萩へと帰る
「父上、母上、ただ今戻りました!」
松陰は江向の杉家に着いた。
何度目かの懐かしさと共に、敷居をまたぐ。
「兄様?!」
妹の寿が真っ先に気づき、駆け寄ってきた。
「ただ今、寿! 元気にしてたかい?」
「はい!」
「父上と母上は?」
「父様は白花虫除け菊の畑に、母様はそのお手伝いだと思います。」
「そうか! ありがとうな、寿。」
「はい!」
松陰は客らを迎える為、外に出た。
「とりあえず皆さんは上がってお寛ぎ下さい。私は父に挨拶してきます。」
「まあ、待て。白花虫除け菊とは例の植物であるな? 余も見たい。」
「わっちも……」
二人の会話を耳にした麟洲が言った。
莫大な利益が見込めるだろうという物なので、興味がある。
吉乃については、松陰の父親に真っ先に挨拶しておきたいのであろうか。
「こっちはうちに任せときぃ。」
勝手知ったるお菊が告げた。
「では、宜しくお願いします。」
「兄様、私が案内します!」
「じゃあ、お願いしようかな。」
「はい!」
寿が嬉しそうに駆け出した。
庄吉家族らを残し、松陰は畑に向かう。
畑の一画に百合之助の姿を見つけ、声を出す。
「父上、母上、ただ今戻りました!」
「戻ったのか!」
「無事だったのね!」
「お元気そうで何よりです!」
「あれ? 小五郎君も?」
「お世話になっております。」
畑の作物を見ていた父百合之助がその手を止めた。
母滝は艶と共に木陰で休んでいた様だ。
百合之助の横には桂小五郎がおり、雑草でも抜いていたのか、その手には草が握られている。
「花が咲いたのですね!」
「うむ。」
目の前にはシロバナムシヨケギクが、名前の通りの白い花を揺らしている。
コスモスにも似た白い花である。
松陰が萩を出た時には種であったので、その違いが感慨深い。
この花が全て種をつけたなら、近隣に広める事も出来るだろう。
百合之助と松陰は、目を細めて畑を眺めた。
「麻の方も、しっかりと育っておりますね。」
別の一画に育っている麻が目に入り、松陰が言った。
二宮尊徳から貰った麻の種である。
「荒地でも育つので役に立つな。そもそもが繊維として使えるし、種を取っても良い。種子から油を絞り、絞り粕は鶏の餌にやったとしても、茎の残渣は紙の原料に使えて無駄が無い。」
「さすが二宮先生です!」
「まあ、そういう事にしておこう。」
松陰としては麻の実を鶏の飼料にし、卵の生産を目指したい。
そんな者達をおいて麟洲が感想を述べた。
「ほう? これがその菊なのか? 見た所、普通であるな。」
「綺麗でござんすな。」
見た目はどこにでもありそうな菊であり、儲けになりそうには思えない。
「そちらの方々は?」
百合之助が息子に尋ねる。
「そうでした! こちらは麟洲様で、集成館の館長をお願いしたお方です。」
「何と?!」
息子の計画は一通り聞いていたが、集成館と言えばその要である。
その館長を任せると言う事は、それだけの人物だという事だろう。
「麟洲という。暫く厄介になるぞ。」
「甚だお粗末なおもてなししか出来かねますが、どうぞお寛ぎ下さいませ。」
そして吉乃の紹介に移る。
松陰が何と言うのか気になり、吉乃は緊張して待つ。
「こちらは吉乃さん。私の妻です。」
「ええぇ?!」
百合之助ら家族は元より、紹介された吉乃すらも驚く、松陰の言葉であった。
「松陰さん? 本当に?」
聞き間違いかと確認する。
そんな吉乃に松陰はにっこりと笑いかけ、言った。
「こんな私で宜しければ、夫婦になって頂けませんか?」
「は、はい! 喜んで!」
答えて吉乃は嬉し涙を流した。
何やら順序が違う様だが、これで二人は夫婦である。
旅路の間に松陰の考えが変わったらしい。
カレーの妖精さんの事は、その時になって考えようと思った様だ。
まだ見ぬ人の事よりも、目の前の人を優先しようと決めたのであろう。
吉乃に家族を紹介していく。
「私の父百合之助と、母滝、妹の寿と艶です。彼は桂小五郎君で、この国の将来をしょって立つ、未来の英傑です。」
「え?!」
小五郎が一人ギョッとする。
「吉乃でございます。至らぬ所ばかりですが、どうぞ宜しくお願い致します。」
「あぁ、吉乃さん、宜しく頼むよ……」
吉乃が深々と頭を下げ、百合之助がぎこちなく応えた。
「そういえば、梅太郎と千代はどうした?」
それぞれが二人に祝福の言葉を送り、二言三言言葉を交わし、気づいた百合之助が言った。
姿が見えない長兄長女を不思議に思ったらしい。
「兄上は葛飾北斎先生に弟子入りし、千代はファンリンの手伝いで江戸に留まっております。」
「な、なる程!」
浮世絵師葛飾北斎の名は、萩にいても耳にする。
今更少々の事では驚かない百合之助であるが、それでもやはり心臓には宜しくない。
平凡でしかない自分であるのに、子供達はあれよあれよと言う間に信じられない人々と関わりを持っていく。
置いていかれる様で寂しい気持ちもあったが、自分には自分の天命があるだろう。
とりあえずは、息子達が真っ直ぐに進む様に口を出す事であろうか。
「お前が決めた事だから口出しは無用であろうが、村田様にはしっかりと報告するのだぞ?」
結婚にしろ梅太郎らの事にせよ、考えあっての事だとは知っている。
とやかく言うつもりはないが、通す筋だけは守らせねばなるまい。
百合之助の言葉に松陰が応えた。
「早速今から身支度を整えまして、ご挨拶に伺おうと思います。」
「それが良いな。」
「麟洲様と吉乃さん、それに庄吉さんは、どうしましょう?」
「庄吉さんとはどなたか分からぬが、まずはお前だけが挨拶に伺い、事情を説明するのがよかろう。着いたばかりであろうし、麟洲様、吉乃さんは家で休んで頂けばよいのではないか?」
「分かりました、父上。」
百合之助の言葉に従い、着替える為に家へと戻った。
麟洲と吉乃もそれに続く。
見送る寿は未練たっぷりで、請う思いで百合之助に尋ねた。
「父様、私も兄様にご一緒してもいいですか?」
「うむ、そうだな。お美代様にご迷惑をお掛けするでないぞ?」
「はい!」
村田清風の妻美代は、江向の杉家に気さくに顔を出してくれていた。
忙しい清風に代わり、江戸藩邸からの便りを杉家に報せてくれていたのだ。
従って、江戸での松陰らの大まかな動向は知っている。
また、上の兄や姉が全部いなくなってしまった寿を不憫に思い、何かと気にかけてくれていた様だ。
寿にとっては、寂しさを紛らせてくれる優しい存在であった。
それに、待ちに待っていた兄松陰の帰宅である。
台湾より戻ってきた時はすぐに江戸へと発ったので、ごく僅かな時間しか一緒に居られなかった。
萩の町の話題の中心であった兄の事は尊敬していたが、寿自身は満足に話した事もない。
今が絶好の機会であろうと考え、一緒に付いて行きたかった。
「兄様、私もご一緒致します!」
「そうかい? じゃあ、一緒に行こうか。」
「あの、手をつないでもいいですか?」
「勿論だよ。よし、行こう!」
「はい!」
こうして兄と妹は仲良く手をつなぎながら、清風宅へ歩き出した。
話題には事欠かない。
「お美代様、吉田松陰、ただ今戻りました!」
「よくぞ無事に帰られましたね……」
「はい。」
江戸藩邸からの報せがあったとはいえ、やはり直接顔を見ない事には安心出来ない。
こうして無事な姿を見る事が出来て、お美代は心から安心した。
「さあ、お上がりなさいませ。あの人も待ちかねていますよ。」
「失礼します。」
「寿ちゃんも、よく来てくれたわね。さ、こっちにいらっしゃい。」
「はぁい!」
清風の待つ部屋に向かった。
「清風様、吉田松陰です。」
「おぉ! 帰ったか! ささ、早く入れ!」
「失礼します。」
部屋には長州藩の重鎮村田清風と、坪井九右衛門が待っていた。
「息災であった様じゃな。」
「お陰様で、どうにか無事に帰ってこれました。」
「大まかな所は知っておる。早速、その詳細を聞かせてもらおうかのう。」
「分かりました。」
松陰は萩を発ってからの事を、細かくなりすぎない程度に詳しく話した。
「何と言って良いのかのう……」
「左様。言葉がありませんな……」
清風と九右衛門が互いを見やり、言った。
「とりあえず、スズが大奥に残ったのは理解したのじゃが……」
可愛がっていたスズがおらず、何かあったのかと清風は心配したのだ。
「しかし、大奥におったら、まかり間違って将軍様のお手つきなんぞと言う事になりはせんじゃろうか?」
それは藩益を考えれば喜ばしい事の筈なのだが、清風にとってはそうではないらしい。
「それは心配無用にございます。任子様が目を光らせてくれておりますし、何より、家定様には私がしっかりと言い含めておりますから。」
清風を安心させる様に言う。
しかし当の本人は、尚も困惑している。
「良いのかのう? 将軍後継者家定様とか、その正室任子様とか、気軽に口にして……」
「……今更ではないですかな?」
「じゃろうか……」
二人して溜息をついて諦めた。
「それと、この度嫁を娶りました。」
「何?!」
本日一番の衝撃だったかもしれない。
「して、その相手とは?」
「吉乃さんという人です。後ほど改めて、二人で挨拶に参りたいと思います。」
「何と?! 共に旅をしてきたのか?!」
「まあ、そういう事です。」
「何と羨ましい奴じゃ……」
これまで忙しく働いてきた清風の夢は、妻美代との旅行であった。
長年苦労をかけてきた妻と、伊勢神宮にでも参りたいと密かに願っていた。
そんなささやかな夢を軽々と越えていく松陰に、清風の心は軽い。
忙しさから無理だと思っていたが、目の前で実行されると大した事には思えなくなってくる。
「祝いの席を設けねばならんのう。」
「特別扱いすると他の者が嫉妬しかねませんよ?」
「それは心得ておる。」
内々に、こじんまりとした席を設ければ問題はないだろう。
「それはそうと、どこで知りおうたのじゃ? どこの娘なのじゃ?」
「これはこれは、大層面白そうなお話をされていますのね。」
お美代が新しいお茶を持ってきた。
堅苦しい話は終わったので、お美代と寿も参加しての結婚報告となる。
「して、どこの娘さんなのじゃ?」
清風が改めて尋ねた。
「吉原です。」
「なぬ? 吉原という事は、まさか?!」
「はい。吉乃さんは元遊女です。」
「なんと! しかし、身請けの元手はどうしたのじゃ?」
「人の良い商人の方が手助けして下さいましたよ。まあ、蒸気船を買って下さった方ですので、交易路への投資だと思ってくれた様です。」
「さ、左様か!」
蝦夷から台湾、広東までを繋ぐ交易回廊には、蒸気船の活躍が見込まれる。
いち早くそれに気づいたとしたら、それは只者ではあるまい。
「しかし吉原の遊女とはな……」
「何か問題でもございましたか?」
「いや、そういう事ではない。吉原といえば花魁道中じゃなと思い出してな。儂も若い頃は憧れたものじゃ……」
「それは初耳でございますね。」
昔を懐かしむ風の清風に、お美代がピシャリと言い放つ。
にこやかな顔は変わらないが、何やら険のある笑顔に見えた。
長年連れ添った夫婦といえど、許せぬモノはあるのだろうか。
清風が慌てて誤魔化す。
「い、いや、それは、じゃな……。のう坪井? 男なら誰でもそうじゃよな?」
「いえ、私は勤めが忙しくて吉原なんかとてもとても……」
「この裏切り者め!」
九右衛門の言葉に狼狽する。
「儂のは昔の憧れじゃ! 今はこやつの事であろう? 吉原で遊女を娶った張本人ではないか!」
とうとう松陰を生贄に捧げる始末。
それに対して松陰が異議を申し出た。
「私は隠し事を致しておりませぬ。それに、吉乃さんはその花魁道中を歩いた花魁ですよ。」
「何じゃと?!」
「それはなんとまあ!」
「花魁を身請けとはな!」
三者三様に驚く。
そして、吉乃との馴れ初めなどを詳しく問い質す、清風とお美代であった。
その後、杉家にて、松陰と吉乃との婚礼の儀が執り行われた。
台湾へと密航し、江戸に送られた話題の人物の結婚話である。
しかもその相手が吉原遊女の花魁とあっては、噂を聞きつけた萩の住民達が放っておく筈が無い。
内々に済ませるつもりであったが、町中を挙げて祝う、大袈裟な事になっていった。
吉乃の化粧姿に見惚れる者が続出し、悪乗りした松陰が白粉姿で登場し、場を沸かせた。
こうして、萩の町を大いに賑わせ、松陰と吉乃の婚礼は済んだ。
記念にと、長門湯本温泉に足を伸ばす。
今で言う新婚旅行であるが、二人きりの旅という事で吉乃は大いに喜んだ。
以後、新婚の者は、夫婦で旅行をする事が萩の流行りとなり、国中に広がっていく。
松陰は吉乃と結婚してしまいました。
どうしようか迷いましたが、主要な登場人物は全て幸せになってもらいたいので、お許しください。
途中で吉乃に死んでもらう様な、安易な展開にはしないつもりです。
当時の藩士は江戸勤務があったりしますので、単身赴任は普通です。
松陰も、結婚しても吉乃との生活がある訳ではありません。
吉乃もそこは分かっています。
坂本龍馬とも、小松帯刀とも言われる日本初の新婚旅行ですが、松陰に口火を切ってもらいました。
次話より集成館の話を進めていきたいと思います。