椋梨藤太
「ま、座れ。」
自分の前の座布団を指差し、籐太が言った。
松陰は一礼し、座る。
「何故だ?」
暫く無言であったが、突然の様に籐太は問うた。
何故だと言われても見当もつかない。
「何の事でございましょう?」
「しらばくれるな。お前が俺を越荷方の長に推挙した事は知っている。」
ああ、その事かと松陰は合点した。
越荷方の設置に当たり、清風に籐太の登用をお願いしていたのは事実である。
なので、正直に答えた。
「適任だと思ったからでございますが?」
「だから、それが何故なのだ?」
再びの同じ問いが、籐太の口から発せられた。
「それを何故だと言われても困るのですが……」
返答に困ってしまう。
そんなやり取りに苛立ったのか、籐太が一気にまくし立てた。
「俺が村田様の改革案に反対しているのは周知の事実だ。なのに何故、俺を越荷方の長に据える? 越荷方の将来性重要性は、誰でも分かる事。その長ともなれば責任は重大だが、他の者にすれば俺は大抜擢されたと言える。お前の企みは一体何だ?」
言うなりギロリと睨みつける。
嘘偽りでも言おうモノなら即座に叩き斬る、とでも言いたげな雰囲気であった。
そんな籐太の様子にふと忠蔵を思い出し、思わず笑みがこぼれる。
「何がおかしい!」
反応までそっくりであった。
しかし、これ以上続けては本当に刀を抜かれかねないと、松陰は顔を引き締め、真面目な表情で言う。
「藩の改革を考えればこそでございます。」
「何?」
「清風様の目指す改革案は片手落ちにございますから。」
「どういう事だ?」
籐太が更に険しい顔になる。
「清風様の改革は、専ら出る方を抑える事にございましょう?」
「だったらどうした。」
「無駄な出費を抑える必要は勿論ございますが、金は天下の回り物とも言います。より重要なのは入る方を大きくする事にございませんか?」
「そんな事は誰でもわかっている!」
「では、どうすれば入る方が増えるのですか?」
「簡単に出来れば苦労はせん!」
松陰の言葉に籐太は声を荒げた。
収入を大きく出来れば誰も苦労はしない。
最も簡単な方法は、年貢を重くする事だ。
また、商人に新たな税を課す事も出来る。
けれども、言うのは簡単だが実現は酷く困難だ。
領民の反発は必至だからである。
そんな分かりきった言葉が歳若い松陰の口から出たので、尚更腹に据えかねた。
藩主敬親の前で見事な講義をしたり、大胆不敵にも異国に渡ったりと、松陰の評判だけはよく聞いていた籐太ではあったが、藩の台所事情を理解している身にしてみれば、現実を知らない若者の戯言にしか聞こえない。
しかし、苦りきった顔の籐太に松陰が言う。
「やはり椋梨様も清風様と同じでございますね。」
「何?」
「それは目の前にあるのに、まるで見えない振りをしているかの様です。」
「何を言っている?」
言葉を無視し、続けた。
「我が藩の収入が増えない大きな問題は分かりきっているのに、知らん振りを決め込んでおります。藩の歪みを正さず、枝葉末節の細かい事ばかりをいじくり回して、結局はお茶を濁すだけに終わる。まるで子供のお遊びの様です。」
「我らを愚弄するか?!」
籐太は横に置いた脇差に手を伸ばし、手繰り寄せた。
今にも抜きそうに右手を掛ける。
これ以上の暴言を吐く様なら、一刀の下に切り伏せるつもりである。
火を噴く様な怒気を発し、松陰を睨みつけた。
しかし松陰の表情は変わらない。
変わらぬ表情のまま、言った。
「我が藩に巣食う病、それは撫育方です。」
「そ、それは!」
籐太の気勢は、松陰の放った一言であっけなく殺がれた。
愕然とし、刀に掛けた右手が宙をさ迷う。
そんな籐太にお構いなしに、松陰は次なる一語を繰り出した。
「撫育方の資金が豊富なのを皆が知っているから、藩政の改革に身が入らない。どうせ最後には何とかなると思っているから、誰も本気に取り組まない。余裕があるのが分かっているから、誰もに真剣さが足りないのです。」
「ぐっ!」
籐太は声に詰まった。
図星であったからだ。
痛い所を突かれ、反論も出来ない。
しかしどうにか気力を振り絞り、口を開いた。
「撫育方の資金は萩藩中興の祖、重就様の命で手をつけぬ事となっておる!」
撫育方とは簡単に言えば特別会計である。
重就の時代、新たな検地によって増えた石高の一部を別会計に回して保管し、塩の専売などに使って更に資金を増やしていく。
撫育方の資金は勘定に入れるな、が重就の命の様だ。
しかし、そんな籐太の抵抗を嘲笑うかの様に、ばっさりと切り捨てる。
「今更何を仰いますやら。元はと言えば、元就様の遺言とも言える、毛利は天下を所望せずを破ったから、関が原に敗れたのではございませんか?」
「そ、それは当時の天下の趨勢が……」
「では、今の藩の趨勢はどうでしょう? 藩士の多くは借銀に困り果て、所領を売り払う者まで出る始末です。着る物すら満足に揃えられず、借りて当座を凌ぐなど、目も当てられません。なのに撫育方には手をつけないのですか? 元就様がご存命なら何と申されるでしょう? 約束は破る為にあるとばかりに、景気良く使われるのではございませんか? 藩の経営が危機的状況なのに、後生大事に撫育方を抱えていても、それで藩に大事があれば本末転倒ではございませんか?」
「か、かもしれんな……」
元就様の名を騙るなど言語道断と、即刻処罰されるよう発言であったが、籐太の考えはそこまで及ばず、松陰の言葉に素直に納得してしまった。
日頃から、心のどこかではそう思っていたのかもしれない。
「どれだけ出るのを抑えた所で限界はございます! 藩士への支給を全て削りますか? 出来る訳がありません! 民草からは絞れるだけ絞って、けれども入るが足りないなどと! 撫育方がある為に、民は泣くだけでございます!」
「それは、そうかもしれぬ……」
長州藩の統治は、領民には厳しいモノであった。
勘定に入れない特別会計分まで税を納めているので、それも当然であろう。
現に長州藩では、他藩に比べれば影響は少なかった筈の天保の飢饉の際、江戸時代を通じても最大規模の農民の一揆が起きている。
一説には十万人が参加したらしい。
それでも、撫育方が廃止される事はなかった。
更に言うなら、高杉晋作や桂小五郎は撫育方の資金で派手な芸者遊びをしたり、外国の武器や軍艦を勝手に購入したりもしている。
撫育方のトップであった彼らであるので、その資金をある程度好きに使えたのだ。
下世話な見方をすれば幕末長州藩の権力争いは、撫育方の資金を巡る内輪揉めであったのかもしれない。
「それではお前は、撫育方をどうすると言うのだ?」
「歪みは取り除き、藩政を正さねばなりません。撫育方を縮小し、火急の事態に備える程度に留めるべきでしょう。公明正大に政治を行わなければ、民は納得致しません。納得しない民に重税を課せば、それは即ち藩への恨みとなりましょう。」
「う、うむ……」
「時代は激動の波に晒されようとしています。西洋が我が国に押し寄せ、開国を迫るでしょう。そうなれば、この日の本は今まで通りにはいられません。この国のあり方そのものが、変化を余儀なくされます。」
「それは聞いておるが……」
松陰がこれまで訴えてきた事は、萩の町には広く共有されていた。
アヘン戦争をみれば西洋の脅威は一目瞭然であったし、お隣で起こった事ならば、やがてこちらにも及ぶと考えるのが普通だろう。
籐太にもそれは十分理解出来ていた。
「いずれ徳川の世は終わります。」
「何?!」
しかし、松陰の言葉は籐太の想像を超えていた。
「いえ、徳川様自身がその手で終わらせるのです。」
「ちょ、ちょっと待て!」
「待てと言われても、西洋は待ってはくれません。否応無く、決断を迫られるのです。しかも一度後手に回れば心に余裕がなくなり、自分に有利な様に物事を進めるのが困難になります。西洋の求めるままに交渉に応じ、けれども国の内部の意見は固まっていないので、この国には分裂しか待ってはいません。」
「待てと言っている! 誰かに聞かれたら何とするのだ!」
幕府が終わるなどと、藩としての責任を取られかねない問題発言であろうか。
しかし松陰には関係がない。
その種は既に蒔いてきたのだから。
「ご心配なく。現将軍家慶様は勿論、次期将軍家定様にもご了承頂いておりますから。」
「は?」
籐太が間抜けな声を上げた。
徳川将軍が徳川の世を終わらせる事に同意しているなど、意味不明であろう。
そんな籐太の疑問には構わない。
「平安貴族の荘園経営から武士が生まれ、鎌倉武士が貴族から政治を奪いました。権威を持つ者による政治から、武力を持つ者が政治を司る事になったのです。やがて各地の守護大名が力をつけ、我が毛利家や島津家、織田家が覇を競う様にとなっていきました。社会の変化が新たな階級を生み出し、既存の秩序を崩していくのです。」
「お前は何を言っている?」
籐太の頭は更に混乱した。
その様な事など、考えた事もなかったからだ。
しかし松陰は続ける。
「泰平の世は我が国だけです。国の外へと目を向けてみれば、西洋列強による覇権主義の真っ最中です。力の無い国は列強の植民地となり、持つ富を為す術なく奪い取られています。」
「それは、聞いたが……」
「では、西洋の力とは何でしょう? 一つには武器です。科学技術の力です。」
「それは、そうであろうな……」
それには籐太も納得出来る。
蒸気の力で進む船、大砲の事は耳にしていた。
「それともう一つあるでしょうか。」
「何だ?」
「国のあり方、統治のやり方でしょう。」
「統治のやり方?」
「はい。西洋とて一昔前は一人の王を戴き、武力を持った者が諸侯に別れ、それぞれの領地で政治を行っておりました。」
「そうなのか?」
「はい。我が国と似た様なモノです。」
「我が国と同じ……」
細かな所は違っても、大枠ではどこも似たり寄ったりである。
「西洋は争いの歴史です。常に戦争を行っております。争いに負けると、社会制度の大幅な刷新が図られてきました。何故なら、勝った方は体制を変える必要はありませんが、負けた方は二度と負けない様に、社会を変革しないといけないからです。」
「な、なる程……」
必要は発明の母という。
それは政治の制度、社会のあり方にも言えるだろう。
封建制では即応的な軍事行動が取れず、中央集権体制が生まれた。
そうなれば統合の象徴が必要となり、民族国家という考えが芽生えた。
使用言語が統一され、国境も画定されていった。
また、技術によって変化がもたらされる場合もある。
通信手段の発展によって、支配地域を拡大する事が出来た。
銃の発明は、それまでは個人の力量に依存しがちであった戦いの方法を変え、武器の性能とそれを備える資金力を必要とし、統率の取れた集団戦を可能にする兵士の訓練を求める様になった。
それは半農半兵から専属の兵士を揃える事へと繋がった。
兵器が発展し、大砲が野戦で使われる様になると、今度は密集する事が無意味となり、またも戦い方は変化していく。
「我々が天下泰平の世を謳歌している間も、西洋では常に争いが起き、技術の進歩と社会の変化が起こり続けていたのです。どこかが優れた政治制度を採れば隣国は真似をし、出来の良い品があれば模倣し、知識の共有が為されてきたのです。」
「う、うむ……」
「今の我が国の様に、それぞれの藩で西洋に対抗する事は出来ません! 西洋の国家は、既に諸藩を統一しているのですから!」
「な、なる程……」
「従って徳川の世も終わるのです! これは将軍様もご承知です!」
「そ、そうであるか!」
籐太も理解した。
どうして将軍がそれを承知しているのか、までは深く考えない。
「藩がなくなる前に、撫育方の資金を有効に使って我が藩の開発を進めねばなりません! 領民の富を増やすのです! 商人の活動を支え、商売の繁盛を図らねばなりません!」
「それは確かにそうだ!」
であるから、質素倹約を旨とする清風の改革案に籐太は反対していた。
「従って、越荷方を成功させるには椋梨様しかいないのです!」
「うぉ?!」
「商売に理解を示し、適切な資金投下に躊躇しない方でないといけないのです!」
「い、いや、それ程でも、ないぞ。」
照れているのか籐太の顔が赤い。
「椋梨様! 白石正一郎の意見を十分に取り入れ、越荷方を是非とも成功させましょう! 私も粉骨砕身、頑張らせて頂きます!」
「お、おぉ!」
こうして、椋梨籐太との友好関係が築かれた。
後日、清風が長府に向かった日、松陰は暇をもらい、とある村を訪れていた。
竹崎の白石邸より山陰道を逆行し、暫くして東に逸れる。
何となく見覚えのある地形を進み、求める場所を探し出した。
「当たり前ですか……」
力なく呟く。
そこには田んぼだけが広がっていた。
民家はまばらで、前世の様子とは隔絶した風景である。
刈り終わった田んぼの景色が広がる中、松陰はただ突っ立っていた。
「この時代、南原家がここにいたかも知りませんしね……」
それは前世、松陰の生まれ育った家である。
前々から探しに行きたいとは思っていたが、念願叶い訪れる事が出来たものの、待っていたのは田んぼであった。
前世の両親、近所の友人の顔が思い出される。
周りの山々、川などは記憶通りであるので、尚更に胸に迫るモノがあった。
形容しがたい感情が襲う。
「どうした?」
用心棒がてら付いて来ていた才太が尋ねた。
「才太さん、待つ人がいるというのは良いですね。」
「藪から棒に何だ?」
松陰の言葉に眉を顰める。
「お子さんは可愛いですか?」
「愚問だな。」
「そうでしたね。」
即答ぶりに松陰は笑った。
「何だ、羨ましいのか?」
「そうかもしれません。」
「お前は嫁を貰ったのだ。嫁と子を作れば良いだろう?」
「そうですね。何だか無性に子供が欲しくなりましたよ。」
「本当にどうした? この地に何かあるのか?」
「いえ、命の継承とは素晴らしいモノだなと思いまして……」
「爺臭い事を言う奴だな……」
前世の自分が生まれたのは、今のこの時代、どこかにいる筈のご先祖様がいるからだ。
絶えず命が続いてきたのだと思うと感慨深い。
前世では命を繋ぐ事が出来なかったが、今はありがたい事に吉乃と出会えた。
吉乃に会いたいと強く思った。
藤太さんがチョロすぎでしょうか?
更新の速度を常にこれくらいに出来れば良いのですが・・・




