越荷方と白石正一郎 ★
新婚旅行を終えて暫くし、松陰はまた旅に出る事となった。
練成館の開設の為、佐賀藩武雄の鍋島茂義の元に赴く為である。
その際、長州藩の代表として村田清風自らが名乗りを上げた。
薩摩藩からは家老調所広郷が来る手筈となっていた為、出席者の格の釣り合いを考えての事だ。
「おやおや、まあ、随分と楽しそうですわね。」
出発の前夜、そわそわとして落ち着かない夫をお美代がからかった。
「何を言う! これは大事なお役目じゃぞ? 緊張しておるだけじゃ!」
妻の言葉を慌てて否定する。
口ではそう言いながらも、これから成し遂げようとする練成館の事業を思えば、清風の心は躍りださずにはいられなかった。
藩の軍制改革に奔走した経験を持つ彼である。
練成館で成そうというモノの意義に、深い理解を示していた。
そうであるので、己の手で成功への筋道をつけたいと、密かな決意をしていたのだ。
そして出発の朝。
「お土産は何があるのでしょうねぇ?」
お美代が意地悪げに夫を見やる。
「し、心配いたすな! 必ず買ってくる!」
「うふふ、冗談でございますよ。」
「目が笑っておらんのじゃ……」
吉原に通っていた事がばれ、目下チクリチクリとやられている清風。
機嫌を取る為にも、お土産は欠かせないだろう。
一方、
「行ってらっしゃいませ、お前様……」
「行ってきます……」
何やら未練たっぷりな様子で、女房に別れを告げる者がいた。
新婚ホヤホヤの松陰、吉乃夫妻である。
双方共に定住は出来ない為、新居を構える事も出来ず、江向の杉家に留まっている。
従って、周りには他の家族やお菊らもいるのだが、今はお互いしか見えないらしい。
「あやつには、心に決めた女子がおった筈ではなかったのか?」
「そないな事は言いっこなしやでぇ。」
才太の呟きをお菊がたしなめた。
萩の地を出発し、山陰路を南下する。
小さな漁村が点在するだけの山陰路は、江戸を知る者には寂しさを感じるものの、その旅路の途中で目にした、どこにでもあった平和な村の風景であった。
松陰の心に、ふいに前世の記憶が蘇る。
車と山陰線とではあったが、何度も通った道だった。
見えている景色は違うのだが、どこか見覚えがある気がした。
胸を締め付ける様な寂寥感が湧く
麟洲を含めた一行は途中に休憩を挟み、馬関(今の下関)まで共に歩き、海峡の様子を見物した。
この地に設置する越荷方の構想を共有する為である。
積荷を満載して日本海を南下してきた船は、この海峡を通って大坂へと向かう。
九州を目の前とするこの狭い海峡では、多くの船がその帆に風を受け、海上を進んでいた。
「なる程な。薩摩に向かう船ならば、ここに荷物を集積してもらうと大いに助かる。」
麟洲が感想を述べた。
この地に北からの物資が集まれば、大坂まで出向いて物を買う必要はなくなり、大幅な費用の軽減と時間の短縮、ひいては船員の安全に繋がろう。
「大坂や薩摩、北国の売買価格を表示し、船主の判断で荷物の売り買いが出来る様にしようと考えております。」
出発してからは気持ちを切り替えた松陰が、計画の一つを口にした。
例えば蝦夷で買い集めた昆布を、大坂で売ろうか薩摩で売ろうか迷っている船主がいたとする。
出来るだけ高く買ってくれる所に持って行きたいのが人情だろう。
しかし今までは、その地に着いてみない限り、正確な買い取り価格は分からなかった。
途中の港で、船員同士の繋がりで情報の交換をしていたが、急に変わるモノが相場である。
仮に前日、誰かが大量の昆布を大坂に持ってきていたら、今日の買い取り価格は下がっているかもしれない。
逆に薩摩に持って行っていたら、倍の値段が付いていたかもしれない。
けれども、馬関の地で大坂、薩摩双方の昆布の買い取り価格が比較出来れば、どちらに持っていった方が利益が大きいか分かるのだ。
通信手段の限られる当時、即日とまではいかないが、早馬などを使えば数日前の情報は手に入る。
大坂に向かうか薩摩に向かうかを決める最終地点は、瀬戸内海と豊後水道が交わる現在の防府沖であるが、馬関での相場情報は大いなる判断材料となろう。
「そんな事まで考えていたとはな……」
「儂も初めて聞いたぞ……」
麟洲と清風が溜息交じりに呟く。
そして麟洲と別れ、松陰らは赤間関(現在の下関)竹崎、白石邸を訪れていた。
越荷方を設置するに当たり、この地の豪商である白石正一郎の協力を得るのは当然過ぎた。
以前より越荷方の構想を持っていた清風である。
独自に正一郎と接触をしており、今回が初めての直接の面会となった。
小瀬戸の海を挟んだ向かいに彦島を眺め、白石邸はある。
因みにこの彦島は、長州藩と英仏蘭米の四国艦隊との間で起こった戦争において、敗戦の賠償として割譲を迫られた地であったりする。
その時は高杉晋作の奮闘によって割譲を免れたのだが、もしもそうなっていたら彦島は、今の香港の様になっていたかもしれない。
一方の麟洲はその足で薩摩の地を目指し、調所広郷と共に武雄にやってくる。
時間短縮の為、馬関より船を使った。
「村田様がわざわざ私めの屋敷にまで、自ら足を運んで下さいますとは!」
松陰の眼前には、清風に向かってひたすら平伏する正一郎がいた。
史実では脱藩した坂本龍馬を匿い、高杉晋作や久坂玄瑞を援助した男である。
支援しすぎて商会の経営を傾けたとも言われるこの男は、西郷隆盛曰く、温和で実直、清廉な人物らしい。
その正一郎は清風から便りをもらい、越荷方の事は理解していた。
自らもその様な思いを抱いていたので、清風の慧眼には恐れ入っていた。
けれども、まさかその本人が直接自分を訪ねてくるなど思いもしない。
恐縮し、感激し、興奮する事しきりであった。
「これ、顔を上げぬか。これでは話も出来んじゃろう?」
一向に顔を上げない正一郎に、清風も苦笑いである。
麟洲が薩摩へと戻り、広郷と共に佐賀にやって来るのは、早くても十日は必要だろう。
こちらの移動時間を考えれば、六日後には馬関の地を発たねばなるまい。
それを考えれば時間はあるが、話し合わねばならない事は多い。
いつまでも平伏したままでは埒が明かなかった。
「失礼しました!」
正一郎は慌てた様子で顔を上げる。
真面目そうな男であった。
「この度参ったのは他でもない。前からその方には報せておったと思うが、越荷方を設置する事が決まったのじゃ。」
「遂にですか!」
清風の言葉に正一郎が弾んだ声で応える。
今か今かと待っていたので、興奮もひとしおであろう。
「それに伴い、蔵を建てる場所、役人の詰め所等、決めねばならぬ事は数多い。その方の意見を聞きたくて参った次第じゃ。なんせ儂らは商売の事は承知せぬ。その道の者に聞くのが一番早いであろう?」
「光栄に存じます。それらにつきましては、誠に僭越ながら、私めに考えがございます。」
正一郎が自信ありげに言った。
「ほう? どの様な考えじゃ?」
「明日、現地を見て下さるのが一番かと思いますが……」
その答えに清風もニヤリとする。
「お楽しみという訳じゃな。では、明日、現地で説明を受けようか。」
「お任せ下さいませ!」
畏まって答えた。
そして顔を上げたかと思うと、声の調子を変え、口を開く。
「お尋ねしても宜しいですか?」
「何じゃ?」
「村田様のご予定は、どの様になっているのですか?」
「うむ。六日後には佐賀を目指し、この地を発つ予定じゃ。」
「それまではどちらに?」
問われて清風も答えに窮した。
正直、そこまできっちりとは考えていない。
「折角ここまで来たのじゃから、長府には顔を出しておこうかと思っておる。」
「なるほど。」
長州藩には支藩が三つある。
長府、徳山、岩国である。
その一つ、長府藩には清風の顔なじみも多い。
越荷方の設置を伝えておく必要はあろう。
「お泊りはどちらにされるのですか?」
「それじゃが……」
「是非、私めの屋敷をお使い下さい!」
正一郎が是非にと懇願する。
予定調和であろうが、清風は了承し、お願いした。
「それでは、厄介になるぞ。」
「村田様をもてなせるなど、あり難き幸せにございます!」
こうして、一行をもてなす宴会が決まった。
「おっと、そうそう、大事な事を忘れておった。越荷方の長には、この椋梨籐太が就くのでな。宜しく頼むぞ。」
「椋梨という。今後、世話になる。」
「ははぁ。宜しくお願い致します!」
清風が、後ろに控えていた籐太を紹介した。
この椋梨籐太、史実では、清風の後継者である周布政之助らと藩を二分する争いを起こす、佐幕派の代表的人物である。
一時は藩内を掌握しかけたが、高杉晋作のクーデターによって権力の座を追われ、捕らえられて斬首された。
藩政の改革を進める清風らの陣営を改革派、後に正義派と称し、籐太らの陣営を俗論派と言う。
その夕刻、白石邸では盛大な宴会が執り行われた。
流石は豪商の催す宴であろうか。
近海で取れた海の幸が所狭しと並び、蝦夷から運ばれてきた産物も食卓を賑わせる。
普段は質素な食生活を送る者達である。
見た事もない様な品々が並ぶ中、初めて食す味に皆感嘆した。
秋帆、庄吉らも交え、旅の疲れを労う酒を酌み交わす。
皆たらふくに食い、しこたまに飲んで歓待に応えた。
その夜、松陰は籐太に呼ばれ、彼の休む部屋へと向かう。
「吉田です。」
「遠慮するな、さっさと入れ。」
「失礼します。」
どこかぶっきら棒な印象を受ける籐太である。
何があるのかとやや緊張し、松陰は部屋へと入った。
籐太は部屋の奥、静かに座って待っていた。
旅の日数については適当です。
売買価格の表示というのか、そういうのは普通に行われていた気がします。
ですので、情報の速さを確実にする、と言う事でご了承下さい。




