末にそれを掴んで欲しいと願った。
「それ、薩摩に着いた様だぞ。」
「おぉ! 着きましたか!」
遠くに見えるは、雲のかかった指宿山である。
これより薩摩に入り、父である藩主斉興に面会し、これまでの経緯を詳しく説明せねばならない。
調所広郷は状況を十分理解している筈だが、齟齬が無いのか吟味せねばならないだろう。
しかし、父より疎まれていた身の上である。
公的には死んでしまっているので、どの様な事が待ってるのかは分からない。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか、お楽しみといこうか。」
「我らの命に代えましても、斉彬様には指一本触れさせません!」
高揚したままの柾克が、決意を漲らせて吠えた。
「拍子抜けする程何もなかったな。」
戸惑う様な、清々しい様な、そんな顔で麟洲が口にする。
薩摩での用事が滞りなく終わり、佐賀に向け出発する日の事である。
麟洲は薩摩での日々を振り返る。
父斉興に面会し、世子の座を譲る事を己の口で述べた。
その際、心に思う所が何も無かった訳では無い。
けれども、これより先で待つ事を考えれば、薩摩藩という小さな世界に拘るのが馬鹿らしくもなった。
どこまでも広がる大海原を進み、その向こうにあるというアメリカの事を想像したのかも知れない。
遠い異国の地を思えば、船から見える薩摩の町が、とても小さく感じられたのだ。
喜色満面の笑顔で麟洲の禅譲を受け入れた父親の顔が、今のさっぱりとした思いを強くしたとも言えるだろう。
これで異母弟の久光が世子となる筈だが、勢い余って斉興の引退もあるかもしれない。
麟洲の心変わりを未然に防止する事を考えれば、十分あり得よう。
何やらそれが滑稽に思えた。
「余は一足先に発たせてもらうぞ。」
随伴する予定の広郷らを置いて、旅装束となった麟洲はお供を連れて屋敷を出る。
柾克らはそのままに、もう2名増えていた。
広郷の出発はもう暫くかかるだろう。
一足先に発った理由、それは。
「ほれ、姿を見せぬか。」
薩摩の城下町を抜け、街道を進み、人気の無い山道に差し掛かった頃、唐突に麟洲が言う。
お供の柾克らは既に抜刀している。
すると、麟洲の声に従った訳ではないだろうが、木々の間から顔を隠した者達が現れた。
ざっと8名はいる。
「その様な気は薄々しておったが、実力行使にまで出るとはな。」
「斉彬様、お命頂戴仕ります。」
手には抜き身の刀を握り、麟洲一行との間合いを詰めていく。
「誰の手の者だ!」
柾克が一喝するが、応える者はいない。
「お前達、野暮な事を聞くでない。聞いた所で本当の事など話す筈がなかろう。我らはただ、押し通るまで。」
「はっ!」
柾克らは麟洲を守る事を第一とし、打って出る事はしない。
凶行者らの動きにいつでも対応出来る様、中段に構え、注意深く間合いを計る。
数で言えば不利である。
けれども、麟洲の厳選した剛の者であり、相手もそれが分かっているのか軽々しく動く者はいなかった。
ジリジリと肌がひりつく時間が過ぎてゆく。
漂う緊張感に耐えかねた一人が遂に動く、その時であった。
ドォーン!!
突然、大音響が木々の間を貫く。
と、凶行者の一人が肩を押さえ、呻きながら崩れ落ちた。
彼らの間に驚愕が満ちる。
「今だ!」
気を抜いていなかった麟洲の声に合わせ、柾克らが瞬時に間合いを詰め、一閃した。
相手は反応が遅れる。
致命傷は免れたようだが、これで満足には動けないだろう。
しかも、どこからか銃を放った援軍がいる。
「くそっ! 引け!」
形勢不利と見るや、彼らは倒れた仲間に肩を貸し、一目散に逃げ去った。
危険は去ったが安心は出来ない。
銃を放った者も刺客かもしれないのだから。
狙撃を警戒し、柾克らは距離を詰め、麟洲を囲んだ。
気の抜けない時間が続く。
すると、間の抜けた声と共に茂みの中から男達が現れた。
「松陰殿に言わせれば、たいみんぐばっちり、でござったな。」
「お前のそういう所は尊敬するぞ……」
「照れるでござる。」
それは飄々とした雰囲気を漂わせ、けれども油断なく周囲の様子に気を配る、戦い慣れを感じさせる者達であった。
「お、お前達は斎藤弥九郎に山田亦介!」
柾克が驚きの声を上げた。
馬関で別れた筈の二人が、薩摩にいようとは思わない。
「その様な気はしておったが、薩摩にまで入っておったとはな。」
麟洲が口にする。
「松陰殿に言われ、迎えに来たでござる。刺客はいなくなった様でござるよ。」
弥九郎が周囲を確認し、亦介が言った。
「お前達怪我はないか?」
「かたじけのうございます! 誰一人怪我はしておりません!」
「良し。ならば進むとしよう。」
麟洲が柾克らに言う。
それでようやく柾克も刀を納めた。
刺客は去ったが油断は出来ない。
周囲に気を配りつつ、一行は進みだした。
「しかし、あの吉田はこの襲撃を見通したというのか?」
麟洲が亦介に尋ねた。
知恵者とは思うが、人の裏まで知っていようとは思わなかった。
「良くあるぱたーんでござるよ。」
澄まし顔で答える。
「ぱたーん?」
一行は互いの顔を見やり、どういう意味だと囁きあう。
「これ亦介!」
弥九郎が咎める。
悪びれもせずに亦介は説明を始めた。
「英明なるが故に、藩の上層部に煙たがられていた跡継ぎの帰還でござる。その座を譲るとはいえ、上層部の連中は安心は出来んでござろう。しかも公的には死んでおる相手。誰かが追手を差し向けても、何も可笑しくは無いでござる。」
「他藩の者にまでそう思われるとは、何やら恥ずかしい気分だな。」
麟洲が自嘲した。
遠く異国の地に想いを馳せ、将来の国のあり方に憂いを持っていても、身近にあるのは人の情念であった。
どの様な考えから刺客を差し向けたのかは分からないが、少なくとも国を憂いての事ではあるまい。
己の地位を心配して、または藩の安泰を考えてといった所だろうか。
「空を眺めてばかりいたら、足元がお留守になると言う事だな。」
己を戒める。
どれだけ崇高な思いを掲げていようが、人の心配事の第一は今日明日の食い扶持であろう。
懸命に築き上げた地位を失う事を、恐れない者はいまい。
あやふやな未来に期待をかけるよりも、確かな今を必死に守ろうとするだろう。
独善的になっていたのかもしれないと反省した。
どれだけ自分が正しくても、一人では何も出来まい。
練成館へ集まる一人一人の生活までも考えなければ、事業の成功は難しいだろう。
また、それによって仕事や地位を失う者の事まで考慮せねば、社会にとっては害悪となるかもしれない。
心躍っていた気分は消えた。
けれども、まだ見ぬ明日への静かなる情熱は、より一層烈しく燃える気がした。
世子だった者の護衛が4名とかどうなんでしょう?
銃を持って薩摩に入れるのか疑問です。
老中の印状があるという事でお許しください。
次話、鍋島茂義の登場です。
ドラエモン状態の儀右衛門、嘉蔵さんですが、茂義もそうなりそうです。




